富士川游著述選 第一巻  真実の道  東京厚徳書院発行  刊行の辞  回顧すれば、不可思議なる因縁で約三十年前私は図らずも富士川先生に面唔の機を得、それ以来多年大いなる力の下に指導啓発せられたのである。偶々、大正十三年中山文化研究所の綜合機関創設と共に児童教養研究所、女性文化研究所其他の各分科機関整備充実に当り、先生は私の希望を容れられて、特に女性文化研究所々長として、女性の文化生活上科学知識の普及並に精神生活の信念確立に関する重要問題の研究指導に当られ、其後文化研究所長として之を主宰せられ、昨昭和一五年十一月六日高齢七十六歳を以つて逝去せられる時まで、その該博なる科学的知識と、深遠なる宗教的思索とを以つて、本所創設の使命遂行のために熱心尽瘁せられたのであつた。  先生は常に、真の文化の根帯に欠くべからざるものは宗教的信念なりと唱道せられた。然るに宗教に就いての一般的理解が識者の間に於いてすら皆無に近いか、或は極めて幼稚であり、又甚だ歪曲せられて居ることを遺憾とせられ、先生の後半生は殆どその全力を真の宗教的信念の普及に傾到せられたのであつた。就中、文化研究所に於いて婦人精神文化等の講座を順次に開催せられ、宗教の本質に就いて、或は科学と宗教、或は哲学と宗教との関係について諄々と説述せられ、以つて宗教の真髄を闡明《せんめい》することに力められたのであつた。さうして、一面「釈尊の教」「親鸞聖人の宗教」「弥陀教」「倫理と宗教」「宗教生活」「迷信の研究」等の論著を公にせられ、又雑誌「精神文化」及び「法爾」等には毎月その宗教的思索と体驗とを載せられたのである。  今や、曠古未曾有の難局に際會し、国民思想の昏迷は識者の最も深き憂とするところ、殊に、大東亜建設の重責を有する我が国民の精神生活にゆるぎなき信念を確立しなければならぬといふことは、心あるものの齊しく考へてゐるところである。この時に方り、真実なる宗教的信念を確立し、正しき情操の涌養に力めて国民の感情を醇化《じゆんか》することは蓋し最も喫緊の要務である。今こそまことに富士川先生の如き透徹せる宗教的信念に生くる指導者を要望すること最も大なるの秋である。隨つて私は常に先生の矍鑠《かくしやく》さと其の高潔なる風格とを以つて更に長く後進を薫陶せられむことを切に願つてゐたのであるが、今やその希望は空しくなつた次第である。仍つて其の遺稿遺文を輯《あつ》めて之を世に公にすることは本研究所本来の目的達成に資する所以なりと信ずる。幸にして、深遠なる教義を平易に闡明せられたる先生の珠玉の文字は累積してゐるので、夫等の内から代表的なりと思はるるものを選びて上梓し、其の芳躅を永へに遣し、千載の後なほ真実の道を伝へ、これを求むるものの指針たらしめむとし、敢て之を公刊して江湖に薦むる所以である。  昭和十六年四月下浣 中山文化研究所 中山太一  目 次  真実の道  緒言  智慧のはたらき  智慧を補ふ  宗教のはたらき  宗派と教義  主観の心の相  精神の修養  物質的自覚  物質の世界  精神的自覚  道徳的自覚  道徳の意識  厭離穢土  道徳と宗教  宗教的自覚  宗教の意識  内観  宗教的の感情  妙好人  転悪成善  本願に乗る  盗まれて感謝する心  無我の心  宗教の定義  宗教的の思考  絶対の信頼  最上の帰命  自分の心のはたらき  自己の反省  自然的宗教  精神的宗教  仏教の創始  跋伽仙人  阿羅邏仙人  鬱陀羅仙人  成道  初転法輪  五蘊  八正道  心を本とす  心の世界  形は心の成すところ  我を離る  阿濕波誓等  因縁の法  自在天因  十二因縁  生死の苦界  唯円房  業因縁  因縁の結果  因縁法の誤解  感涙を流す  随喜悲喜  直心房  得手勝手を離る  熊谷直実  平敦盛の子  玉琴姫  恩怨一如  法のまま  迦葉  大苦の集合  苦と樂と  自我の成立  優陀夷  浄飯王  身口意の三業  因果応報  鐵眼禅師  法輪  三決定  廢悪修善  夢幻の罪  越後のお霜  法を知る  四つの法  四法の譬喩  自から其心を浄くす  心の沐浴  心の邪魔  心の縛  死を恐る  心に導かる  唯心的一元論  心の世界  一人四婦の譬喩  意を正しうす  心と業  業と運命  商業の所感  諦めの言葉  自己を依所とす  自分を求めよ  四苦八苦  綺麗の心  不可思議  一切を包容する  盤珪禅師  我想を離る  感情に導かる  喜びの心  自力の教  他力の教  鬘童子  内省の境地  忍辱の法  無我  堪忍  道徳の徹底  宗教の心持  内省の不徹底  自己を知る  精進努力  僧弘海  聴聞  内愚外賢  自己を映す鏡  佐々木高綱  庄之助  体驗と真似  内省と宗教  内省の方法  神仏をはかる  功利的の考  人間以上の力  不思議の力  智慧を離る  推理にあらず  今ばかり  自己を責む  教導する心  治郎右衛門  菱屋了玄  因果の道理  業報を甘受す  人の字  おれがおれがの鬼  慎しみの心  足上頭下  順の道に違ふ  機縁あれば  人を責めず  浅間しい心  煩惱具足  人を裁く  助けられる  悪人正機  廃悪修善  業の相続者  内省の極致  責任を他に嫁す  嫁の心が変る  家庭不和  己に反る  責任を仏に譲る  徒らに仏を拝む  愚悪の心  私の経驗  機の深信  法の深信  二種深信  妙好人善太郎  波斯匿王  不奢密  真相を究む  勝鬘夫人  煩悩  見惑と思惑  四聖諦  苦諦  集諦  滅諦  道諦  仏性  求道者  業の力  因縁和合  法に隨ふ  業に牽かれる。  運  心の聾  心の内へ  不可思議の心持  宗教の誤解  修身の教  夫婦喧嘩  歌の徳  忍從  我是他非  浄念房  功利的  愚悪の辨護  畜生の徒者  他人の非  我を捨つ  弥陀教  序論  釈迦教  頓教  釈尊の精神  釈尊の教  廢悪修善  諸行不及  法の信仰  真実の法  法を見る  小乗  阿弥陀仏  聖道の実際  観仏と念仏  観念の念仏  称名の念仏  浄土教の実際  空也上人  恵心僧都  勧進の偈  厭離穢土  観無量壽経  三の罪  弥陀の本願  唯信  寶物集  寶の数々  宗教の価値  智能と感情  仏道修行  往生の十二門  天台宗の実際  道徳の心  智光と頼光  教信沙弥  源氏物語  和泉式部  枕草紙  今様  想仏恋  謡曲  念仏往生  如法修行  易行道  往生要集  地獄極樂  横川法語  口称の念仏  真率の態度  念仏の拡布  專修念仏  法然上人  戒定慧  如法と応機  專念仏名  念仏為本  善導と恵心  称名念仏  浄土宗  ただの念仏  明遍僧都  重病者  弥陀の他力  生れつきの儘  教阿弥陀仏  かざる心  仏のみ知る  念仏者の用心  対機説法  親の名を呼ぶ  専修念仏の辨明  三途の業  如水の金言  如説修行  応機  凡夫往生  報土往生  修行を捨つ  本願乗托  口称三昧  常持の言  本願を信ず  他力の譬  法爾の道理  自然に帰る  自是他非  煩悩具足  極樂  読誦と念仏  念仏宗  その余弊  住蓮安樂  三心  至誠心  虚仮の人  深心  廻向発願心  起行  三縁  正定業  三心の沙汰  法蓮房  西阿弥陀仏  念仏往生の現証  対機説法  十人十色  隨類得解  信と行  念仏の説明  勸信誠疑  定善と散善  下品下生  白木の念仏  世間超越  教團の成立  大乗仏教  親鸞聖人  貴重の教  自分の相  内省と努力  浄土の法門  実行の方面  信心為本  弥陀教  真実の道  緒言  私は「真実の道」と題して、仏教のお話を致したいと考へます。「真実の道」とは「真実に生きて行く道」に外ならないのであります。真実に生きるとは、結局吾々の精神生活を立派なものとして、自身のために自由安樂の世界を造ることはもとより、社會の一員として、当然社會のために尽さねばならぬことを尽すことの出来るやうな真実の道を求めて生活することであります。  仏教とはいふまでもなく釈尊の創められた宗教でありますが、単に仏教といひましても、学問としての仏教もあり、芸術としての仏教もあり、道徳としての仏教もありますが、私は宗教としての仏教につきて極めて平易にお話を致さうと考へるのであります。それにつきて先づ、我々の心のはたらきについて一言申し上げて置きたいと思ひます。  智慧のはたらき  申すまでもないことでありますが、お互に我々がこの世の中で生活をして居る間に、いろいろの事件が起りまして、それにつきて種々に、我々の心が悩まされるのであります。この場合には、我々はいつでも第一に智慧のはたらきによりてそれを解決しやうとつとめるのであります。勿論我々の智慧はさういふ事件を解決するために、与へられたるものでありますから、智慧によりて我々の生活に於けるすべてのことを解決しやうとするのは当然であります。たとへて申せば、どうも寒くて困るといふときには著物を厚くすればよいのは直ほりますから、さふいふ智慧のはたらきによりて厚い著物を著るのであります。若し部屋の中であれば煖炉《だんろ》をたけばよろしい。火鉢でも炬燵でも寒さを凌ぐことは出来るのであります。全く智慧の無い人は別でありますが、普通の智慧があれば自分の智慧で自分の心の有様を自分の都合のよいやうにするだけのはたらきは出来るのであります。しかし、著物を著れば暖かくなるといふことは知つて居つても、著るべき著物が無かつたときにはどうするか、著物を買ふべき金銭が無かつたらどうするか、又金銭があつても著物を造る材料が世の中に無いときにはどうするか。煖炉《だんろ》の火が燃えて居る間は寒くないでありませうけれど、その火が消えたときにはどうする。さういふ場合には智慧のはたらきはあつても智慧だけでもつて寒いといふ苦しみを除くことは出来ないのであります。これはただ一例を挙げたまでのことでありますが、人間萬事みなこの通ほりでありまして、我々は単に智慧のみによりて生活を十分にして行くことは出来ないものであるといふことを第一に承知せねばなりませぬ。  智慧を補ふ  智慧のはたらきで知つて居るといふことだけで我々の生活の十分に行かぬといふことはこの一例でもわかりますが、それにまた我々の智慧のはたらきには限りが有つて、知ることの出来ないことが澤山にあるために、どうしても智慧のはたらきのみでは生活を十分にして行くことは出来ませぬ。どうしても智慧の外に、智慧の足らぬところと智慧では十分に行かぬところとを補ふものが無くてはなりませぬ。御承知の通ほりに、我々が物を知るといふことは我々の目や耳やその他の感覚器官のはたらきによりて外界を認識するのでありますが、認識によりて知りたることを行ふことは感情のはたらきに左右せられるのであります。それ故に我々は知ることをば直ぐに行ふものではありませぬ。行ふといふことにつきて心持の善い感情が動くときでなければ知つたことでもこれを行うことはしませぬ。この点から考へて見ても智慧のはたらきのみで我々の精神生活が十分に行かぬものであるといふことは明かなことでありませう。かういふときに智慧のはたらきの足らぬところを補つて行くものが宗教のはたらきであります。  宗教のはたらき  それ故に宗教と名づけられるものは、智慧と同じやうに、我々の心のはたらきに属するものでありまして、我我が自分の智慧のはたらきの不十分なることに気がついたときに自からにあらはれて来るところの感情であります。現在の我々の心の常のはたらきでありまして、決して特別の精神の作用ではありませぬ。有つても無くてもどうでも善いといふやうな心のはたらきでは無くして、現実の心の相を真面目に見つめたときにはいやでもおうでも起きて来るところの感情であります。宗教といふものは決して智慧のはたらきに属するものではありませぬ。智慧のはたらきによりて我々が集めたる知識を系統的に秩序を立てて列べたものを科学と名づけるのでありますが、宗教といふものは決して科学に属するものではありませぬ。しかしながら宗教は決して科学に反抗するものではないといふことを強く申して置くことが必要であると考へます。世の中には宗教がわからないとか、又は宗教が信ぜられないとかといふ人がありますが、かういふ人々は宗教をば科学と見て居るのであります。科学と言つても広い意味でいふのでありますから、つまり宗教の論説を知るといふことをつとめて、その宗教の論説がわからぬとか、又は信ぜられぬとかといふのであります。  宗派と教義  多くの人々が単に宗教といふのは、たとへば仏教であるとか、基督教であるとかといふやうな既成の宗教の形式を指すのであります。さうしてその宗教の形式の内には宗派といふものが別れて居りまして、それに教義といふものがあります。仏教で申せば、たとへば華厳宗とか、真言宗とか、天台宗とか、淨土宗とかといふやうに種種の宗派がありまして、その宗派に属する人々が信奉するところの教義といふものがそれぞれに決められて居るのであります。それで多くの場合に、宗教の話がせられるのはこの教義の説明でありまして、どの宗派ではどういふことが信條として居られるかといふことが話されるのであります。皆様が平生お聴きになつて居るところの法話というものも大抵さういふ訳のものでありまして、教義の説明が主になつて居るのであります。さうしていろいろの宗派によりてそれぞれその教義が立てられて居りますから、同じく仏教に属して居りながら互に他を排斥せねばならぬやうになることがあります。何れにしても同じく仏教であるならばたとひその説明には相違があつても帰著するところは同じことでなくてはならぬ筈であるのに、他を排斥せねばならぬのは畢竟するに教義といふことを主とするからであります。その教義がわからぬか又は信ぜられぬかの場合に直ぐに宗教がわからぬとか又は信ぜられぬとかと言はれるのであります。  主観の心の相  しかしながら種々の宗派にありて各別の教義を立てて、その宗教を説明するのは、それによりて宗教の意識を明かにするのが目的でありまして、教義を知るといふことが宗教としての趣旨ではありませぬ。教義を知るといふことは全く学問でありまして、それは決して宗教ではありませぬ。教義といふものが善くわかつて居るにしても、それで直ぐに宗教といふはたらきが起るものではありませぬ。我々が、物を知るといふ場合は客観的のことでありまして、早く申せば我々の心の外を見るものであります。一例を挙げていひますと、ここに「美しい花」があるとしますると、ここに美しい花があるということを認めるのはその花から出たる光線の刺戟によりて眼の感覚を起し、それから精神のはたらきをあらはして花の知覚となり、意識の中にあらはれて「美しい花」と知るときには心の外にある「美しい花」であります。主観的に「美しい花」と感じたるものを客観的に心の外に出して、そこに現に存して居るところの「美しい花」と知るのであります。それ故に我々の知識といふものは心の外の事物を知るためにはたらくものでありまして、客観的のものでありますから、「美しい花」を知ることは、すべて人々に同じやうに出来るものであります。しかるにその「美しい花」につきて起きて来るところの感情は全く主観的のものでありまして人々によりて相違するものであります。心の内のことでありますからそれを言葉にあらはすといふことは十分に出来ぬことであります。宗教はこの主観の心の相であります。宗派の教義を知るといふことは学問に属するもので、決して宗教のはたらきではありませぬ。  前に申した通ほりに、宗教は知識に属するものではなくして、感情のはたらきありまして、自身の心の内面の現在の有様を見るときに自からに現はれるところの心持でありますから、それを言葉にあらはして説明することは容易でありませぬ。「苦しい」といふことは一つの感情でありますが、しかしながら「苦しい」といふ言葉にて言ひあらはして居る心持は人々皆同じことであるとは言はれませぬ。私が「苦しい」といふのと、外の人が苦しいといふのとは言葉は同じでありましてもその心持が必しも同じであるとは申されませぬ。痛いといふ同じ言葉を用ひても、私が痛いといふのと、外の人が痛いといふのとはその心持が違つて居るかも知れませぬ。顔をしかめるから痛いのだらうと想像することは出来ますが、果してどういふやうに痛いのか、これを知ることは出来ませぬ。感情といふものを言葉にあらはして言ふときはそれは感情につきての知識でありまして感情そのものではありませぬ。感情そのものは全く主観的のものでありまして、これを言葉にあらはすことは出来ぬものであります。宗教はすなはちこの感情に属するものでありますから、それを言葉にて説明することは六ヶ敷いことであります。言葉にて説明することが出来るのはその感情を起すべき筋道であります。さうしてその説明を聴いて宗教のはたらきを起すのはその人の心持によるものでありますから、いくら聞いても宗教の感情を起さぬ人もあります。また一言聴いても巳にそれによりて宗教の感情を起す人もあります。それ故に、私は宗教の感情を起すことにつきて、これからお話を致すのでありまして、決して宗教の学問のことにつきて申し上げるのではありませぬから、その辺の所は、予め御承知置きを願ひます。すなはち宗教といふものをば我々の現在の心のはたらきとしてそのはたらきの具合をお話致さうと思ふのであります。  精神の修養  それにつきて、皆様によくおわかりになるやうにまづ精神の修養といふことを一寸お話致しませう。精神の修養といふことは近頃盛に言はれて居りますが、それは精神を善くする意味でありませう。なるべく悪るい心を抑へて善い心をあらはすやうにと修養することを指していふのでありませう。かういふ風に精神を修養しやうとすることは自覚といふはたらきが起つてから後に始めて行はるべきことでありまして、自分を自分と知ることが無ければ自分の心を善くしやうとする心も起きて来ることは無い筈であります。それ故に精神の修養には自覚といふことが根本をなすものでありますが、この自覚には階級があるもので、動物には自覚はありますまい。人間でも生れて間もない赤坊には自分を自分と知る意識はあらはれて居りませぬ。少し年を取れば自分を自分と知ることは出来ますけれども、自覚が十分に出来るのは相当の年を取つた後でなければなりませぬ。さうして自覚の第一段としてあらはれるのは物質的自覚と名づけられるものであります。それが更に進みて精神的自覚といはれるものになり、それによりて精神の修養が始めて出来るのであります。  物質的自覚  自覚の第一段としてあらはれるところの物質的自覚とは、自分といふものを物質として見るのでありまして、早く言へば自分の身体が自分であると考へて居るのであります。自分の身体の中には心といふものがはたらいて居るのでありますが、この心をも物質のやうに考へて、物質的の我といふものを考へるのであります。かういふ自覚の程度におきましては自分の身体を保つことが肝腎でありますから衣と食と住とを十分にせねばなりませぬ。さうして衣と食と住とを十分にするには金銭や名誉や地位などを必要とするのでありますから、物質的の欲に使はれて生活に齷齪《あくせく》とせねばならぬのであります。又物質的の我といふものを考へて居るためにそれに執著して何事にも得手勝手の考を離るることが出来ぬのであります。世の中の多くの人々がこの物質的自覚の程度にあることは「大無量壽経」といふお経に仏が弥勒菩薩に対して言はれる言葉として載せてある通ほりであります。  物質の世界  「大無量壽経」に載せてあるものは漢文でありますから、その意味を取りて、ざつとその要旨を申しますと、次の通ほりであります。  「世間の風俗を見るに、人情が薄くして菩提を願はず、五欲のために互に急がぬでもよいことを争ひだてをして居る。この劇悪極苦の世を厭ひもせず、ただ自分の身体を養ふための世渡りの仕事に追はれて日を送つて居る。貴い人も、卑しい人も、貧者も、富者も、老人も、青年も、男も、女も、皆悉く、金錢のために心を取られて居る。有るものは失はむことを恐れ、無きものは得むことを欲するから、金錢が有つても無くても憂の心は同じやうである。田を持つて居れば田のために心配し、家を持つて居れば家のために心配し、過去のことを思ひ、未来のことを案じ、ただ欲心のために使はれて心の安らかなるときは少ない。又思ひがけぬ水難、火難または盗賊・怨家・債主等のために折角貯へたる財産も、家屋も、或は焼かれ、或は流され、或は、奪ひ去られて消えて仕舞ふによりて心は憂い乱れる。しかも又財寶はあつても未来までは随ふものではない。」  随分くはしく物質的自覚の有様が説いてあります。かういふ自覚の程度では「我」といふものが物質のやうに思れて居るものであり、世界が物質の世界であるから、人々には物質上の欲から離れることが出来ない。この物質の世界にあつては人々は何事も得手勝手に考へて、まかりちがへば人を押しのけても自分のために都合のよいやうにともがくのであります。  精神的自覚  しかしながら、智慧の進むと共に自覚といふものはもつと高い程度に進むものでありまして、物質的の「我」から離れて精神的の「我」に移るものであります。精神的の「我」といふのは早く言へば精神的に「我」といふものを考へるのでありまして、第一に「我」といふものは「小我」であるといふことが考へられるのであります。「我」といふものを自分とするのは身体の堵があるからで、若しこの堵を取り去れば、多くの「我」は皆一処にある筈であります。世の中に人々は皆自分を「我」と言つて居りますが、それは自分の身体を堵として他の「我」から区別するに過ぎぬのであります。それ故に「我」といふものは宇宙の「大我」の一部分で、それが自分の身体の中にあるものを「我」と名づけるのでありますから、その「我」はすなはち宇宙の「大我」の一部分であるところの「小我」に外ならぬものでありませう。ここに物質的自覚から離れて精神的自覚に移るのであります。何も彼も得手勝手に考へることから離れて、他のためにするといふ考も起つて来るのであります。  道徳的自覚  精神的自覚の第一歩として見るべきものは道徳的自覚であります。元来道徳といふことは我々がお互に生活を進めて行く上に、便利であるやうに考へて、それを実行して行かうとする心持であります。生物学上の方から申しますと、我々が自己を保存して行かうとする本能のために都合の善いやうに規範を設くるのでありますから、早く言へば自からを律して行くのであります。自からを律して行くことが社會的に生活して居るところの我々人類には自己の保存のために都合のよいことでありまして、それが又他人のためにも都合よいことであります。それ故に道徳といふものは精神的自覚の第一歩として「我」の為すべき行ひに注意して、なるべく悪るいことを止め、善いことをするやうにつとむるのであります。さうしてこの目的を達するには自からを律して行かねばならぬことは無論でありますが、自覚が十分でないときにはただ為すべき行為のみを考へて、それが自分に出来るかどうかといふことを省みないために、道徳といふものは自分の心から離れて、ただ規範となつて仕舞ふのであります。たとへば人に対して深切にせねばならぬといふことは道徳の規範でありますが、この規範を知つて居るだけで実際に人に対して深切で無かつたならば道徳といふものは全く空文であります。親に対しては孝行なれと教へられて、そのことは知つて居つたにしても、実際に親に対して孝行をしないときには、道徳の意味は皆無であります。  道徳の意識  それ故に、我々にして道徳の意識が明かにあらはれますと、我々の行為は常に道徳の規範に背くものであるといふことに気がつかねばならぬ、言ふこと、為すことが、一々道徳の規範に背くものであるといふことに気がつくと、道徳上の苦しみといふものは甚だ劇しいものであります。昔、或人が鈴木正三師に向ひて、「私は神仏を信じない、神仏があつて悪るいことをした場合に罰を与へるといふことはあるべき筈がない、私は嘗て某神社の拝殿に小便をした、しかるに今日まで何の罰をも受けない」と言つた。正三師はそれを聞いて「人の家の座敷の上に小便をするのは犬や猫などの畜生である。しかるにあなたは折角人間に生れながら、畜生の境界に堕落したのである。あなたはそれを神罰とは思はぬか」と戒められたといふことである。今の世にもこの人のやうに道徳的意識の明かでないものが澤山にありまして、さういふ人は神や仏を信ぜずして宗教は無用のものであるとまで議論するのであります。これは全く道徳的意識が明かでないためでありまして、若し道徳的自覚が十分であつたならば、さういふやうなことを平気で言つては居られない筈であります。  厭離穢土  厭離穢土といふのは仏教の言葉で、穢い国土を厭ひ離れるといふ意味であります。穢い国土といふのはこの娑婆のことでありまして、我々の心にて造るところの世界であります。それ故にこの言葉の奥底にあるところの意味は、我々が道徳上の自覚に徹底して、日々の行為が道徳の規範に背くといふことを痛感することを指していふのであります。自分の得手勝手にならぬこの世を厭ふといふのでは決してありませぬ。物質的自覚の上にいふのでは決してありませぬ。全く精神的に自覚して、自己の道徳が不徹底であるといふことに気がついたときに、道徳上の責任を感ずる心持に外ならぬのであります。宗教のはたらきはここに始まるのであります。道徳上の罪悪が感ぜられて、それに対して自分の責任を感じないときに神や仏にすがる心持が起るのはそれは自然的宗教と名づけるのでありまして、極めて幼稚なる宗教的思想であります。宗教として我々の心にあらはるのはさういふ自然的の宗教的思想ではなくして、精神的自覚の十分なるによつてあらはれるところの精神的宗教であります。さうしてこの精神的宗教は常に必ず道徳的自覚が徹底しての後にあらはれるものであります。  道徳と宗教  昔の支那の言葉に「陰徳あれば必ず陽報あり」といふのがありますが、これは陰で徳を施して置けば必ず陽に善い報があるといふのであります。又「積善の家には陰慶あり」といふ言葉がありますが、これは善いことをして置けば必ず慶事がそれについて起つて来るといふのであります。陰徳を施すといふことも、善を積むといふことも、道徳の上から見て我々が為すべき行為であります。我々は常に心がけて、善いことをせねばなりませぬ。陰徳を施すことをつとめねばなりませぬ。これは確かに道徳の箇条として尊重すべきものでありませう。しかしながら陰徳を施すことが陽報を期待するためであるとすればそれは道徳上に批難すべきことでありまして、陽報を期待して陰徳を施すといふことはまことに功利的の考であります。若し陽報が無かつたときにはその心持は平和を得ることは出来ませぬ。善を積むでも余慶が無かつたならどうでありませう。昔からの諺に「情は人のためならず」といふことがありますが、人に深切にして置くことも自分のためであるからと、露骨に心の内を告白したものでありませう。かやうに道儀の規範は一面から見れば、我々の得手勝手の考によつてこれを都合のよいやうにして行かうといふことになりますから、そこに気がつくと、道徳の規範に背くといふことの苦しみはますます強くなるのであります。我々は我々の精神生活の満足を得るために、どうしても、この道徳上の苦しみから離れねばなりませぬ。宗教といふ心のはたらきはこれからあらはれて来るのであります。  世の中には道徳といふものがあれば我々の精神生活は滿足に出来るものであると説く人がありますが、むかしの人の歌にも   心だにまことの道にかなひなば祈らずとても神は守らむ とありまして、我々の心さへ誠であつたならば別に神に祈ることは要らぬ筈であります。これは固より当然のことでありまして、それに間違はありませんが、しかしながら、「心だにまことなれば」といふ前提があつて、「心のまことなるもの」なれば祈らずとも神が守られるといふものでありまして、「心のまことでないもの」も神が守られるといふのではありませぬから、我々のやうなものは神に守られる筈はありませぬ。道徳的自覚が十分であれば、我々はとても自分の心がまことの道にかなつて居るものとは考へられませぬ。それ故に道徳の規範を知れば知るほど、道徳の規範に背くまいとすればするほど、我々は道徳上の苦しみに責められねばなりません。この苦しみから離れるの道は道徳の範囲では決して出来ることでありませぬ。ここに宗教といふ心のはたらきが必要を認められるのであります。  かやうにして宗教は道徳上の苦しみを除くためにあらはれるものでありますから、精神的宗教として我々の精神生活を導くものは道徳的自覚の上に至つてそれから一歩を宗教的自覚の上に進めたときにあらはれるものであります。若し道徳ということを無視して、得手勝手の希望を神や仏に願ひ求むるといふことなればそれは決して精神的宗教ではありませぬ。蓮如上人の言葉に   「極樂は樂しむと聞いて參らむと願ひ望むものは仏にならず」(御一代記聞書)  とある通ほりに、極樂といふことを聞いて樂に昼寝でも出来るやうに思ふてそこへ参らうと望むやうなものは仏になることはない筈であります。さういふやうに道徳上の内省が足りない人に宗教の必要は認められぬのであります。さういふ心持にて神や仏に向つたならば若し神や仏が自分の希望に背くときには「仏も無慈悲である」といはねばなりませぬ。「神の利益がない」とか、「天道様も聞えません」とかと言はねばなりませぬ。それならば神も仏も何の役に立つのではありませぬ。そこに精神的の宗教は決して成立せぬのであります。  宗教的自覚  道徳的自覚よりもつと自覚の程度の進みたるものは宗教的自覚であります。道徳的自覚の場合でも「我」といものを物質的に見るのではありませぬが、しかしながら道徳的自覚では「我」といふ意識を固く保存してどこまでもそれをくづすことのないやうにするのであります。さうしてその「我」をどうにかしやうとするのでありますから、そこに苦しみが起るのであります。ところがこの「我」といふ意識を無くして行かうとするところに宗教的自覚といはれるところの自覚があらはれるのであります。「我」といふ意識を無くするといふのは固より「我」という心のはたらきを無くするといふのではありませぬ。普通の我々が「我」と言つて居るところの心のはたらきはその儘であつて、しかもそこに「我」と執著する「我」の意識があらはれぬのでありますから、我々はそれによりて自分に都合のよい得手勝手の考から離れて真実の道を歩むことが出来るのであります。それがすなはち私がいふところの宗教的自覚の世界であります。  宗教の意識  かういふやうに説明して参りますと、宗教といふものは「我」といふ意識を無くするときにあらはれる心持であるということが明かでありますが、此の如き宗教の意識は「我」といふ意識をば故らに無くすることをしないでも我々の普通の感覚、知覚、それより起るところの概念が意識にあらはれることなくしてはたらいて居つて、それが「我」の意識の中に現はれて来て、「我」の意識を無くすることが多いのであります。この宗教の意識のはたらきによつて我々の精神生活は真実の道に導かれるのであります。この点から考へて見ると、宗教といふものは宗教意識の明瞭となることによつて始めてあらはれるもので、その宗教意識を明瞭にすることをつとむるのが第一肝要であります。外面的にいへば、宗教といふものは神又は仏と人間との交際をいふのでありますが、内面的にいふときは、宗教といふものは現実の我々の心の相を内観したるときにあらはれるところの感情が本となつてあらはれるところの意識に動かされて行はるるるのであります。  内観  宗教を我々の心のはたらきとして見るときは全く内観でありまして、神の命令とか意志とかといふやうなことを説き示されるのを聞いて、それを信仰するといふやうなことではありませぬ。外面的にはさういふことも言はれるでありませうが、内面的に考ふるときにさういふやうな客観的のことではとても我々の精神生活が円滿に進み行くことは出来ぬことであります。神の意志であるとか、命令であるとかといふやうな客観的なことを考へずに、内面的に我々自身の内心の奥をかへりみるときは、そこに湧いて来るところの感情が、或は仏の慈悲とせられ、又は神の意志とせられるのでありませう。かやうにして宗教はどこまでも我々の心の内の問題でありまして、昔の人の歌に   夜もすがら仏の道を求むれば心の奥に深く入りぬる  とありますが、この歌の通ほりに、宗教といふものは我々の心の内面のことを考へるときにあらはれる感情でありまして、ただ客観的に神や仏を知るといふことではありませぬ。  宗教的の感情  宗教のはたらきが感情に本づくものであるといふことを説明するためには少しく感情のことにつきてお話をする必要があります。普通に我々の感情といふものは知るといふことが前にあつて、それに伴ふて起るところの心のはたらきであります。たとへば腹が減るとき、それを知るときにすなはち心持が悪るくなります。それが感情であります。この通ほりに、すべての場合、知ることにつづきて快か不快かの感じが起るのでありまして、この感情はつまり自己を保存するために必要のはたらきとしてあらはれるのであります。それ故にこの感情は自分に都合のよいやうに得手勝手にあらはれるのが当然であります。それ故にこの感情を煩悩と名づけて仏教ではこれを悪《にく》むのでありますが、しかしながらこの感情といふものが無かつたときには我々は忽ちにして生命を失はなければなりませぬ。宗教といふものはこの感情を除くことによつて起るのではなくして、この感情の中から自から湧き出づるところのものでなければなりませぬ。それを名づけて宗教的感情といふのであります。さうしてこの宗教的感情によつて我々の行為が定るところに宗教のはたらきがあらはれるのであります。  しかしながら感情には又、知ることのはたらきに伴ふて通常のやうに起るものでないものがあります。それは我々の感覚・知覚及びそれから出来るところの観念が悉く聯合して意識にあらはれることがなく、我々はそれを知ることがないにも拘らず、精神の中にははたらいて居つて、それが意識の中にあらはれるによつて感情が起るのであります。これは全く不意識的観念に伴ふて起るところの感情でありまして、この感情は始めから「我」の意識にあらはれるのではありませぬから、得手勝手の考からは離れて居るのであります。普通の場合にあつてはさうすることによつて心持の善い感情を起すためにそれを行ふのでありますが、不意識的観念に伴なふ感情の場合ではさうしなくては気がすまぬといふ感情のために何の功利の考もなく行ふのであります。つまり不意識の精神活動としてあらはるるところの感情が根本となつて我々の意思がきまるのでありまして、普通の我々の心のはたらきとは相違して居るものであります。  妙好人  かやうなる宗教的の意識若しくは感情を起す人を仏教では妙好人と名づけて居りますが、それは宗教的にいへば仏教を体驗した人であります。ここに浄土真宗の教を体驗した人の伝記を集めたものに妙好人伝といふ本がありますが、その初編は仰誓師が書かれたのであります。その内に大和の清九郎といふ妙好人の伝が載せてあります。その記事によりますと、清九郎が山に行つて仕事をするときに鶯が山に来て鳴く、里に帰れば里に来て鳴く、二年ばかりも鶯が始終側に来て鳴くので不審に思つて居りました。ところが或日、本善寺といふお寺に実物の開帳がありまして、清九郎がその寶物を參観すると蓮如上人が所持されたといふ鶯の鳥籠がありました。鶯はホーを開けといつて鳴く鳥であるからと言つて蓮如上人は病中に鶯を賞玩せられました。その因縁で鶯の鳥籠が寶物として陳列せられて居りました。清九郎はそれを見て鶯が自分の側を離れないで法を聞けと勧めて呉れたのであると感じてそれから法を聴くやうになつたといふことが書いてあります。普通に起るところの感情は功利的のものであつて、鶯の声が善いか悪るいか位のことでありますのに、清九郎の感情はさういふ功利的のものでなくして、鶯の声を聴くことによりて、自分の心の内面を観ることが出来たのであります。  転悪成善  清九郎の娘に小まんといふのが居りまして、それに隣村から久六といふものを婿に取りました。この久六といふものは博奕が好きで喧嘩口論を上手にやるので、近傍の人から排斥せられて居つたものでありましたが、清九郎の所に婿に来てから一年もたたぬ間に、全く別人のやうにその品性が改まりました。或時清九郎は久六に向ひて、自分の田地一枚をお寺に寄附したいと相談したところが、久六のいふやう、「いかほど寶を譲つて貰つても果報というのが無ければ必ず人の寶になりますから、仏恩を報ずるためにお寺に寄附すれば萬世まで殘り、それが自分の家の寶として伝はるのでありますから、どうぞお寺に寄附して下さい」と言つたということであります。釈尊の言葉に「無説即是真説」といふことがありますが、清九郎は別に説教をしたのでもありませぬが、宗教的の意識若しくは感情によりて活動して居るために、その真実に觸れて久六は悪人から善人にかはつたのであります。宗教のはたらきが道徳の教と相違して居るといふことが明かにわかりませう。  本願に乗る。  飛騨の国に真宗寺といふお寺がありまして、そこで泰厳師といふ摂津の高僧が説教をせられた。それを清九郎は聴聞に出かけた。その時泰厳師が飛騨から清九郎を伴ふて西へ帰へられるので、清九郎に向はれ「お前は年を取つて居るから足が疲れるであらう、馬を傭つてやるからそれに乗つて行け」と言はれましたが、清九郎は辞退して乗らないで、勿体ないと恐縮して居りました。その時泰厳師が言はれるのに、「お前は勿体ないと言つて馬に乗らぬが、それならば何故お前は仏の本願の船に乗つたか」と言はれたので清九郎は答へて「こちらから乗つたのでありませぬ、仏の方から乗れ乗れといはれて無理に乗せられたのであります」と言つた。泰厳師はそれを聞いて「それならばお前に乗れ乗れと勧めるのだから馬に乗つたらよいではないか」といはれて巳むことを得ずして清九郎は馬に乗りました。ところが次の宿に来ると直に馬から下りて、小糠五升ばかり買つてそれを馬子にやつて「どうかこれを馬にくはして呉れ」と言つて、馬の背を撫でて別れたといふことであります。人間だけでなく、動物までも愛して行くという心持は普通では容易に起つて来るものではありませぬ。  盗まれて感謝する心  或時隣村の原谷村といふところの祐安といふ人の所に仏事がありまして、清九郎がその家に行つて居つた間に泥坊が這入つて蓆の下に入れて置いた銀札七匁を取つて仕舞ました。それを清九郎の所に知らしてやつたところが、清九郎がいふやう「人の物を盗むほどのものならば嘸不自由のことであらう、我等のやうな貧しいものの家に這入つては何も取るべきものがないからさぞ殘念であつたらう、さりながら菜種を賣つた金が十五匁あつたのを八匁は他へ拂つて、殘りが七匁あつたを取つて帰つたのである、常なればこの七匁もなかつたのに、又この七匁も直ぐに外に出る金であるのに、よいところに来て呉れた。僅なれども取るものがあつて嬉しく思ふ」と言つたので、聞くものは清九郎の馬鹿げたことを言ふのを笑つた。清九郎が言ふやう「私も生れつきの凡夫であるから人の物を盗みかねまじきものである。それが今は仏のお慈悲によりて盗み心も起らず、却て盗まれる身となりたることは難有いことである」と言つて盗まれたといふことにつきて仏恩を感謝して居るのであります。我々は道徳といふものを強く見て、道徳の力によりて悪るいことはせぬと心得て居るのが常でありますから、從て又他を律すること峻酷であります。しかしながら、善く内省して見れば我々の道徳の心はさう強いものではありませぬ。機縁さへあれば如何なることをもしかねまじきものであります。しかるにそれを省みず、我が心の善いが故に悪るいことをせぬのであると過信して、却て道徳の規範に背いて居るのであります。清九郎はこの点に於て、内省に徹底して居るのであります。從てそこに美しき宗教的の意識若しくは感謝があらはれて、自分の物を盗み去つたるものをも寛恕するほどの平和なる心持をあらはして居るのであります。  無我の心  清九郎のことにつきてはまだいろいろ伝ふべき話もありますが、何れにしても「無我」といふ心持をよくあらはして居るのであります。「我」といふ意識のはたらきは、自分を自分と知るところのはたらきをあらはするのでありますから、どうしても自分といふことに執著して、自分の得手勝手に、何事をも考へるのであります。しかしながらさう得手勝手に自分の都合のみを考へるということはよろしくないと気がついて、その得手勝手の「我」をどうにかしやうと思ふときに先づ道徳の心が起つて来るのであります。道徳の心はこの「我の心をして得手勝手の方にはたらくことのないやうにつとめるものでありますが、「我」といふものはその儘でありますから、「無我」の状態になることは六ヶ敷いことであります。宗教にありては、この「我」の意識のはたらきを止めしめるのでありますから、自分といふ得手勝手の心から離れて真実の道を歩むことが出来るのであります。清九郎は実に「無我」の心によりて真実の道を進むだ人であります。  宗教の定義  前にも申しましたやうに、宗教と名づけられて居るところの精神のはたらきは、我々の心の内に自から起きて来るところのものでありまして、世の中の多くの人が考へて居るやうに、故らに造るところの精神の作用ではありません。又要ることもあり、要らざることもありといふやうな呑気なる心のはたらきでもありませぬ。自分というものの内面をまじめに見つめたるときには誰にでも起きて来るところの心のはたらきであります。それ故に私は宗教といふものをば精神の作用としてそのはたらきの具合から説明しやうと思ふのであります。そこで先づ宗教といふものは果してどういふのであるかといふことの定義を下して置く必要がありますが、これは固より抽象的に申すのでありますから、これから段々説明して行く内に段々その意味がよくおわかりになることでありませう。  宗教といふものをば精神の作用として、単簡に説明するときは「外なる力を自分の心の中に取り入れて、それによりて自分の心の力を強くするもの」であります。前にも申した通ほりに、我々の心に何か不安のことがあるか、或はひどく恐ろしいことがあるとかといふ場合に、自分の力でそれをどうすることも出来ないときには、誰でも外なる力を自分の心の中に取り入れてその苦しみから免がれやうとするのであります。自分の力の足りないことがわかつたときに何か大きなる力に縋つて行かうという心持が起つて来るにきまつて居るのであります。非常に不安で困る、又非常に恐ろしくて困る。けれども自分の力ではそれをどうすることも出来ない。自分の力が足りない。さういふことを感じたときにはどうしても自分より大きなる力を求めてそれにすがらうとするのであります。それを俗に神といひ、若しくは仏といふ言葉でいい表はして居るのであります。それで、苦しいときの神だのみといふ諺送のやうに苦しみから免れやうとするために、神とか仏とかといふやうな大きなる力を求めるのは人間の情であります。しかしながら智慧のはたらきが十分でない場合、その神といひ、仏といふものが真に大きなる力でなくして、それによつて我々の心の力を強くするほどのはたらきが無いのが常であります。  宗教的の思考  若し智慧が極めて浅いときには、何物でも少しく奇異のものであれば、それを偉大の力を有するものであるやうに考へて、神や仏とするのでありますから、この場合には一切の萬物を皆神や仏とすることが出来るのであります。我々の智慧が浅いために、知らるべきことを知ることが出来ず、そこに大なる力があると考へてもそれは実際大なる力では無くしてただ自分が考へた大きな力であるときめて居るのに過ぎませぬ。自分の智慧の足らぬところから不思議と信ずるところに神秘的な考が起きて来れば、何でも蚊でも皆これを神や仏とすることが出来るのであります。さうして、かやうに自分が偉大のものであると信ずるところの神仏に祈願して自分の力の足らぬところをたすけてもらふことを念願するものであります。普通にはこれを宗教と名づけるのでありますが、これを宗教とするときはすなはち前に申した自然的宗教であります。自然的宗教のはたらきでは外なる力を自分の心の内に取り入れて自分の心の力を強くすることは出来ませぬ。  絶対の信頼  此の如き自然的宗教では絶対に神や仏の力にすがるといふことは出来ませぬ。ただ苦しいときに神をたのむのでありまして、外に仕方がないから神仏にすがるのであります。神仏の力をたのみて自分の念願を達しやうといふ希望はありましてもその希望は達することが出来ずして、ただ一時、自己を満足せしむるだけのことであります。自分をみつめてその力を強くするのではなくして、ただ自己を欺まして仕舞はふとするのであります。宗教のはたらきとして外なる力を我々の心の内に取り入れて自分の分を強くするといふ場合には絶対にそれを信頼し得るほどの偉大なるものに接するのでなくてはなりませぬ。自分の心の力をはたらかして得手勝手に考へ出すところの力に対しては固より絶対に信頼することは出来ませぬ。  最上の帰命  釈尊の言葉が「法句経」といふ書物の中に集めてありますが、その中に次のやうな言葉があります。  「或は多く自から山川樹神に帰し、廟立し図像し、祭祠して福を求む、自から帰すること是の如きは吉にあらず、上にあらず、彼れ来たりて我が衆苦を度すること能はず」。(漢訳法句経の和訳文)  この言葉の意味は、恐あるもの、願あるもの、或は山を神として祭り、川を神として祈り、木を神として祭りて、廟祠を立て、図像を画き、それに祈願して幸福を求めるが、これは吉き帰命でなく、又最上の帰命でもない。かういふ神は来たりて我々の多くの苦しみを済度することが出来ないといふ意味であります。釈尊が世に居られたる当時、印度の人々は自在天(デヴア、イスヴアラ)といふ神の存在を信じて居りましたが、この自在天といふ神は、この世界を造り、人間を造り、さうしてこれを支配するものであるから、その意思に從はねばならぬと説かれて居つたのであります。それ故に多くの人々は苦しみから免かれるためにこの自在天に祈つたのでありますが、釈尊はこれを排斥して、自分が造るところの苦しみは自分でこれを除かねばならぬといふことを主張せられたのであります。  自分の心のはたらき  静かに考へて御覧になればすぐにわかることでありますが、恐ろしいといふのも、願はしいといふのも皆、我我の自分の心のはたらきであります。しかるにそれを他の人にたのみて、それが直る筈はありませぬ。たとへて申さば足が痛いといふ場合、痛いのは自分の心のはたらきでありまして、それを他の人に願つたところが、祈つたところが、それで痛みがなほる筈はありませぬ。自分の心のはたらきで起つた痛みは自分の心のはたらきによつてこれを直さねばなりませぬ。それを他の人に願つたところがそれによりて痛が直る筈はありませぬ。それ故に、さういふ場合に神に祈ることは善き帰命ではありませぬ。最上の帰命ではありませぬ。かかる神は来りて一切の苦しみを済度することは出来ませぬ。たとひ自己の外に神や仏があつたにしても、それが何時でも来たりて我々を救はれるといふことは到底考へ得られぬことでありまして、さういふはたらきの神や仏を尋ねてそれに向つて祈願するといふやうなことは釈尊以前の教で、俗間の信仰に属したものでありました。  自己の反省  智慧が段々と進むで、自分と自分の周囲との関係がわかつて来ると、人間の共同生活を十分にするために自分の得手勝手をのみ為すべきことでないといふことになり、又自分の価値を高くするために悪をやめ善を修むるといふことが人間の道であるといふことになります。これがすなはち道徳の教でありましてこれは全く智慧のはたらきによるものであります。此の如くに智慧が進みまして、自己の内面をみつめるとき、我々の心の力がいかにも弱くして、善を修め悪を廃することも十分に出来ず、又どうしても得手勝手のことがやまないといふことがわかりますから、そこに苦しみが起るのであります。この苦しみから免かれしめるために我々の心の内にはたらく力がすなはち精神的宗教といはれるのであります。前に申したやうな自然的宗教では自分といふものを棚にあげて置いて、ただ勝手な事ばかり念願してその念願がかなふやうにと神仏に祈るのでありますが、精神的宗教では全くそれに反して自分といふものを問題とするのであります。自分といふものを問題として、真面目にそれを見つめるときに自から起つて来るところの心のはたらきが強い力として我々の心を導くのであります。  自然的宗教  我々が今日、宗教といふものはこの精神的宗教を指すのでありまして、外なる偉大の力を取り入れて我々の心の力を強くするところのはたらきをあらはすものであります。彼の自然的宗教でも、それによりて自分をだますことは出来ます。又ただ一時にしても自分が滿足することも出来ます。しかしながら自分をだますといふことは或る程度までのものでありますし、又自分が満足するといふことは本当でありませぬから、この心持ではたとひ仏の御慈悲を喜ぶとしたところで、それは喜び得るときだけ喜びて居るに過ぎませぬ。死んでから極樂に行くのであるから安心して居ると言つたところで、それは健康の時に言ふことで、段々と病気が重くなつて、日々死が近づくといふやうな場合になると、死んだ先が案じられて、満足して死を待つといふことは容易に出来ることではありませぬ。それ故に自然的宗教といふのは真実のはたらきをあらはすところの宗教ではありませぬ。真実の宗教のはたらきをあらはするのはどうして精神的宗教でなくてはなりませぬ。  精神的宗教  精神的宗教は今申したやうに、我々の智慧が進み、道徳の考が明かになつてから後に起るものでありますから、宗教のはたらきとしては進歩したものであります。智慧殊に道徳の意識が十分に発達してから後にあらはれるものでありますから、先づ自然的宗教があらはれ、それから智慧の発達に伴なふてそれから精神的宗教が起るものであります。個人に就て見まして、まだ智慧の発達が十分でなく、道徳の意識が明瞭でないときには必ず自然的宗教の考が起るものであります。小児の宗教的の考は自然的宗教でありまして、自分といふものを内観せずに、ただ得手勝手の念願を神仏に向つて所るのであります。それが年齢を重ねると共に智慧が発達し、道徳が進みて遂に精神的宗教があらはれるやうになるのであります。しかるに文化の進みたる人間が、野蛮人と同じやうに自然的宗教に滿足して居るといふことは大なる間違であります。巳に成長したる大人が小児と同じやうに自然的宗教の範囲を離るることが出来ないといふことも大なる間違であります。  仏教の創始  仏教は精神的宗教でありまして、今から約三千年前に釈尊が始めて印度に興されたる宗教であります。そこで今、仏教のことに就て御話致さむとするに方りまして、少しまはり遠いやうでありますが、私は先づ釈尊が如何にして仏教を興されたかといふことに就て、一通ほり説明しやうと思ひます。仏教を宗教としてそれを奉ずるといふことは畢竟するに釈尊の精神を体驗するのでありますから、釈尊の精神がどこに有つたかといふことを知ることは第一必要であります。釈尊と略していひますが、本当にいへば釈迦牟尼仏でありまして、それは仏としての名前であります。まだ仏となられない前の本名は喬多摩といひまして、迦毘羅城に居つた淨飯王の子であります。両親から可愛がれて大切に育てられました。耶報陀羅といふ妃があり、羅喉羅といふ息子もありまして、何一つ不足のない生活をして居られたのでありますが、自分といふものに当面して、その苦しみの相に驚き、宮宮殿の中にあつて榮耀栄華にその日を送つて居つたところが、世の中の相を考へ、さうして自分の相を考へて見たときにはヂットしては居られないほどの苦しみであります。この苦しみから遁れなくてはならぬといふ心持が強く起つたために、遂に妻子を棄て、宮殿を脱け出でて苦を離るるの道を求められました。この時釈尊は年齢二十九歳であつたといふことであります。  跋伽仙人  釈尊は家を出でて、道を求めるために先づ舎離国に赴きて跋伽仙人の許を訪はれました。さうしてその仙人等が難行をして居る有様を見られまして、跋伽仙人に向ひて「あなた等は一体何のために、かういふやうな苦行をするのであるか」と聞かれた。仙人はこれに答へて「天に生れむがためである」と言つた。釈尊はこの答を聞いて考へられた。天というところが幾ら樂しいところであるにして幸といふものに限があるから、天に生れたところが幸が尽きたならば又六道にかへりて苦しまねばならぬ。されば仕方のない教であると考へて黙つて居られた。跋伽仙人はその樣子を見て「何故に黙つて居るかと言つた。それは仙人等が或は禮を失することがあるために釈尊が不快の感をいだかれたのではないかと心配したためであつた。釈尊は「決して左様なことを気にして居るのではない。あなた等が修行して居るところは苦しみを増すもので、決して苦しみから離れる道ではない。自分は苦しみから離れるところの道を学ばうと思ふのである」と言つて跋伽仙人の許を去られました。  阿羅邏仙人  かやうにして釈尊は跋伽仙人の許を去つて阿羅選仙人の所へ往かれました。阿羅選仙人は当時印度で有名の?伽哲学の学者でありました。釈尊はこの阿羅選仙人に向つて、「我々人間の苦しみはどうして起るものであるかと質問せられました。阿羅邏仙人は釈尊の問に答へて「我々の心の一番の初は冥初といふもので、それから我慢といふものが起り、その我慢から疑心があらはれ、疑心から染愛を生じ、染愛から五微塵気といふものが出来るさうしてこの五微塵気から五大が出来て、五大から貪欲・瞋恚・愚癡の煩悩があらはれるのである」と説いたのであります。釈尊はそれを聴かれて「苦しみが出来る訳はそれでわかつたが、自分が聞かうと思うのはその苦しみから離れるのにはどうすればよいかといふことである」と言はれました。そこで阿羅選仙人は「それは先づ出家して、戒を持し、行を修し、謙卑忍辱にして空無辺処に住することによりて苦しみから離れることが出来る」と説いたのであります。この説明は六ヶ敷言葉を用ひてありますが、その意味は道徳を堅固にして、心の散乱を防ぎ、世の中のものは一切皆空であることを観すればすなはち苦しみから離れることが出来るといふのであります。これが当時印度に行はれて居つた?伽学派の説くところでありました。これは教論といふ学派が、正確なる知識に本づきて迷を去らうとする教から発展して、正しい知識と劇しき苦行とによつて、悟りを開かうとする教でありました。  鬱陀羅仙人  しかしながら、阿羅邏の教には満足せられずして釈尊は鬱陀羅仙人のところへ行かれました。鬱陀羅仙人は「一切無所有処を度りて非有想非無想処の成就に遊ぶ」と説きました。この説の意味は、物質的の考へを去りて一切のものは皆空であると観じ、空の外には何も有る所のものはないといふことを知り、種々の思想から離れて想あるにあらず想がなきにもあらず一種禅定の境に至るとき苦しみから離れることが出来るといふのであります。釈尊はこの説を聞かれて「想あるにあらず、想なきにあらずというところに我があるか、我はないのか、若し我がないといふのならば非有想非無想処といふことが出来ぬではないか、若し我があるとするならばその我には知があるか、知がないか、若し我に知がないとするならばそれは木や石に同じきものではないか、若し我に知があらば則ち染著があるであらう。それでは苦しみから離れることは出来ぬではないか」と反駁して、この法では到底苦を免かるる道は得られないと言つて、鬱陀羅仙人のところを去られたのであります。  成道  釈尊は鬱陀羅仙人の許を去つて、象頭山の南方ヴルヴェラといふところに住つて、驕陳如等五人のものと共に苦行を修せられました。釈尊はかやうにして苦行を修することが六年の久しきに及びて、身体は痩せ衰へて、骨と皮とばかりの有様になつた。そこで釈尊は考へられた「苦行は苦を離るるの道でない、道といふものは漏れたる身体で得らるべきものでない、今から食を受け、諸根を充して後に道を得ることをつとめやう」と思はれて、苦行の座から起ちて尼連神河に至り水に入りて洗溶せられました。ところが身体が痩せ衰へて居つたので、歩行することが出来ず、こまつて居られたところへ難陀波羅といふ牧牛女が来り合せて牛乳を飲ませて呉れたので元気がつき気力が充足したので、それから畢波羅の下に至り、樹の下に端坐して冥想せられたのであります。かやうにして、釈尊は真理を思惟し、世間を観察し、「三界の中には一とつの樂しみもあることなし」といふことを悟られたのであります。まことに世の中の相は苦しみでありまして、何事も真に樂しみとすべきものはありませぬ。年が老いて死ぬるといふことは苦しみの中の苦しみでありますが、それは生があるからでありまして、若し生を離るれば老死の苦しみはありませぬ。さうしてこの生は天から生ずるものでもなく、地から生ずるものでもなく、自から生ずるものでもなく、それは全く無明からあらはれるものであります。釈尊はこの道理を明かにして、始めてその道を成ぜられたのであります。  初転法輪  釈尊は既にその道を成したる後、この教を弘く世の人々に伝へむと欲して、阿羅邏及び鬱陀羅の兩仙人を訪ねやうと思はれましたが、惜しいことには兩人共に死亡して空しき人の数に這入つて居りました。そこで更に方向を転じてヴェナーレスに至りて、驕陳如外四人のものを訪はれました。驕陳如外四人のものは前に釈尊と一にヴルヴェラで苦行をしたものでありますが、釈尊が中途で苦行を棄てて瞑想に入られたのを見て、「こればかりの苦行に堪えないで山を出るやうな薄志弱行のものは共に道を語るに足らぬ」と嘲りて釈尊を捨ててヴェナーレスに移つたのであります。そこへ釈尊が来られたのでありますから、頭からこれを軽蔑して、すこしも敬意を拂はなかつたのであります。釈尊は五人のものの様子を見て、其のことを推察せられたのでありますが、じつと黙つて五人のものの傍に行かれたところが、その威光の凛然として何ともいはれぬ貴とい趣に感じ入つて、釈尊の前に立ちて、釈尊が説かれる言葉に耳を傾けました。そこで釈尊は驕陳如等五人のものに向ひて「世の中には四苦・八苦と言つていろいろの苦しみがある。それは皆我といふものが本となつて起きて来るのである。さうしてこの我といふものは色蘊・受蘊・行蘊・想蘊・識蘊といふ五蘊が集まつて出来るものである」と説き、それから「お前等はこの五蘊といふものは常にあるものと思ふか、ないと思ふか」と聞かれました。五人のものもその説を聴いて感服して「なるほど五蘊といふものは無常であります」と答へました。  五蘊  五蘊といふのは五つの蘊でありまして、蘊といふのは集積といふ意味で、それが集まり積つて人の身と心とを生ずるからして蘊と名づけるのであります。その第一は色蘊といふので、色とは物質の義であります。いろいろの物質が集まり積つて身体を成すのをいうのであります。第二は受蘊といふのでありまして、受とは領納の義で、つまり感覚の作用によりて外界のものを認識することをいふのであります。第三は想蘊といふので、早く言へば思想であります。第四は行蘊といふので、善いことをするとか、悪るいことをするとかといふ行ひのことであります。第五は識蘊といふので、これは我々の分別の心であります。判断する心のはたらきであります。これを要するに、五蘊の中の第一の色蘊といふのは身体のことで、第二から第五までの四つの蘊は精神の作用を指していふのであります。この五つの蘊が集まつて居るときには身と心とが存在するが、それが離れて仕舞へば身と心とは消えて仕舞ふのであります。そこで釈尊は驕陳如等に向つて「お前等は五蘊は常住のものであると思ふか」と聞かれたのに対して驕陳如等は「なるほど五蘊が集まつたときには我といふものがあるので、五蘊が離れたるところには我といふものは消えて仕舞ふといふ道理がわかりました」と答へました。それから釈尊は更に驕陳如等五人のものに向つて説教を進められました。  八正道  この時の釈尊の説教は「道を求めるものは二個の極端を避けて中道を進まねばならぬ」といふことでありました。ここに極端といはれるのは其一は榮耀榮華の贅澤なる生活でありまして、あくまでうまいものを食ひ、美しい衣服を著て、享樂的生活をすることは極端でありますから、それをやめねばなりませぬ。かういふ生活は道を求める上に害があつて何の役にも立たぬことであります。其二は身を苦しめる生活であります。苦行を修して身体を痩せ衰へるやうにしてもそれによりて道は得らるるのではありませぬ。それ故にさういふ極端の生活は避けねばなりませぬ。道を求むるものはこの二個の極端を避けて中道を進まねばなりませぬ。中道といふのはすなはち八正道であります。八正道といふのは正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つの正道をいふのであります。釈尊はこの八正道を実践することによりて、すべての人々は始めて苦しみから離れることが出来るといふことを説かれました。これが釈尊が成道せられてから第一回の説教であります。仏教の言葉で転法輪といふのは法の輪を転ばすといふ意味で、すなはち説教のことであります。釈尊成道後の初転法輪はツェナーレスでの説教でありまして、それは八正道の説明でありました。  かやうに釈尊が成道の後第一回の説教で、驕陳如等五人のものに対して説かれたところは八つの正しい道を践むで、苦しみから離れることが肝要であるといふことでありました。まことにこの教は仏教の神髄とすべきものでありまして、仏教にいろいろの宗派がわかれて居りましてもその根本とするところはこの八つの正しい道を践むで苦しみから離れることを期するのであります。それ故にこの八つの正しい道のことを十分に飲み込むで置いていただきたいと思ふのであります。八正道の第一は正見といふのでありますが、これは見を正しくするといふ意味で、すなはち観察を正しくするといふことであります。正しく物事を観察するときには苦しみといふことはない筈でありますが、我々はどうしても顛倒した観察をするのでありますから、苦しみから離れることが出来ぬのであります。一例を挙げていひますと、死ぬるといふことを嫌ふのは十人が十人、みな同じやうでありまして、誰一人として死ぬるといふことを好むものはありますまい。しからばそれほどに死ぬるのが嫌ひなら、今日は無事であつたとか、今年は無事で幕しましたとかと言つて喜ぶことは間違つて居りませう。よく考へて見れば我々は一日一日に死ぬる方に近くなるので、一日一年生き延びるのではなくして一日一年づつ死ぬる方に近くなるのでありますから、死ぬるといふことが嫌なら死ぬることに近づくのを喜ぶことはありますまい。さういふ風に我々は何事にも顛倒の考を持つて居るのであります。又我々は正しいとか正しくないとかといふやうなことをよくいひますが、それは自分といふものを棚にあげて置いて他人のことを判断しているのでありますから、畢竟自分に都合のよいやうに考へて、正しいとか正しくないとかといふに過ぎませぬ。何時も自分が正しくて、他人が正しくないといふことになりまして、それがすなはち顛倒の考へであります。かういふ風に観察が正しくないために苦しみといふものが起るのでありますから、正見といふことにつとむることが正しき道であります。  八正道の第二は正思惟といふので、考へを正しくするのであります。観察が正しければ從つて考へも正しい訳でありますから、先づ観察を正しくして、顛倒の考へをやめることを正思惟といふのであります。  八正道の第三は正語で、言葉を正しくすることであります。虚言を吐いたり、要らざることを言つたり、又は言葉をかざつたりすることをせぬことをいふのであります。第四は正業といふので、行為を正しくすることであります。悪を廢し善を修し、その行ひをつつしむことをいふのであります。第五は正命で、これは生活を正しくすることをいふのであります。銘々その職務に忠実なるべきことをいふのであります。それから八正道の第六は正精進でありまして、これは一生懸命に正しき道を践むことに努力することをいふのであります。第七は正念といふのでありまして、これは正しく深思するといふ意味であります。思慮深く世界と自己との相を観察して、世界は単に現象に過ぎないものであると知つたるとき愛著は巳みて苦は去るものであり、かくの如き深思を正念といふのであります。最後の正道は正定といふのでありまして、これは思想の散乱せぬやうにこれを統一することをいふのであります。  〔参照〕  五蘊  蘊は積聚の義。この五法によりて積聚して身を成す、復た此身によりて有為煩悩等の法を積聚して無量の生死を受く。  色蘊 質礙の義。眼・耳・鼻・舌・身の諸根和合積聚す。  受蘊 領納の義。六識と六塵と相応して六受の積聚あり。  想蘊 思想の義。意識と六塵と相応して六想の積聚を成す。  行蘊 遷流造作の義。意識によりて諸塵を思想し、善悪諸行を造作す。  識蘊 身別の義。眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の識を以て諸塵境の上を照して分別す。  [大乗広五蘊論に拠る]  八正道  正見 人、無漏道(即ち戒・定・慧)を修し、四諦(苦・集・滅・道)を見て分明に外道・有無等種々の邪見を破斥す。  (註、戒定慧のこと及び四諦のことは別記を見よ)  正思惟 人、四諦を見るとき、正念・思惟・観察・富量、観をして増長せしむ。  正語 人、無漏の智慧を以て常に口業を摂し、一切虚妄不実の語を遠離す。  正業 人、無漏の智慧を以て其心を修摂し、清浄の正業に住し、一切邪妄の行を摂除す。  正命 出家の人五種邪命(1、詐りて異相を現はす、2、自から功能を説く、3吉凶を占相す、4、5、高声威を現はす。所得の利を説いて人心を動かす)利養を離れて常にを乞食を以て其命を自活せしむ。  正精進 戒・定・慧の道を勤修して一心專精、間歇することなし。  正念 人、正道と助道の法とを思念して能く進みて涅槃に至るに堪ふ。  正定 人、諸の散乱を摂して身心寂静正に真空の理に住して決定移らず。  〔法界次第に拠る〕  三学  戒 禁戒の義、身・口・意の作るところの悪業を防止す。  定 禅定の義、能く教を摂し、神を澄し、見性悟道す。  慧 智慧の義、能く煩悩を断除し、本性を顕発す。  〔翻訳名義集に拠る〕  四諦  苦諦 逼迫の義、生死の苦を諦審す。  集諦 招集の義、煩悩悪業は実に生死の苦を招集することを諦審す。  滅諦 寂減の義、生死の苦を厭ひ、涅槃を諦審す。  道諦 能通の義、戒・定慧の道を諦審して能く通じて涅槃に至る。  〔天台四教儀集に拠る〕  心を本とす。  此の如くに釈尊は、先づ身を苦しめて行を修するといふことによつてはますます心を苦しめるのみで、苦しみから離れることが出来ぬといふことを悟られた後に、世間の相につきて瞑想せられた末、遂に八正道を読むことによりて我々は苦しみの世界から免かれることを得るのであると説かれたのであります。それは我が心の苦しみを心の外に見て、修行によりて苦しみを去らうとすることの無理であることを悟られたからであります。苦しみといふものは自分の心で造るものでありまして、外界はただその縁となるものであります。それ故に釈尊はその苦しみの起る原因を究めてこれを無明に本づくものであるとせられたのであります。このことにつきては後に追々、くはしくお話を致す筈でありますが、釈尊の教は銘々の心を主とするのであります。自分の心といふものを棚に上げて置いて、さうして山に祈つたり、川に祈つたり、若しくは木に祈つたりしたところが、それによりて苦しみから離れることは出来ぬと説かれたのであります。釈尊の説かれたることに  「一切の法は意志から起る、それ故に意志はそれ等に対して支配者であり作者である」  といふことがありますが、ことに法といふのは事物といふやうな意味で、世の中の一切の事物は皆、意志がこれを造るものであり、又意志がこれを支配するものであるといふのであります。世の中の事物はみな銘々の意志によりて造られるものでありまして、又銘々の意志によりて支配せられるものでありますから、世の中の事物を改むるのは銘々の意志でなくてはならぬ筈であります。それ故に釈尊の教は心を本とするということが第一に注意を要すべき点であります。  心の世界  平生我々は眼で物を見、耳で音を聴き、鼻で嗅ぎ、口で味ひ、皮膚で物を觸れて知るのでありますが、それは皆我々の心のはたらきによるものでありまして、我々の心のはたらきといふものが無かつたならば、見ることも、聴くことも、嗅ぐことも、味ふことも、觸れることも出来ませぬ。從て世の中の事物は一とつも有る筈はありませぬ。しかし私が見たり、聴いたりしないでも、世の中には事物が有りまして、他の人々はそれを見たり、聴いたりするでありませうが、それは私には関係のない事物であります。私に関係のあるのは私が見たり聴いたりするところの事物でありまして、私はそれを見たり聴いたりして、それで私の心の世界を造つて居るのであります。この心の世界が常に宗教の上では問題にせらるべきものでありまして、地理学上でいふところの世界とはそのものが相違して、銘々が銘々の心の世界を造つてその心の世界の中に住むで居るのであります。しかるに、それを銘々の心の世界から切り離して物の世界を考へ、我が心の外に物をあがめるがために、自分の心も物の一種となりまして、自分自分といいながらそれが自分の心の中から外の方へ出るのであります。  形は心の成すところ  釈尊が既に年老いて、死滅に近づかれたときに、阿難を始めとして多くの弟子達に説かれた言葉に次のやうなことがあります。  「比丘等よ、私が今まで汝等に説いたいろいろの教は常にこれを思ひ、これを誦し、またこれを習はねばならぬ。天下の人が目から心を正しくしたならば、諸天もために喜び、人間もまた福を受けるであらう。汝等常に欲をおさへて己に克たねばならぬ。身を端し、心を端し、言を端しくせよ。怒を捨て、悪を捨て、食を捨てて常に死といふことに心を用ひ、若し心が邪を欲したならば決してそれに從ふてはならぬ。心の姪を欲したときにも気をゆるしてはならぬ。富貴を欲してもまたそれを聴いてはならぬ。心はまさに人に從ふべきものである。人が心に從ふべきものではない。心は天となり、悪趣となり、又聖位を開くことも出来るものである。形は心の成すところのもので、心は諸法のなすところのものである。心は識を作り、識は感情を作り、感情は更に転じて心に入るのである。心はまことに支配者である。心は志を発して行をなし、行は命をなすものである。」(涅槃経に出づ)  この釈尊の言葉は、宗教の上には常に我々の心の世界を問題とすべきことを明かにせられたものであります。このことは宗教につきて考へる上に第一に必要のことでありますから、繰返して申し上げて置きたいと思ひます。さうして皆様がこの心の世界といふことにつきて深くお考へになるやうに希望いたすのであります。  我を離る  宗教といはれて居るものが我々の心のはたらきであることは前に繰返してお話をしたのでありますが、我々の心のはたらきにはもとよりいろいろありまして、物を知るといふやうなことも我々の心のはたらきの一とつであります。物を知るといふはたらきは注意とか、記憶とか、判断とか、想像とかといふやうなはたらきが集まつて出来るものでありまして、それによりて段々と知識が増して行くのであります。学問といふものはすなはちこのはたらきによるもので、これは全く智慧のはたらきに属するものでありますが、宗教といはるるのはさういふ智慧のはたらきに属するものでありませぬ。宗教は物を知るのではなく、感じるのであります。たとへば寒いといふことは大気の温度が下がるのを知るのでありますが、寒いのが心持の善いときもあり、又これに反して寒いのが心持の悪るいときもあります。その心持の善いと悪るいとはさう感ずるのでありまして、知ることについて起るところの心持であります。それを感情と名づけるのでありますが、宗教にその感情の特別なるものに属するものであります。さうして誰でも知つて居るやうに、通例、我々の感情といふものは変化の甚しいもので、すこしも確固としたものではありませぬが、宗教としてあらはれるところの特別の感情はその力の甚だ強いもので、且つしつかりして動かぬものであります。  たとへば可愛い子供が死んだときなどには、その子供と一所に死んでもよいとまで感情が興奮するのでありますが、しばらくするとその感情は静まりて死んでもよいといふやうな熱情はさめて仕舞ふのが我々の心の常であります。非常に不幸の場合に遇ふたときなどにはもう著物も要らない、裝飾の品物も要らないと考へることもありますが、それもその不幸の場合を去ると、さういふ考へもすぐに無くなるのでありまして、著物も要れば又立派なる道具も要るものであります。さういふ風に我々の心の中にあらはれて来るところの感情は隨分強く起きて来たやうでも、その力はさう強いものではなくして、それで長く続くことはありませぬ。喜びの心も長くはつづきませぬ。悲しみの心も長くはつづきませぬ。宗教といはるるものは同じく感情に属するものでありましても、普通の感情が自我中心であるのに反して、「我」を離れたるものであります。さうして我を離れた感情は功利的のものではありませぬから、自分の得手勝手に動くことはありませぬ。それ故に宗教の感情は我々の心のはたらきの上に強い力をあらはするのであります。  阿濕波誓等  釈尊が成道の後、ヴェナーレスで第一回の説教をせられたことは前に申した通ほりでありますが、この時その説教を聴いたものは橋陳如外四名のものでありましたが、その一人に阿濕波誓等といふものが居りました。或日托鉢をして居つたのを舎利弗といふ拝火教の学者が見つけて、いかにもその強度の美しきに感激し、阿濕波誓等に向ひて、「見受けるところあなたは近頃出家せられたやうであるが、それにも拘らず、あなたの態度はまことに美しく見える。一体あなたは何といふ人に就て修行せられたのであるか」と聴いた。阿濕波誓等は自分の師匠が釈尊であると答へた。そこで舍利弗は又間ひ返して「あなたの師匠はどういうことをあなたに教へましたか」と質問した。阿濕波誓等はそれに答へて「私はまだ師匠に就て学ぶ日数が浅いから、師匠が説かれる全体を知ることは出来ませぬ。しかしながら釈尊が説かれる大体は、世にありとあらゆるものは皆因縁から現はれて居る、一切のものに主がないといふことを知つたとき、真実の道に入ることが出来るといふことであります」と言ひました。舍利弗はこれを聴いて大に感心し「なるほどさうである。自分等がこれで考へて居つたものは邪因であつた、若し邪因でなかつたらば無因であつた。若し無因でなかつたならば自在天因であつた。さう考へることによりて苦しみは増すのみで決して苦しみが消えることはない。今因縁の法を聴いて全く無我の智慧が開けた」と言つて大いに喜むだのであります。  因縁の法  この話は「因果経」と申すお経の中に詳しく書いてありまして、一切のものは皆因縁によりて起るといふのであります。因といふのは原因であります。縁といふのは助因であります。原因と助因とが集まりて一切のものは出来るのでありまして、造物の主といふものがあるのではないと説くのであります。一切のものにつきてこれを造るところの主があるのではないと知られたるときに我々は迷の心から離れることが出来るのであります。自分が「我」として考へて居るところのものの因縁によりて起つたもので、別にこれを造つた主がある訳ではない、從つて我が心の主とすべきものも無いのでありまして、因縁の法がわかればすなはち「無我」の智慧が開かれるのであります。舍利弗は阿濕波誓等によりて釈尊の教の一端を聴いて、それに感服して、すぐに五百人の弟子を率ゐて友達の目硬連といふものと共に釈尊の弟子となりましたが、非常に賢明の人で、釈尊の弟子の中で智慧第一といはれた人であります。  自在天因  まことに利弗が言つた通ほりに、すべての人々は、物事の原因を正しく見ることが出来ずして先づこれを邪因に対するものであります。我々の心の外に邪悪の原因があつて、それからして邪悪の結果があらはれるものであると考へて居るのであります。たとへて申せば我々は常に悪るい雨が降つたと言ひますが、しかしながらよく考へて見ると、雨が悪るいのでなく、我々の心がそれを悪るいと感ずるのであります。自分に都合のよくない雨が降つたのでありまして、雨には善いも悪るいも無い筈であります。しかるに我々は自分の心をば棚に上げて置いて常にその罪を外のものに帰するやうにつとめて居るのであります。それ故に世の中の善いことでも、悪るいことでも、それは皆神の所為であると信ずるのでありますが、自在天因といはれるのはすなはちこれで、自在天と名づくる神が世の中を造り、人間を造り、すべてのものを造り、それが世の中の一切を支配するのであると考へたのであります。自在天というのは釈尊以前の時代、印度にて盛に行はれたる神でありまして、吉凶禍福の原因をこの神に帰することは当時の人々の常とするところでありました。  十二因縁  今日でも、多くの人々の考へは、これと同様でありまして、吉凶禍福の原因をば他の人に帰してこれを怨むか、或は運に帰して巳むを得ざることのやうに考へ、或は天の為せることであるから仕方がないと諦めやうとするのであります。しかしながらさう考へることによりては決して苦しみから免れることは出来ずして却て苦しみを増すものであります。釈尊はそれを説いて一切の法(事物)は因縁によりて起るといはれました。それ故に我々の心も因縁によつて生じたのでありまして決して無因ではありませぬ。又邪因によるものでもありませぬ、又自在天因によるものでもありません。釈尊の弟子の阿難陀が、この因縁法を會得して大いに喜むでそのことを釈尊に話したところが、釈尊は阿難陀に向つて因縁の法が起る順序をくはしく説かれました。それがすなはち十二因縁といふものであります。  十二因縁 1、無明(四諦の真理につきて無智なること) 2、行(一時的の存在を本当に存在する如くに造作すること) 3、識(造作せられたるものを意識すること) 4、名色(個人を形成する物質と精神とをいふ) 5、六感(眼、耳、鼻、舌、身、意の六器官をいふ) 6、觸(自己の心と外界との接觸) 7、受(感覚と感情) 8、愛(すべてのものに対する欲望) 9、取(愛音するはたらき) 10、有(愛や取によりて起る変化の状態) 11、生(五蘊の集合すること) 12、老死(五蘊の分離すること)  かやうに因縁によりて物が起ることを十二段に別けて説明せられたるところを見ると、我々が苦しみの本となるものは死といふことで、つまるところ命が惜しい、生きたいといふことが苦しみの本であります。この苦しみの本であるところの死の原因は生で、生の原因は有、有の原因は取、取の原因は愛、愛の原因は受、受の原因は觸、觸の原因は六処、六処の原因は名色、名色の原因は識、識の原因は行、行の原因は無明といふもので、結局無明が根本で、それから因縁が段々と結合して苦しみをつくると説くのであります。  生死の苦界  十二因縁の第一に挙げられたるは無明といふものでありますが、無明といふのは智慧の無いことで、四諦がわからぬことを指していふのであります。四諦といふのは苦・集・滅・道の四つの真理のことで、人生は苦しみであると知る(苦諦)。この苦しみは我々の心の愛著によつて集め造られるものであることを知る(集諦)。それ故にこの愛著を滅ぼすにあらざれば苦しみから離れることが出来ぬと知る(滅諦)。さうして愛著を滅ぼすには八正道を修めなければならぬといふことを知る(道諦)。これがすなはち四諦の真理を知るといはれるのでありますが、我々はこの真理を知ることが無い、それがすなはち無明であります。無明なるがために、一時的に存在するに過ぎない位のものをば、本当に永久に存在するもののやうに自分の心にて造作するのであります。自分の心にて造作したるのを意識するのでありますから、すべて世の中の一切のものは皆自分の心から現はれるものであります。我々の感覚のはたらきによりて外界と自分の心とを接觸せしめて、そこに一定の感情を起し、すべてのものに対して欲望といふものが起ればすなはちそれに愛著するのであります。さういふ風にして五蘊を集めて、生を造り、又この五蘊が離れて死となるのでありますから、我々はこの十二因縁になりて生死の苦界を流転してそれを離れることは出来ないと説かれるのであります。  唯円房  かやうに説明すれば、十二因縁といふものは大分六ヶ敷い理窟のやうでありますが、しかしながらこれは既に前にお話致した一切のもの(法)は因縁によりて生ずるといふことをくはしく説明したのでありまして、別に何物(神か何か等の)かがありてこれを造るものではないといふことを、くはしく説明したのであります。我々は因縁の法を度外視して、何物かが来りて我々を苦しましむるやうに考へて居るのでありますが、それが全く無明のはたらきであります。むかし親鸞聖人の弟子に唯円房といふものが居りました。あるとき親鸞聖人はこの唯円房に向ひて、「お前は自分の言ふことをきくか」と言はれました。唯円房は「あなたの仰せには背きません」と答へました。そこで親鸞聖人は唯円房に向ひて「果して自分の言ふことをきくとならば人千人を殺せ、さうすれば往生は一定である」と仰せられました。唯円房はそれを聞いて「仰せではありますが私の器量では一人の人をも殺すことが出来ません」と申し上げた。そこで聖人は唯円房に向ひて「それだから善く考へて見よ、何事も心にまかせて出来ることならば往生のために千人の人を殺せと言へばすなはち十人の人を殺すべきであるのに、一人にても殺すべき業縁がないために殺すことが出来ぬのである、我が心の善くて殺さぬのではない。たとひ人を殺さずと考へても百人千人を殺すこともあるべし」と教へられました。まことに因縁の法を徹底的に説明せられたものであります。  業因縁  我々の心が、他の一切のものと同じやうに、因縁によりて生じたものであるといふことを知るときは、我々が心の善きをば善しと思ひ、悪しきをば悪しと思つて、いかにも決つた主がありてそれに支配せられて居るかのやうに考へて居るのは大なる誤であります。釈尊が説かれたる十二因縁の理屈を推して考へて見ますと、我々の心は無明によりて、仮に造作したものでありまして、さうしてそれが愛著によりて、連続して現はれるものでありますから、我々の心のはたらきは業縁によつて現はれるものであると考へるべきでありませう。親鸞聖人が、唯円房に対して「我が心の善くて人を殺さぬのではない、殺すべき業縁がないから殺さぬのである」と言はれたのは全くこの意味に外ならぬものでありませう。因縁の法をかういふやうに考へることは釈尊の十二因縁の説明を徹底的に理解したものであると思はれます。親鸞聖人は更に唯円房に向つて「身に備へざらむ悪業はよもつくられ候はじものを、又海川に網を引き、釣をして世渡るものも、野山に鹿を狩り鳥をとりて命をつなぐともがら商ひをし、田畠をつくりてすぐる人もただ同じことなり、さるべき業因のもようせば如何なる振舞もすべし」と教へて居られます。これは因縁の法といふものを我々の現在の心のあらはれの上に就て考へて、我々の心は、我我の心がむかしから為したるものの結果として現に今あらはれて居るのであると信ずるのでありまして、これが業因又は業縁と言はれて居るのであります。  因縁の結果  此の如き因縁の法は、さう六ヶ敷く考へなくとも、現在の事実につきて考へて見ても知られることでありませう。たとへて申せば、今私がこの演壇の上に立ちましてお話を致して居るといふ事実があります。しかしこれは単に私が計画をして私が勝手にお話をするのであるとのことではありませぬ。今私がお話を致すといふことにつきて考へて見ますると、第一に現在の世界が無くてはなりませぬ。この世界の中に我が国が無くてはなりませぬ。我が国の中に東京が有り、この會場が有るといふことを第一必要のことと致します。さうして国家が平和の状態でなければなりませぬ。この會場が建てられるためには多数の人々の共同作業を要したことでありませう。又私がお話をするといふことにつきましても、先づ私の一身が存在せねばなりませぬ。それには父母兄弟をはじめ多数の人々の恩恵に浴したことであります。私が何事にしてもお話致すだけの資料を有して居らねばなりませぬが、これには多数の学者や著述の力を籍らねばならぬことであります。すべて是等無数の因縁といふものが無かつたならば私が如何に努力してもお話することは出来ぬのであります。それ故に、私が私の隨意で、お話を致して居るやうに見えましても、その実、無数の因縁が有在する結果として、私がお話をせねばならぬことになつたのであると考へられます。さるべき業縁の催せば如何なる振舞をすべきこと、親鸞聖人が言はれるのはすなはちこの意味を指すのでありませう。かういふやうに考へるところに釈尊の十二因縁の説明は徹底して味はれるのであります。  因縁法の誤解  この因縁の法を誤解して、我々の意志のはたらきといふものには何等の価値といふものは無くして、それは皆因縁の結果でありとして、何事をしても、これを因縁に基づくものとして平気ですまして居るものがありましたから、それは誤解の甚しきものであります。何事も因縁であるからと言つて諦めやうとするのは因縁の法を正しく理解したものではありませぬ。我々の行為といふものは、固より意志のはたらきによるものでありまして、実際生活の上に意志のはたらきが価値の多いといふことは論の無い次第であります。しかしながらその意志といふものが果してどういうことに本づくものであるかといふことを考へるときに、どうもそれは因縁の法に本づくものであります。さう考へるときに、我々は「我」といふ執著の心を離れて真実の道に入ることが出来るのであります。因縁だから仕方が無いと諦めるのではなく、因縁の法を味ふことによりて自己中心の迷ひの心から離れることが出来るのであります。  感涙を流す  世の中には宗教といふものをばただ有難いもののやうに心得て、無暗に仏の御慈悲を喜ぶといふ人が多くありますが、宗教といふ心のはたらきは、さう無暗にありがたい心の起るものを指していふのではありませぬ。あはれに綴りたる浄瑠璃を聞き、又は役者の演芸を観て忠臣幸子義夫節婦の有様を写すに至れば、それが狂言綺語であると知りながらも覚えず涙の落つるものであります。しかしながらそれは普通に起るところの感情でありまして、哀れな話を聴きて泣き、悲しい話を聴きて泣き、それによりて涙を流すことは人情の常であります。超然師の「里耳談」にこのことを記して  「それも女童はただ恩愛別離などの愁ひの顕露なる処にて涙を流す、物の辨へあるものは女童の取乱したる恋のありさまは、さもなけれども、忠臣義士の難に臨みて身をも命をも惜まず、堪へしのぶ操を見て落涙することなり、佐野天徳寺といふ勇将は盲人に平家をかたらせ、宇治川の先陣の処を聞きて、さめざめ泣きたるは、さのみあはれなる処とも覚へぬに、若し先陣に後れたらば必ず討死すべしと思ひ切りたる武士の志を感ずるなり、斯樣の類なほ有るべし、然らば仏法を聞くにも法蔵因位の苦行を感じ、涙を流すものもあるべし、又、譬喩因縁の哀れなるに催さるる涙もあらむ、この感涙を認めて直ちに信心なりと思はばこれ己が心をたのむなるべし、さればとて物の哀れにも感ぜざるは木石の類なり、その理に感じて、たのむべき大悲をたのみ、往生を決得し、慶喜報恩の思の深からんこそ信心歓喜の人なるべし」  といつて居られます。まことに超然師の言はるるとほりに、我々が感涙を流すといふことは普通の感情のはたらきで、それは何れの場合でも自己中心に現はれるものでありますから、それにより宗教のはたらきが起るものではありませぬ。しかるに、その感涙の催さるるを見てそれが有難いというのはただ自己の心をたのむのでありまして、仏教でいふところの信心を獲たものでは決してありませぬ。  隨喜悲喜  法然上人の「和語燈」の中にも同じやうなことが説いてあります。すなはち  「心のそみぞみと、身の毛もよだち、涙の落つるをのみ、信の発ると申すは僻事にてあるなり、それは歓喜・随喜・悲喜とこそ申すべき、信といふは疑に対する心にて、疑を除くをば信とは申すべきなり、見ることにつけても、聞くことにつけても、其事一定すぞと思ひとりつることは、人いかに申すとも不定の思になることはなきぞかし、これをこそ物を信ずるとは申せ、その信の上に歓喜・随喜なんども発らんには、勝れたるにてあるべけれ」  と説いてあります。宗教といへば何か有難い心が湧きて出づるもののやうに心得て、仏の慈悲にあづからうと努力することが宗教の要であるかのやうに考へて居る人がありますが、これは大なる誤であります。釈尊の説教を聴き、一切の法(もの)は因縁より生ずるといふ道理を知り、それによりて自分の心を内省するときに、いふにいはれぬ心持が起りて、ここに随喜の心があらはれることがあるとすれば、それがすなはち宗教のはたらきであります。これを有難いといふのは固より当然のことでありますが、物の哀れを催すときなどにあらはれるところの感涙と同じやうに考へてはならぬものであります。  直心房  むかし美濃の国に一人の坊さんが居りましたが、この坊さんは村落を廻つて人のために仕事をして居りました。その志が殊勝なので人々は我も我もとその坊さんを傭つて仕事をして貰つて居りました。ところがこの坊さんは一箇所で二三日続けて仕事をしてから、他の処へ転じ、一箇処に長く居ないで、すぐに何処かに行つて仕舞ふのであります。その性質が正直なのでこれに正直坊又は直心房といふ綽名をつけてその綽名で通ほつて居りました。五年ばかり経て後に、或日のこと、直心房は居なくなりました。影も形も見えなくなりました。そこで村の人々が方々尋ねました所が、或る山の麓に、ちやんと坐つて、西の方を向て手を合せて死亡して居りました。その側の木に書きつけがしてありました。その書き附は「保延二年十月十五日ゆがみ坊まがりながら往生す」とありした。周囲の人々は正直坊とか直心房とか綽名して居つたのでありますが、本人はゆがみ坊と言つて居ります。そのゆがみ坊がまがりながらに往生すと書き附けてあつたのであります。さうしてその側には帷衣が一とつと笠が一とつ置いてあつた。これが直心房の一生の財産でありました。この坊さまは日頃から無欲であり正直であると人から信頼せられた人でありますが、本人はその無欲と正直とをたのみとせず、ゆがみ房まがりながらに往生すと書いたのは、いかにも善く「我」といふものに執著する心から離れて、釈尊が言はれるところの因縁の法に順応したものであるといはねばなりませぬ。  直心房の如きはまことによく釈尊の因縁の法の真の意味を理解したものであると言ふべきでありませう。一切の法は因縁によりて生ずるといふことをよく理解すれば「我」といふの相に執著することなく、無我の心持になることが出来るのであります。無我の心持になりて、自身を見れば実に自身は罪悪生死の凡夫であります。煩悩具足のゆがみ房であります。他の人から見れば正直・無欲のものでも本人は罪悪深重・煩悩具足と信知するのであります。さういふ内省の極致に達して始めて、まがりながらに往生すと安心する事が出来るのであります。仏の慈悲によりて自分の心を善くして頂かうと努力するところに、我の内観は出来ずして、「我」といふものをその儘にして仏の慈悲にすがらうとするのでありますから、若し喜びの心が起きたとすればそれはそのことが自分の都合に叶つたときであります。固より無我の心持ではありませぬから、どうしても功利的の考へを離るることは出来ぬのであります。  得手勝手を離る  釈尊は八正道を説いて、道を求めやうとするものはこの八つの正しい道を修めねばならぬと説かれました。それ故に、若し自分は釈尊が説かれたやうに八つの正しい道を修めることが出来ぬといふことになれば、到底自分は苦しみから離るることが出来ぬものであるといふことが知られる筈であります。さうして、さういふ風に自から内省したときに起る心持は、いかにかして、その苦しみから離れたいといふ要求であります。しかしながらそれは自分の得手勝手の考へを満足せしめやうとするところのものではなく、たとへて言へば暗いといふことに気がつきて、それは全く光が無いためであるといふことを知りて、その光を望むと同じ心持であります。自分の暗いところには気がつかずして、ただ光を望むのとは相違して、自分の暗いといふことに気がつきて、そこに始めて光のありがたいことを知るのであります。かういふ心持は我々が因縁の法を理解することによりて「我」の執著を離れ、いはゆる「無我」の心持になつたときに何時でも現はれるところのものでありまして、自分の得手勝手を離れたる心持であります。この心持は決して功利的のものではなくして、全く真の宗教のはたらきとして見るべきものであります。  熊谷直実  御承知の通ほりに、鎌倉時代の武士に熊谷次郎直実といふものが居りました。親類のものが土地を横領したといふので鎌倉幕府に訴へたところが、思ふやうにならぬので癇癪を起しましたが、到頭出家しやうと志し、鎌倉を離れて京都へ上ぼることになりました。箱根の山まで来て、専光坊といふ浄土宗の寺に一泊し、そこで京都から来た妙真といふ尼さんの話を聞き、京都の吉水に法然上人が弥陀の教を説いて居られることを知り、又その弟子に聖覚法印といふお方が居られて、これも大徳であるといふことを知りまして、京都に著くとすぐに安居院の聖覚法印の許を尋ねました。さうして「自分は関東から参つたものであるが浄土の法門を修めたい」と申込みまして、取次のものが内に這入つて、暫く待つ間に熊谷は懐中から短刀を出して式臺の石でその刀をごしごしと磨いて居りました。それを見て人々は驚きましたが、この人々の中に熊谷を見知つたものが居りまして、あれは鎌倉武士の熊谷次郎直実といふもので源平の戦に豪勇の評判の高かつたものであるから、どんなことをするかも知れません、そんなものに面會なさることはよろしくないと忠告しました。聖覚法印はそれにはかまはずして面會せられました。「あなたが熊谷どのか、かねがねお名前は聴いて居りました。あなたのやうな武士が菩提心を起すといふことは、それは恐らく、凡慮のなすところではない、全く如来の慈悲であらう、必ずおろそかに思つてはならぬ。浄土の教は如何なる罪のあるものも、ただ念仏によりて助けられる」と言はれました。これを聞いて熊谷は涙を流して泣いていふやう、自分は数度の戦争に多くの人の命を取りました。その手を切つて来い、血の巷をかけ歩いたその足を切つて来い、さうしたならば助かることを教へてやらうと言はれるかと思つて居りました。しかるに何の事もなしに、如何なる罪も赦されて如来に救はれる身であると聴いて、あまりの有難さに涙を流して感泣したのであります。  平敦盛の子  聖覚法印は熊谷に向ひて、浄土の法門はまことに貴とい教であるから、更に法然上人に従つてくはしくその教を聴くやうにと勸められて、吉水の法然上人の許に参りました。その頃、八つ許の男の子供が法然上人のところに居りました。或日熊谷は法然上人に向つてあの子供はどうした子供でありますかと聴きましたところが、法然上人は「あの子供はお前に縁のあるものだ」と言はれました。それで、熊谷は若しか敦盛の子ではないかと思ふて、法然上人にその事を質した。法然上人は「さうだ、あれは敦盛の子である」と言つて、その来歴に就て話し出されました。「思へば大分前のこと、文治二年の秋の末の頃、自分は賀茂の杜に參詣しやうと思つて、一乗寺の松の下を通ほつたところが、大勢の人が騒いで居る、皆々不憫なものだと言つて居る。近くに寄つて見ると、綾の小袖に包まれたる二歳ばかりの男の児、見る人が言ふのに、賤しからぬ子だからこれは恐らく平家の子であらう。それを取り上げて、後の災難が来ては困るから、不憫ではあるが助けることが出来ないと言つて居る。自分が車を下りて見ればなるほど貴とい人の子と見える。人を助けるのは出家の職務であると考へて、その子供を連れてここに来て母を頼むで養育した。六七歳の頃、その子供を連れて清水寺に櫻を見に行つたところが、途中で同じ年頃の子供を連れた母親と父親とが兩方の手を引て来るのを見て、あの子供が言ふには、あの二人の男の人と女の人は何かと聞いた。そこであれはあの児の父親と母親とであると言つたところが、あの子供がいふには、かかる賤しきを子供にも親、あるのに引きかへ、我身一人は父もなければ母もないのはどういふ訳であるかと聞いた。その頃からして兩親を尋ねるといふが強く起きてだんだんと身体も衰へ、命もあやふく見えた。それが如何にも可愛さうであるから、或日説教の序に、あの子供の身の上を話して、若しこの聴衆の中にあの子供の母親が居られるなら、名乗つて貰ひたい、自分の処に来て居るのであるから、白状せられても子供の命は大丈夫だからと話したところが聴衆の中にあの子供の母親が居つて、談義の終つた後に、その子供を捨てたことを自白した。そこであの子供に引き合せたところがあの子供がひどく喜んで母親が情に逼りて泣くのを見て、何故に泣き玉ふかと問ひ、更に「父上は何方に坐すか」と聞いた。母親はあの子供に向ひ「お前の父上は平家の一門、無官大夫敦盛である、一の谷の合戦に熊谷次郎直実といふ武士に討たれた」と言つたといふ長い話をせられると、それを聴いた熊谷はひどく驚きました。  玉琴姫  その時、熊谷は法然上人に向ひて「私は敦盛からして京都の遺族へ渡して呉れと頼まれご遺品を持つて居ります、それでどうかして遺族のものを探し出さうと思つて居りましたが、それは幸のことであります。その母に會ひたいのでござります」と言いました。その翌日その子の母親の玉琴姫が遣つて来ました。やがて上人の紹介によつて熊谷は「某は熊谷次郎直実、今は入道して法力房蓮生と申す、先年一の谷に於て敦盛卿を討ち奉りしとき、頼まれたることありて様々に心を尽せしがかかることあるを知らずして遂に今日に及びました。しかしながら日頃尋ねし甲斐ありて今日目のあたり敦盛卿の御心を届け奉ることの嬉しさよ」と言ひて、懐中より蜀江錦の守りを出してこれを玉琴姫に渡しました。玉琴姫は覚えある守りでありましたから再び夫に會ふ心地にて嬉しくもあり、又悲しみの心も起りました。法然上人はその心を察して玉琴姫に向ひ「蓮生房を見て我が夫の敵と思ふて怨む心を起すな、たとひこの入道が討たずとも平家の一門は悉く西海の藻屑となつたのであるから何とて敦盛一人が助かることがあらう。その中敦盛一人が熊谷に討たれたればこそその遺品が今日手に入つたではないか。又熊谷も敦盛を討ちたればこそ自から法師となりてその菩提を弔ふことが出来る。入道は実に敦盛のための善知識ではないか。殺すといふも誰か永遠に殺すことが出来やうぞ。現世に殺すは一生の命を奪ふに過ぎず、後世助かるは永劫の苦しみを救ふがためである。されば世には仇もなく、怨みもなく、敵なりとて道の師である。決して怨むことのないやうに」と諭されました。そこで玉琴姫はその子と共に出家して親子諸共に法の道に入り敦盛卿の菩提を弔ふことになりました。  怨念一如  この話は小説のやうな話でありまして、事実では無かつたかも知れませぬ。たとひそれが事実ではないにしても、法然上人の心持はよくこの話の中にあらはれて居るのであります。   阿弥陀仏と打ちこむ剣そのままに敵も味方も西へこそ行け どこまでも自己中心の考へを持つて居るところの我々でありますから、自分の敵とするものに対して反抗心を起すのは我々の常でありますが、しかしながらよく考へて見ると、怨と思ひ恩と感ずることは畢竟するに「我といふものの得手勝手に感ずる心持でありまして、この「我」の執著が無くなれば、まことに恩怨一如であります。法然上人はこの心持を説かれたのでありますが、さういふ心持が現はれるのは全く釈尊の因縁の法をよく味ふたときでありまして、それがすなはち宗教の心のはたらきであります。  法のまま  釈尊の教には段々と帰依の人が多くなりました。それにつきて、これを罵るの声も起りました。それは「沙門瞿雲(釈尊の名)は、我等をして家を散ぜしめ、我等が後胤を絶たしめるといふ非難でありました。釈尊の教に入つたものが家を捨て、妻子を捨てるのを見て、かういふ教がひろまると、家が絶えて仕舞ふ、昔のものが出家すると家はなくなつて来る、最早千人の出家が出来た。まことに困つたことであると騒いだのであります。ところで釈尊の弟子が托鉢をしてマカダの城下にやつて来たのを見て「あの人々は又この国の人々を奪ひに来たのであらう」と騒いだのであります。弟子達はそれを聞いて驚いてそのことを釈尊に申し上げましたところが、釈尊が言はれるのに「いやさういふ声もあるだらう、けれども、さういふ声は永く続くものではない、若し人々がお前達に向つて、さういふことを言つたならば、偈を以て答へよ」と言つて、一とつの偈を示されました。その偈は  「ますらをの仏のみこと、法のままに人を伴ふ、法のままの仏のわざを、誰かまたうべなはざらむ」  かういふを偈を以て答へよと教へられました。法が人の口を通じてあらはれるときに、この法といふものは人を導くものであります。法といふものには抵抗の出来るものではありませぬ。それ故に法の如くに説かるることを承認せぬ訳にはまゐりませぬ。  迦葉  このとき迦葉といふ、非常に人相の善い、智慧の多い、さうして金の澤山にある立派な人が居りましたが、釈尊が出家して、千二百五十人の阿羅漢と共に王舎城の竹林の中に道を説きたまふといふことを聞いて、釈尊の許に尋ね来りて、「私はあなたの弟子になります」と言つた。釈尊は迦葉がその弟子になることを許されて直ちに「迦葉よ、五陰の身はこれ大苦の聚であるといふことを知らねばならぬ」と説教せられました。五陰といふはこの前にお話をした五蘊のことであります。我々の身心は色蘊、受蘊、思蘊、行蘊、識蘊の五つのものの集合から成り立つて居るものでありますが、この五蘊の集合がすなはち苦しみでありますから、五蘊の身は大苦の集合であると考へねばなりませぬ。ところが前の舎利弗でも、日?連でも、又今の迦葉でも、我と身とが相違せるものであるとするか、或は我がすなはち身であるとして、それによりて我といふものを考へて居つたのであります。つまり我といふものが独立して存在して居るものとして、それにつきて色々に考へたのであります。しかるに釈尊はその迷をさまさうとして「この身はただ衆苦の集合である」と説き示されたのであります。  大苦の集合  釈尊より以前の人々の教は、心を外にして考へたものでありましたから、我々の心が苦しみといふものを持つて居るやうに信じて居つたのでありますが、釈尊の教は心を本として考へるのでありますから、「五陰の身は大苦の聚である」と示すのであります。苦しみを感ずるそのものがすなはち我であつて、この苦しみを除きては後にあまるところのものは何にも無いのであります。心を本として考へれば必ずさうでありまして、五蘊が集まつたところに我々の身と心とがあらはれ、我々の身と心とがあらはれるところに苦しみが存するのであります。それ故に「五陰の身は大苦の聚である」と説かれるのでありまして、苦しみを離れて別に我といふものが存するのではありませぬ。苦しみといふものそれ自身がすなはち我であります。迦葉は我を以て身として、その苦しみから免かれやうとしたから、戒を持ち苦行を修め、又因にあらざるものを因とし、又有と無との二つの見に迷はされて居つたのでありますが、釈尊のこの教を聴いて苦しみといふものの真実の相がわかつて、始めて苦しみから離れるところの道を知つたのであります。  苦と樂と  これを心の外に考へるときは、我々は何時でも外の物のために苦しめられるやうでありますが、しかしながら苦しみと感ずるのは我々の自分の心であります。さうしてその自分といふものは五蘊が仮に和合したのでそれが苦しみの種でありますから、苦しみといふものはすなはち自分であります。その自分といふことに気がつかないで、外のものが悪るい、それがために苦しみが起るものであると考へて、その苦しみを除かうと願ふのが人人の常でありますが、これはその苦しみを除くとすればその後に樂しみが殘るであらうと考へるからであります。しかしながら苦しみと感ずるのも、樂しみと感ずるのも皆これ自分の心のはたらきでありまして、別に苦しみと感じ、若しくは樂しみと感ずる、常に一定して居るところの何物かが存在して居るのではありませぬ。それ故にたとい苦しみを除いたとして、樂しみがそれにかはつて存在する訳はありませぬ。同じ心のはたらきが或は樂しみと感ぜられ、或は苦しみと感ぜられるのであります。さうして、それがすなはち我でありまして、このはたらきの外に別に何物も存在しては居らぬのであります。  自我の成立  釈尊が迦葉に対して、かやうに「五陰の身は大苦の聚である」と説かれたのは、我といふものを独立のものとして考ふることの誤まつて居るといふことを示すためで、ここにも一切の法は因縁によつて生ずるといふことを説かれたのであります。我と身とを異なれるものとしたり、或は我がすなはち身であるとしたりして、我といふものを独立のものと考ふるは誤まりであるといふことを教へられたのであります。苦しみがすなはち我であつてその我といふものは因縁によりて生じたものであります。釈尊はこのことを明かにするためにかやうに説かれたのでありまして、我といふものは決して偶然に出来たものではありませぬ。又他にそれを造れるものがおつてそのものがこれを造つたものでもありませぬ。何れの場合でも原因がありて結果が生ずるものでありまして、種があつてさうしてそれから芽が生じ、実がのるのであります。自分といふものがすなはち苦しみの集まりであるとして、この苦しみは因縁によりてあらはれたるものでありますから、単にこの苦しみのみを自分から取り去ることは出来ませぬ。  優陀夷  釈尊がその家を出られてから六年の間、その父の浄飯王は釈尊の身の上を心配して、どうか一度面會したいと言つて居られた。時に釈尊は舎衛国から迦毘羅城の方に行かうとせられたのであるが、浄飯王といふものが釈尊に帰依し、釈尊が既に正覚を成ぜる旨を父の浄飯飯王に申し送りました。浄飯王はその書状を見て、釈尊が成道したことは喜ばしいが、若し使のものを遣ればそれを勘化して出家せしめるであらう、まことに困つたことであると心配せられた。大臣の優陀夷といふものがあつて、浄飯王に向ひ、「私が使ひに參りませう」と言つて、王の書状を持つて釈尊の許に往つた。釈尊はそのとき「父王は御無事であるか」と尋ねられました。優陀夷は「大王は御丈夫でありますが、ただあなたのことのみを心配して居られます」と答へた。それから釈尊は優陀夷に向つて「お前はこの道を樂しむかどうか」と言はれたから「甚だ樂しみます」と答へました。そこで釈尊は優陀夷を濟度して沙門とせられました。優陀夷は「自分は浄飯王の使で釈尊を連れて宮城へ帰る約束でここへ来たのであるのに、出家して家へ帰らないとすると王への返事はどうしやうか」と心配したのであります。そこで釈尊は優陀夷に向つて「お前、帰りたければ帰つてもよい、しかし故家に執著することをするな」と言はれました。優陀夷は大に喜び釈尊に向つてあなたを迦毘羅城にお帰りになりませうか」と尋ねた。ところが釈尊も「自分も帰らう」と言はれました。優陀夷は帰りてこのことを父の浄飯王に申し上げました。  浄飯王  間もなく、釈尊は迦毘羅城に帰られまして、その父の淨飯王に対面せられました。さうしてこのとき釈尊は浄飯王に対して、法を説かれました。「世の中の一切のものは皆、自業の果報である。業果の身に業を造りて更に新なる生を受くるのである。それ故に業の因果を知らねばならぬ。つらつら世間を観ずるに、我の良共たるものはただ業のみである。肉身は深く我の愛慕するところであるが、命終るとき肉身はそれに随はない。親戚は深く我の愛慕するところであるが、命終るとき親戚はそれに随はない。命終るときただ業のみを良朋として、これに随ひて、五趣に輪廻せしむるものである」と説かれた。さうして更に言葉を改めて「それ故に力をつくして身、口の業を浄め、又つとめて修習して乱心を息めねばならぬ。自己を益するものはただこれのみである」と説かれたのである。それから又「人王の五欲の樂しみは危険であつて恐怖が多いことは毒蛇と同居するやうなものである智慧のある人は世間を見ること、猛火に囲まれて恐怖してしばらくも安きことがないと知りて速かに生死を離れむことを求むるのである」と説かれました。淨飯王はこの説教に感服して、法を敬ふのあまりに、その子の釈尊を禮拝せられたのであります。  身口意の三業  世の中の一切の事柄といふものは全く業の結果でありまして、業といふもののために我々は生れたり、死んだり、死んだり、生れたりして、苦しみの世界から離れることが出来ないのであります。それをば生死の苦界を流転するといふのであります。さうして、その業といふものは、簡単に言へば自分の行為であります。我々が何事かを考へるとすると、一旦考へたことは消えることはありませぬ。どんなに訂正しやうと思ふても一旦考へたことは後からこれを訂正することは出来ませぬ。それを取消すことは固より出来ぬことであります。それからその考へを口にしたときは言葉となりますが、一度言葉に出したことは後からこれを訂正することも出来ませぬ、又これを取消すことも出来ませぬ。すべての行為も皆これと同様でありまして、一度行為の上にあらはしたことは決して消滅するものではありませぬ。さういふ次第でありますから、我々の身体でした行為(身業と名づける)と、口でした行為(口業と名づける)と、心の中でした行為(意業と名づける)とは決して消滅するものでは無くして、すなはち業(カルマ)となるものであります。しかしながら業(カルマ)となるといひましても、別に業といふものが独立して存在するやうに考へるべきものではありませぬ。我々の行為といふものは決して消滅するものではありませぬから、「我」といふものが、それによりて保存せられて行くのであります。かやうに「我」が保存せられて行く有様をば釈尊が「業果の身に業を造り更に新なる生を受くる」と言はれるのであります。  因果応報  我々の行為は一度あらはれたる上は決して消滅するものではありませぬ、それが業(カルマ)となるのでありますから、我々はその業に縛られて、死んでから又生れ、生れては又死ぬるのであります。それだから、業といふもののはたらきを善くすることをつとめねばならぬと釈尊は説かれるのであります。かういふ風に釈尊の教を分析して考へて見ますると、釈尊の教といふものはどこまでも自分の心といふものを問題とするものであるといふことがわかるのであります。人間の世界が苦しみであるといふことは、畢竟するに自分の心でそれを苦しみと感ずるのであつて、自分の心の外にある世界の事物が苦しみであるのではありませぬ。つまるところ、自分の心で苦しみの世界を造つて居るのでありますから、その苦しみの世界から離れてゆくとしてもそれは決して出来ることではありませぬ。苦しみを造るところの自分といふものを其儘にして、苦しみといふものだけを取つて除けやうとしてもそれは決して出来ることではありませぬ。さうして自分が苦しみを感ずるといふに業因の結果としてあらはれるものでありますから、これを除くといふことは容易のことでありませぬ。近頃の人々も、自分の心の苦しいときに、諦らめの言葉として業といふ事をいふのでありますが、釈尊が言はるるところの業といふものは決して諦らめの言葉ではありませぬ。自分が行き詰つて致し方のないときに、これを前世の約束であるとか、又は因果応報であるとかと言つて、その罪をば自分の外にあるところのものに負はして自分の責任を免かれやうとすることが多くありますが、仏教で説かるる業(カルマ)といふものは、さういふ風に考へらるべきものではありませぬ。  鐵眼禪師  禅宗の高徳に鐵眼禅師といふ方がありますが、この人は熊本の真宗のお寺の生れでありますが、禅宗を修めて日本で有名の高僧になられたのであります。後には大阪に居られまして、そのお寺を鐵眼寺と言つて居ります。禅師がまだ大阪に来られない前の話で、元禄の頃のことでありますが、豊後の森というところの殿様が、鐵眼禅師と懇意であつたために、禅師を森の城下に招いて、曹洞宗の安樂寺といふお寺で講釈をすることを頼まれました。この時、講釈をせられたお経は楞巖経といふものでありました。ところが森の町を中心として近傍の諸処から真宗の僧侶や門徒が澤山集まつて来て、寺社奉行へ談判をしました。その趣旨は鐵眼といふ坊主は真宗の悪口をいふが、若しこのたびも真宗の悪口を言ふなら、大勢押しかけて法論をするからそれを許して呉れといふのであります。寺社奉行の大林といふ人がそれに答へて「鐵眼和尚は楞巖経の講釈をして居られるが、さういふことは言はれない、又さういふことを言はれる筈がない」と言つても坊主等は中々承知しないで、次の日に又々寺社奉行に対して「鐵眼は明かに真宗の悪口を言ひます。どうぞ法論を許して貰いたい」と厳談しました。  法論  ところで寺社奉行が言ふのに「法論は天下の御法度であるから許すことは出来ぬ。鐵眼禅師の講話には自分も列席して居るが、真宗の悪口は言はれたことが無い、ただ三決定の説を主張して居られる、しかしそれは仏説であつて独り鐵眼禅師に限つてそれを言ふのではない。貴僧方が若し楞巖経の中で不審のことでもあるならば一人一人づつ質問せられるがよい」と言つたところが、「いや一人づつは出られませぬ、大勢出ます、一同押しかけます」と頑固に主張するので、寺社奉行はそれは穏便の沙汰でないとなだめても一向に聞き入れず「この上は致方がないから、鐵眼が講釈して居るところへ押しかけて行つて、鐵眼を奪い取つて法論をしませう」といふのであります。そこで寺社奉行は「さう理不尽に暴力を振ふことは法律の許さぬところであるから、相当の処置をする」と威嚇しました。坊主等はそれには閉口せず「命は覚悟のことであるから五人や十人殺されてもかまはぬ」と、中々承知しませぬ。それには役人も心配して、どうにか穩かに納まるやうにと、安樂寺の和尚に頼むで、内々鐵眼禅師に相談して貰ふことになりました。  三決定  ところで鐵眼禅師が説かれた三決定といふのはどういふことであるかといふに、それは戒・定・慧の三学のことで、前に申した八正道を約めて三つにしたのであります。戒といふものは持戒で、道徳を堅固にして身を修めること、定といふのは禅定で、精神を鎮めて散乱せぬやうにすること、慧といふのは智慧で、四諦の真理を明かにすることをいふのであります。それがすなはち釈尊の言はれる八正道でありまして、その八正道を修めてさうして後に始めて涅槃の境に到ることが出来るのであります。それを三決定といふのでありますが、この第一の戒の中で一番軽い戒は五戒と言つて飲酒を戒め、妄語を戒め、邪淫を戒め、倫盜を戒め、殺生を戒めるのであります。ところが当時の仏教の各派の中で、禅宗其他の宗派では、内面は別問題として表面、肉食もせず、飲酒もせず、妻帯もせず、すなはち邪淫の戒や、飲酒の戒をも守つて居るやうでありますが、独り真宗は肉食妻帯を標榜して居りましたから、三決定の講話も聞きやうによりては真宗を誹られたやうに考へられるのであります。森の町ならびに附近の真宗の坊主や門徒が腹を立てたのはそれがためであります。  廢悪修善  釈尊の言葉に「衆善奉行、諸悪莫作、自浄其心、是諸仏教」といふことがありまして、悪を廢し、善を修するといふことは仏教の要旨であります。善いことをばせずともよい、悪るいことをば止めなくても善いといふ教は有りませぬ。いくら真宗の教で肉食妻帯を標榜して居るからと言つても、戒を持たなくても善いとは決して言はぬ筈であります。戒を持することが出来ぬと痛感するところに戒を持せねばならぬといふ真面目の心がある訳であります。鐵眼禅師が言はれることに無理はありませぬ。しかるに真宗の坊主達はそれを誤解して自分の宗旨を誹るものであると激昂したのであります。それで鐵眼禅師が言はれるには「凡そ大事といふものは小事から起るものである。真宗の坊さんや門徒達が大勢集まつて兎や角と騒いでおるといふ事も段々と増長して、必ず騒動を起すに相違ないと自分は思ふ。さうなつては第一公儀に対して恐れ多いことであるし、第二には森の家中の騒ぎである。第三に争ひといふことは僧侶のすべきことではない。さういふ訳であるから、私は講釈を止めてこれから他の処へ行きませう。楞巖経といふお経は釈尊が道を諭されたことが書いてある。どういふことが説かれてあるかといふに、人の本心が説いてある。その本心を悟ることが出来たら自他不二で自分といふものと他人との区別がない。從て我他彼此の争といふものは無くなる。しかるに私がここに居て真宗の坊さん達に何かと言はせて置くことは楞巖経を講釈する趣旨にも背くことであるし、又さういふことは極めて愚なことである。それ故に私がここを逃げて、事件を平和におさめたいと思ふ」と言はれました。役人も遺憾千萬ではありますが巳むことを得ず、鐵眼禅師の言はれるやうに取計らひました。  夢幻の罪  鐵眼禅師が森の町を立ち退かれましてから、該事件の裁判が行はれ、光林寺といふ寺と、専光寺といふ寺の住職は徒党を組んで騒擾したといふ罪によりて拘引せられ、重き刑罰に行はるることになりました。ところが鐵眼禅師はそのことを聞かれて、態々使のものを森に遣はして、森の役人に手紙を送られました。その手紙の要旨は「彼等一向宗徒は仏法を誤解したために罪を犯したのである。まことに根抵のない罪で、たとへば夢幻のやうなものである。仏法から出たものであるから仏法に帰らなければならぬ。仏法には是非の争がないから、すべてのものが其位にして天下泰平、国家安穏である訳である。それであるから一向宗徒を罪に行ふてはならぬ」といふ意味でありました。そこで家中のものも大に感心して、許し難い罪であるが鐵眼禅師からの態々の使を以ての申し越であるからと言つて専光寺と光林寺との住職の罪は許されたのでありました。この鐵眼禅師の心持といふものはまことに美しい宗教的のものでありませう。釈尊が道を修めて涅槃の境に到るといはれたのは感情が静かになる心の状態を言はれたのでありまして、それがすなはち宗教的生活であります。鐵眼禅師がこの境地にまで達せられたのには固より長い間の修行を要したことでありますが、鐵眼禅師の如きは実によく釈尊の精神を体驗せられたものであると私は信ずるのであります。  越後のお霜  むかし越後国清原郡の黒澤といふ所にお霜といふ後家が居りました。至つて貧乏でありまして、人に傭はれて生活して居りましたが、因縁の法といふことを信知して、貧苦といふことを厭はず、少しの暇さへあれば法座を尋ねて參詣して居りました。ある同行がお霜に向ひ、「この世は仮の世で、夢幻のやうである。未来は樂しみの極まりのない浄土へ行くのであるから早く死にたいとは思はぬか」と聞きました。ところがお霜の言ふやう「なるほど仰の如くにては候へども早く死にたいとは夢にも思ひ申さず、ただ一日でも娑婆に長らへて居りたいと考へます」と答へますので、同行は聞きかへし、「何故にさう此世に執著するか」と言へばお霜は答へて「大無量壽経の中に、この世界の中で一日一夜善根を修めると、浄土に於て百年の間善い事をしたよりも功徳が多いと説いてあるといふことを聴きましたから、一日でも長くこの世に居つて善いことをしたいと思ひます」と言つたと伝へられて居ります。このお霜のやうな貧乏のものが、よくその貧乏に堪へて、しかも娑婆の世界に活動することを止めやうと思はぬのは、その心に釈尊の因縁の法が十分にわかつて居るためであると言はねばなりませぬ。この世は苦しい娑婆であるから、一日も早くこの苦しみの世界から離れたいと望むのは全く因縁の法を知らないで、その苦しみといふものをば自分が造つて居るのであるとは知らず、自分といふものをばこの苦しみの世界から離して樂しみの世界に送ることが出来るものであると考へて居るのであります。この位、得手勝手なる考へはないでありませう。かういふ意味に於て早くこの娑婆を辞したいという心持はその実、現世の生活に執着することの甚しいもので、若しこの世が自分の思ふ通ほりになるものとすれば、決してこの娑婆を離れやうと望む心持ではありませぬ。未来に樂しい世界を望みて、現世の苦しみを厭ふところに、現世の苦しみを厭ふといふことが真に現世を厭のでなくして、現世の苦しみをば樂しみに変更しやうとする得手勝手の心持に過ぎないことが明かであります。  法を知る  釈尊が、法は因縁によりて生ずるといふことを説かれた。それからして業(カルマ)といふ考へが起り、この業といふ考へが仏教の根本となつて居るのであります。それで、これから、この業(カルマ)のことにつきて、お話を致さうと思ふのでありますが、六ヶ敷い問題でありますから、一回や二回のお話では十分にこれを説明することが出来ませぬ。今回はただその結論をお話致すに止めて置かうと思ふのであります。  釈尊が舎衛城に居られたときに、或日、弟子に向つて次のやうに話を致されました。  「誰でも人間は、自分の好まぬことが無くなつて、さうして自分の望むところのものが多くなるやうに願つて居るであらう。しかるに実際に於ては何時でもそれが反対になるのはどういふ譚であるか」  と言はれました。如何にもこの通ほりでありまして、我々は自分の好きのものは無い方がよい、又自分の好むところのものは多い方がよいと願ふのでありますけれども、実際はその反対で、自分の好むところのものは尠なくして、自分の好まないものが多くて困るのであります。釈尊はその訳を知つて居るかと弟子達に尋ねられましたときに、弟子は  「あなたは法の根本をよく御存知でありますから、あなたからその訳を話して頂きたい。私等はただあなたの仰せを受けついであなたの仰せに從ふのみであります」  と言いました。そこで釈尊は弟子達に向ひて  「それならば自分の言ふところをよく聴け、ここに善い人を見ず、善い法を知らざるものがあるとする。さういふものは自分に行ふべき法と行ふべからざる法とがわからぬから、行ふべき法を行はないで、行ふべからざる法を行ふ、そのために好まないことが増して、望むことが多くならぬのである。ここに四の法がある」  と言つて、それからその四つの法を説明せられました。  四つの法  その四つの法といふのは次の通ほりであります。   現在苦未来苦の法   現在苦未来樂の法   現在樂未来苦の法   現在樂未来樂の法  すなはち現在に苦しみを与へ、又未来にも苦しみを与へる法、現在には苦しみを生ずるが未来には樂を生ずる法、又現在には樂を起すけれども未来には苦しみを起す法、又現在にも未来にも共に樂しみを生ずる法、この四つの法があるといふのであります。智慧のあるものは法といふものをあるがままに見て居るから、行ふべきことと行ふべからざることを、よくわけて、その法の通ほりにすることが出来る、しかるに智慧のないものは、これがわからぬために法に背くから好まぬことが増すのであります。現在苦未来苦といふのはどういふことをいふのであるかといふに、たとへばここに人があつて殺生をする、盗みをする、若しくは邪淫などの戒を犯すとする、さうするとそれが自分の苦しみとなる。さうしてこの悪るい行為のために未来に悪るい結果を致して、未来も苦しみを生ずるのであります。現在苦未来樂といふのは、たとへば殺生をなし、邪淫を犯し、或は盗みをするやうなことを自分で止めて、悪るい行為をしないやうにする。それは現在には苦しいことであるけれどもその結果として未来は樂である。現在樂未来苦といふのは現在に殺生・?盗・邪淫などの悪事をしながらそれを悪るいことと知らないで、樂しみと思ふて居るが、かやうに悪るい行為の結果は必ず未来に苦しみを受けるものである。現在樂未来樂といふのは正しい道に進みて生活するときに現在に於て巳に樂しみを得て、未来にも善い結果を生ずのであります。  四法の譬喩  たとへを挙げていへば、ここに瓢箪の中に酒がある、その酒の中には毒がある。飲みたければ飲むが善いが、しかしながら飲めば死なねばならぬ。かういふことを言はれた時に、その酒を飲むのは現在苦未来苦の法を行ふものである。又ことに味の善い料理がある、しかしながらその中には毒があるといふことを言はれても、なほそれを食ふのは現在樂未来苦の法を行ふものである。又ここにいろいろの薬を混ぜた水がある、それを病人が勤めによつて飲むとする、さうすると味も香もまことに堪へられない苦しみであるけれども、病はそれによりて癒るとすれば、すなはち現在苦未来樂の法を行ふものである。又ここに赤痢を患める人があつて、勸めによりて牛酪と蜂蜜と砂糖とを混ぜた薬を飲むとする。その薬は味も善ければ飲めば病もなほる。すなはち現在樂未来樂の法を行うものである。釈尊はかやうに、極めて卑近なる譬をして、四つの法を説明して居られますが、その趣旨とするところは我々の苦と樂とは全く我々の心にあるといふことを説かれたのであります。  「世の中の一切のものは皆自分の意志から起るものである」  といふ釈尊の考へに本づいて、苦樂は全く自分の心にあるものであるといふことを平易に説明せられたのであります。  自から其心を浄くす  「法句経」といふお経は釈尊の金言を集めたもので、古くから行はれて居るものでありますが、その中に挙げてある釈尊の言葉に、「自分を害するやうな悪るい行は行い易い、自分を利するやうな善い行は行ひ難い、愚なる人は邪見を持つて居るから尊い人の正しい教をば、悪口をいふものである。これは全く自分を滅すべき罪を造るのである。正しい道がわからぬためである。自分が行ふところの悪るい行は自分を穢すより外に結果は無い。美しいといはふが、汚いといはふが皆自分に属するものである。他の人が来てこれを諦めることは出来ない。自から悪るいことをしなければ自からが浄くなる。清らかなると清らかでないとは自分に属するものであるから、人は人を浄め難い。如何ほどの大事があるとも、他のために自己のことを忘れてはならぬ」といふやうな意味の言葉が挙げてあります。これは前にも申した通ほりに、釈尊の教の要旨でありまして、常に自分の心ということを問題としているのであります。  心の沐浴  釈尊はそれから又、弟子達に向ひて、  「染物屋が布を黄金に染めたり、赤色に染めたり、青色に染めたりして、美しく染め上げるのは、その染出すべき布が綺麗でなければならぬ。汚い布では、いくらそれを染めても美しい色に染め上げることは出来ぬ。それは穢れて居るからである。穢れたるものの上に色を染めてもその色は美しく染まるものではない。それと同じやうに穢れたる心の結果といふものは悪るいにきまつて居る。貪欲とか、怒りとか、隠すとか、自惚とかいふ心、嫉みの心、媚の心、人を欺く心、懐疑の心、侮る心、或は騙る心、放逸の心、さういふ心は皆、心の塵であり、心の垢である。この心の壁と垢とを洗い浄めて自己の心を滅することによりて始めて喜びの相となるのである。それ故に自分の心を本としてさうして法を求めなくてはならない」  と教へられました。その時、側に婆羅門の人で婆羅豆婆遮といふ名前のものが居つて、釈尊に向ひ「あなたは心の塵を洗ひ心の垢を落すといはれますが、さうすればあなたはバーフカ河へ沐浴においでになりますか」と尋ねました。釈尊は婆羅豆要遮に向ひて「バーフカ河とは何ものか」と聴かれました。婆羅豆婆遮はそれに答へてバーフカ河は多くの人々がその行を清めるために、又功徳を得るために、そこで沐浴をして居るのであります。バーフカ河がさういふ効能のあるといふことは多くの人々が言つて居るところであります。それであなたも、そのバーフカ河で沐浴をなさるのでありますかと聞いたのであります」と申しました。釈尊はそれを聞いて婆羅豆婆遮に向ひ「バーフカ河は我々の心とは何等の関係がない。自分の教では河の中に入つたからと言つて、それで自分の心が綺麗になるとは決して説かない。自分の説くところは自分の教に入りて、教に沐浴し、殺生をしないやうにし、妄語をしないやうにし、邪淫を犯すことのないやうにし、貪ぼることのないやうにし、すべて自からその心と行とを淨うするのが、自分の教で、沐浴をするのである」と説かれたのであります。  心の邪魔  それから釈尊は又、ある日、他の弟子に対して、正しい道に進むためには五つの心の縛りと五つの心の邪魔を除かねばならぬといふことを示されました。五つの心の邪魔というのは  第一 師に対して疑を抱き信仰せざること  第二 法に惑ふて信仰せざること  第三 僧伽に対して疑を抱き信頼せざること  第四 修学に惑ふて信念に欠ぐること  第五 同学者に対して心をいらだて陰鬱になること(中阿含経に出づ)  の五つであります。第一の師に関して疑を抱くといふことを文字通ほりに解釈すれば師匠の教を疑ふといふことでありますが、その真の意味は、偉大なる人の言行を通じて現はれるところの真理を信じないといふことであります。第二の邪魔は法を知らざるが故に法のままに行ふことが出来ぬ。第三は僧伽に対して疑を抱くのであります。僧伽といふのは仏の道を行ふ人であります。その僧伽を信頼しないことであります。僧侶の中には随分言行の善くない人もありますから、それ等に対して信頼することが出来ぬといふのは人の常でありますが、しかしながら人の言行の悪るいといふことに気がつけば、自分はどうかさういふやうにしないやうにと自ら戒めることが出来る筈であります。それ故に僧侶の言行が善くないからと言つて、それを信頼しないというのは心の邪魔であります。第四は修業に惑ふといふのは智慧をはたらかして種々のはからひをすることであります。第五に同じ道を進むものに対して心をいらだて快活になることが出来ぬのが大なる邪魔であります。  心の縛  それから心の縛りといふものにも五つを挙げてありますが、それは次の通ほりであります。  第一 世の中の物欲に対して貪欲から離れられず、渇けるやうに欲を感ずること  第二 自分の身体につきて貪ぼる思ひから離れられぬこと  第三 物資に対して貪欲を離れることが出来ぬこと  第四 飽食して伝報を貪ぼる思から離れられぬこと  第五 清浄の行をして天界に生れたいといふ念に縛られて居ること(中阿含経に出づ)  第一に我々は一切のものに対して渇愛の心が強く、執著の念が強くして、それによつて心が縛られて居るのであります。前に申した十二因縁の根本は全くこの渇愛にあるといふことは既にお話致した通ほりであります。  第二に我々は自分が一番大切に思ふ所の自身に対して執著の念に縛られて居るのであります。  第三に自分が持つて居るもの、欲しいもの、さういふ物資に対して貪欲の心から離れることが出来ないで、それに縛られて居るものであります。  第四に我々は食ひたいだけ食ふて寝て樂にくらさうといふ心が強いためにそれに縛られて居るのであります。  第五に清浄の行をして天国に行きたいといふ念は常に我々の心を縛るものであります。天国といふのは極樂のことであります。釈尊以前印度の人々が人間の死後に行くべき安樂の所であると信じて居つた場所であります。清浄の行をしてそこへ行かうとすることは心の苦しみを増すものであります。釈尊はこの五つの心の邪魔と心の納とを除かなければ正しい道に進むことが出来ぬと説かれたのであります。苦しみといひ、樂しみといひ、何れにしても皆、我々の心の有様でありますから、自分で自分の心を始末せねばならぬのであります。釈尊が説かれたる趣旨は全くここに存するのであります。  死を恐る  ある日、生聞婆羅門は釈尊に向ひて「私は死なねばならぬもので、死ぬといふことは恐れぬものはないと思ひますが、どうでございませう」と言ひました。さうすると釈尊は「死なねばならぬもので、死を恐れるものもあるが、死を恐れぬものもある。死を恐れるものとは五欲に対して、貪ぼる心を去らず、愛著の思を離れないものが、重い病に罹ると、好きなものを捨てて行かねばならぬと思ふと苦しみ悩み泣き悲しむのである。又この世に於て善い事をなさず悪るい事ばかりをした人も死に面して必ず苦しみ悩むものである。それから正しい法に対して凝ひ迷ふものも必ず死を恐れる、しかしながら婆羅門よ、五欲に対して貪ぼる心を去り、愛著の思ひを離れ、この肉身に対しても貪ぼる心がなく、悪るいことをしないで善いことをして、さうして正しい法に対して疑ひのないものは、重き病に罹りても死ぬるといふことは恐るることがない」と言はれました。ここに釈尊が説かれたる趣旨は死を恐れるといふことは全く死の観念が恐ろしいので、死そのものが恐ろしいのではないから、それを恐れるものと、恐れざるものとがあると言はれたのであります。我々が死といふことを考ふるとき、この世の一切のものに愛著する念が強くあらはれて、この愛著の世界から離れることが恐ろしいのであります。  心に導かる  ある時、一人のお弟子が釈尊に向つて「この世界は何によりて導かれて行くものでありませうか。どうもこの世の中を見ると不思議でありますが、全体この世界は何によりて導かれて居るものでありませうか。如何なるものの支配を受けて居るものでありませうか」と質問したのであります。釈尊はこの質問を受けて「これはまことに結構なる質問である。この世界といふものは心に導かれて居る。誰が支配するかといへば自分の心が支配するものである」と示されたのであります。「法句経」の中に「心を法の本とする、心貴く心に使はる、すべての心のはたらきは思慮が先達であつて、思慮からすべてのものが成立する」と、釈尊の言葉が挙げてありますが、我我は銘々自分の心で自分の世界を造つて居るのでありますから、それを支配するものは自分の心でなくてはならぬ筈であります。釈尊以前の印度の人々は自在天といふものが世の中の一切を造り、さうしてそれが世の中を支配して居るのであると信じて居つたのでありますが、釈尊はその説に反対して、世の中の一切のものは因縁によりて生じたもので、決して自在天がそれを造つたものではないと主張せられたのであります。従つてそれを支配するものは自在天ではなくして、我々の世界を支配するのは我々の心であると説かれたのであります。これが釈尊の教の心髄とするところであります。  唯心的一元論  今申したやうに、心といふものを本として世の中を見て行くといふことは、固より世の中の見方の一とつでありまして、外にも見方があるのでありますが、釈尊の教はかやうに唯心的に世の中を見て行くことに恨本を存するのであります。それ故に仏教のことを知らうとするには先づこのことからして考へて行かねばならぬことであります。今日の新しい学問の上からして世の中を見て行くのにも同じく心を本とするものがありまして、それは唯心的一元論と名づけられて居るのであります。近頃死なれた独逸の有名なる生理学者のフェルウオルン氏などはこの説を主張して居られました。釈尊の説かれるところもこれと同じやうに心といふものを主として考へて行くのであります。「遺教経」に「心を五根の主となす(五根とは眼、耳、鼻、舌、身をいふ、即ち精神作用の門戸たる感覚をいふ)、心の畏るべきは毒蛇、悪獣、怨賊、大火よりも甚し、たとへば人の手に蜜器を執り、動転軽躁としてただ蜜のみを見て深坑を見ざるが如し、急にこれを挫きて放逸ならしむることなかれ、この心を縦にすれば善事を喪ふ、これを一処に制すれば事として辨ぜざるなし、この故に勤めて精進にして心を析伏すべし」と説いてありますが、いかにもその通ほりで、釈尊の教は全くこの趣旨に本づいたものであります。  心の世界  そこで我々は再びもとに戻りて宗教といふものは自分の心の問題であるといふことを考へねばなりませぬ。自分の心の問題といひましても、心につきての学問をするのではありませぬ。自分の心の始末をしやうとするのであります。それ故に宗教の上でいふところの世界は、要するに我々自身の心の世界であります。自分の心に入つて居るもののみが自分の心の世界であります。客観的に見る場合には我々の心を離れて山もあり、川もあり、家もあり、草もあり、木もあるに相違ありませぬが、この自分の心を離れて存するところの山、川、家、草、木は宗教の上に考へるものではありせぬ。宗教といふものは主観的に自分の心のみにつきて考へるものでありますから、山にしても、川にしても、家にしても、又草や木にしてもそれが自分の心の中にあらはれたるときにのみ問題とせらるべきものであります。たとへて申せば、ここに「コップ」がありますが、ここにおいでになるどなたにも「コップ」と見える筈であります。すなはち客観的に「コップ」が存在するのであります。この客観的の存在を知ることは我々の知識のはたらきでありまして、この知識は多くの人々の間にて略ぼ同じことであります。しかしながら、この「コップ」の存在を知ることにつきての銘々の心の内にあらはれる心持は人々によりて同一でありませぬ。すなはちそれは主観的のもので、これを十分に言葉にあらはすことは出来ませぬが、人々によりて各々異なりたる心持をあらはすものでありませう。それが心の世界でありまして、宗教の上では、何時でもこの心の世界を問題にするのであります。  一人四婦の譬喩  ところで、この心の世界は愛著といふことが本となつてあらはれるために何時でも自分に勝手のよいやうになるのであります。それ故に「四十二章経」の中に「慎みて汝が意を信ずることなかれ、汝が意信ずべからず」と書いてある通ほりに、自分の心は得手勝手を免るることが出来ませぬ。これにつきて釈尊が一人四婦の譬を示されたことが「雑阿含経」に載せてあります。その話は次の通ほりであります。  一人で四婦を持つものがありました。第一の婦はその最も重んずるところでありました。行住坐臥しばらくもこれを離さなかつたのであります。第二の婦は常に側にありて會へば喜び離るれば憂ふるといふほどのものでありました。第三の婦は時に會合し、時には思ひ出すといふ程度でありました。第四の婦は常に給仕して居るけれども夫は嘗てこれを護視することがなかつたのであります。ところで夫、命終の時にのぞみて、第一婦を呼びて「我に随ひて此世を去れ」と言つたところが、第一婦は「自分はあなたに随ふことは出来ませぬ」と答へました。そこで第二婦を呼びて「我に随ひて此世を去れ」と言つたところが、「あなたが最も重んぜられる第一婦すら随ひて去らぬといふに、まして私は隨ひ去ることは出来ませぬ」と言ひました。そこで第三婦を呼びて、「我に随ひて去れ」と言つたところが、「私はあなたの恩顧を受けましたから、城外まで送つて行きませう」と言つて随ひ去ることは拒んだ。そこで第四婦に向ひて、「お前はどうだ」と言つたところが、第四婦は泣いていふ「我れもと父母を離れ来りてあなたに給使したのであります。死生苦樂共にあなたの到るところに随ひませう」と答べました。 釈尊はかやうな譬喩の話をして我々の心の有様を説かれたのであります。  意を正しうす  第一の婦はすなはち我々の身体に譬へられたのであります。我々が我が身体を愛することは第一婦に過ぐるものがありますが、しかしながら命終のときに身体は隨ひ行くものではありませぬ。第二の婦は財産に譬へられたのであります。人これを得れば喜び、これを得ざれば憂ふる、それがために終身勤苦しましても命終のときに隨ひ行くものではありませぬ。第三の婦は父母、妻子、兄弟、朋友等に譬へられたのであります。命終の時に泣き哀しみて葬場までは行くけれどもそこから自分の家に還るのであります。第四の婦はすなはち我々の意であります。天下一人として自分の意を愛してそれを守護するものなく、皆心を放ちて心を恣にし、食欲・瞋恚にして正道を信じないのでありますが、しかしながら命終の時にのぞみて随ひ行くのはこの意ばかりであります。それ故に我々は自から心を端しくし、意を正しうすることにつとめねばなりませぬ。  心と業  釈尊の譬喩はまことに卑近のやうでありますが、まことに我々の心が遂に消えることがないといふことを説き示すのが釈尊の教の本旨でありませう。意が我々に随ひ行くといふことはその意味に於て、我々の意は遂に消滅するものでないといふのと同一であります。よくよく考へて見ますと、我々が何か一とつ考へるとすると、その考へたことは決して消えることはありませぬ。一たび何か行ふたとするとその行ふたことは決して消滅することはありませぬ。一たび喋舌つたことも消えなければ、行つたことも、考へたことも決して消えるものではありませぬ。それは皆、自分の心のはたらきで、その自分の心といふものは身体が無くなつても決して消滅するものではありませぬ。さういふ心のはたらきをば我々がよく、内省して、道徳的に考へたときに、それに業(カルマ)といふ名前が附けられるのであります。普通に心といふのは意識のはたらきを指すのでありますが、さういふ意識のはたらきは死ねば無くなつて仕舞ふことは無論であります。しかしながらその意識の内容として、我々が考へたり、しやべつたり、行つたりすることは決して消滅するものではありませぬ。それが集積して業(カルマ)を成すのであります。それ故に業(カルマ)といはるるものは、自分の心を道徳的に深く内省してあらはるるところの心持を言ひ現はすための概念であると言うべきでありませう。  業と運命  さういふやうに考へると、業(カルマ)といふものは因縁によつて現はるるところの結果で、その根本は渇愛に存するものであります。従つて自分の行為につきての責任を、自分が強く感じたるときに起るところの心持に外ならぬのであります。然るに、自分の心を内省しないで考へたときには業(カルマ)といふものは運命と同じやうなものになつて仕舞ふのであります。我々を支配するものは我々の心であつて、決して外から来るところの運命ではありませぬ。仏教を奉じて居ると自称する人々がよく、前世の約束といふことを申しますが、さういふ心持は十分に自分を内省しない時に起る心持であります。仏教にて業(カルマ)と名づけられるものはどうしても内省の結果として現はれるもので、自分の責任を護るために考へられたる運命ではない筈であります。我々が道徳的に自分の心を内省するときには、現在の結果は過去の原因に本づくものであるといふことを考へて、我々の心の過去に遡らねばなりませぬ。さうして我々の心の過去に遡つて考ふるときは、我々の意志や行為や言語が集積して以て現在の結果をあらはしたのであるということに気がつくことでありませう。ここに業(カルマ)といふ言葉が用ひられるのであります。  前業の所感  仏教の学者の中には業(カルマ)を以て一種の力であるかのやうに説く人もあります。又西洋の学者の中には、仏教の業(カルマ)は一とつのエネルギー」(勢力)であると説いて居る人もあります。しかしながら私はさうでなく、因果の法則をば自分の心のはたらきの上に考へたときに感ず心持に外ならぬものであると思ひます。しかるに世間でいはるるところの業(カルマ)といふものが、動もすれば運命と間違つて考へられて居るやうでありますが、それでは仏教の精神が徹底することがないと私は思ひます。真宗仏光寺派の信暁といふ有名の僧侶が書かれたる「山海里」という書物の中に、次のやうな記事があります。  「冬の日雨のそぼ降る夕暮に、あはれげなる乞食の濡れたるを菰を著ながらに、人の軒にたたずみて夜を明さんとしけるを、家の主と見えたる人出あひて、此ところにおかし、いそぎたちのけとてあらけなくいひはるをとかくわびすがりけれども、ききとどけざる故に是非なくも雨に濡れながら、あてどもなしに立ち去るを見たることあり」 と事実を記載して、さうして、それにつきて  「かかる乞食と生れ来て一生をすぎぬるはいかなる前業のなしけるわざなるぞや」  と所感が附記してある。この記事によつて見ると、このあはれなる乞食は前の世の業によつて乞食の生活をして居るのであるが、さてその前の世の業はどういうものであつたらうかと言ふのであります。この文面にあらはれたるところでは前世に業といふものが造られて居つて、それが現在の果を致したものであると説明したのであるやうに見える。  それから又、信曉師の記載に次の通ほりのことがあります。  「又あるとき途中にて、しかも寒かりし日に、四歳ばかりと見ゆる小児の親に捨てられたるものと見えて、なさけにひろひたまはれと書きたる札をつけたるが泣き居たるを、往来の人たちかさなりていづくのたれが子なるぞと尋ねれども、親の名をおぼへざるにや、ただ余事なく母よ母よとのみいひて、わけなくさまよふを見たることあり」  と事実を記したる後に、所感を記して  「やがてくれゆく夜となるにいかがすべきと、おさなき小児ごころにも思ふならむと、その心根をおもひやりければ、他人の身にも不便さのやるかたなきに、捨てたる親の心には、いさぎよき事をしたりとも思ふまじけれども、四五歳まではいだきかかへてそだてたるものを、心強くも捨てけるは身を捨てる藪はなしの諺の道理ならんと思へば捨てる親も捨てられたるおさな子も、いかなる前業の所感なるぞや」  と記してあります。  更に又次のやうな話が載せてあります。  「あるとしの極月、雪ふりつもりたる寒夜に大阪の日本橋を通ほりけるに、乞食に施行の者と見えて長町の方より粥遣ろ粥遣ろと呼び来たる声あり、手代調市出人方ともいふべきもの五六人にて桶に入れたる粥をになひて北へはいるに橋のあたりに寝て居る乞食ども起き上りてその施行を受くるその中に雪しるの氷りたるに身を寄せてこごへながらに寝入りたる乞食の子あり、親あるものと見えたるが、あはただしくゆすり起して粥をもらひて食せよといふ、八九歳と見ゆるもの起き上りて茶碗を出すに施行の若きもの粥をすくひてその茶碗へ山もりになるほど興へおきて急ぎ通ほりて過けるに、この子供兩手こごへてありけるにやはからず茶碗をとりおとし、氷りたる大道にて茶碗割れて粥は地べたへうちあくる、親はあさましき声を出してその小児のあやまりしをしかりける、粥よりは茶碗をわらしたることをいましめける、子供は泣くより外のことなく、そのこぼれたる粥をすこしにてもとちいさき手にてひろい見れども詮方なく、又うづくまりていける」  右のやうな事実を記したる後に、所感を記し  「それ等は施行の善事をうらむるの道理にあることあり、粥遣るさへ来たらねば、寝入たる目をもさまさず、茶碗をゆらすこともなく、親の叱りもうけざるものをと思ふなるべし、これらもいかなる業因の然らしむるものどもなるぞや」  と叙べてあります。  信曉師は又、京都にて十四五歳のある女の子が母と共に伊勢參宮して、道中にて母に死別れ、路銀も衣類も人に取られ、乞食して市中にありたるものが、寒夜飢餓のために困難して居るといふことを聞きて、そのものを助けて遣らふと尋ねたところが遂にその女の子に遭はず、翌日に至りてその女の子はこごへ死したといふことを聞いてあはれさ不憫さ今に忘れ難しと記載し、さて所感を述べて、  「定業とはいいながら昨夜我に出會なば蔵屋敷へ通じてなりとも兎角して本国まで帰してやることの方便もありたるならんにと思へども、元来親子二人參宮思ひ立ち遠路を參りたる神信仰のものなれども、二人ともに他国にて倒れ死するほどの約束、大慈悲深き神慮にても救いたまはりがたき前業の所感なれば、昨夜我等に出遇はざるにもよくよくこごへ死する決定業のものなるべし」  かういふ風に、自分の考へられたることが叙べてあります。 富士川游著述選 第一巻  真実の道  諦めの言葉  信曉師の考へが果してどうであつたかは、この文面だけでは固よりわかりませぬが、しかしながら、これと同じやうな言葉は多くの人々が口にすることでありまして、極めて悲惨の境遇にあつた場合、その悲惨なることの原因をば前業に帰して、その悲惨なる事実を説明せむとするのであります。乞食が寒夜に追い立てられたるも、頑是なき小児が親に捨てられたるも、又少女が街の上でこごへ死したることも、皆これ業因の然らしむるところである、前業の所感であると説明するのであります。どうしても悲惨なる事実を見て、これをその人の責任に帰することをせずして、その責任を業因といふものに嫁せむとするものであるやうに思はれます。つまり諦めの言葉に過ぎぬものであります。仏教にて説くところの業(カルマ)をさういふやうな意味に取ることは釈尊の精神に背きて、我々の心の外に何物か我々を支配するものがあるやうに考へることになりませう。どう考へても仏教にていふところの業(カルマ)はさういふ意味のものではない筈であります。  自己を依所とす  前にも度々お話致したやうに、宗教といふのは普通に多くの人々が考へて居るやうに自分の心を全く打ち捨てて置いて、さうして外の方の何物かにすがつて行かうといふやうな心持ではなく、全く自分の心を修めて苦しみから離れることを求むるのであります。宗教といふと、すぐに神や仏のことが考へられて、さうしてその人間が考へ出した神や仏にすがつて自分の願ふところを達しやうとする、それに祈つて幸福を求めやうとする、さういふ考へがすぐに起きて来るのでありますが、しかしながらさういふやうなことはよく考へて見ると役にたたぬものであります。それで、釈尊はこのことを説いてさういふ仏といふものが、あつたとか有つたにしても、それが自分の心の上にあらはれて自分の苦を除くといふことは決して無いから、さういふものを所とせず、自分の心を所とせよと説かれたのであります。常識で考へて見ても、自分で自分の心を修めて行くといふ事は一切のことでありまして、大抵の人ならば、たとひ自分には気がつかなかつたことでも、話を聞けば成程自分が悪るいといふことに気がつくことでありませう。自分が悪るいということに気がついたならば、それを善い方に改めやうとする志は誰にでも起つて来る筈であります。どうしてもさういふ心が起きて、悪るいことを止めて善いことをするやうにしなければならぬと考へるのであります。しかるに悪るいことは自分がしたのであるけれども、それを止めることは他の人に頼むといふ訳は決して無いのであります。  自分が悪るいことをして居りながらその始末を他の人に頼むといふことは無責任のことでありますが、それは兎も角も、それで自分がする悪るいことが止むことはありませぬ。すべて世の中の一切の事は原因と結果との結び附きでありますから、原因が悪るければ結果も悪るいにきまつて居ります。蓋し善い結果を得やうとするならば必ず善い原因をつくらねばなりませぬ。かういふことはまことに見易い道理で、誰人にもわかることでありませう。しかるに普通に宗教といふと、悪るいことは自分ですこしもやめないで、ただ得手勝手なる自分の望みがかなふやうにと神や仏に祈るのであるといふやうに考へて居る人もあります。これは大なる誤りで、さういふ誤まつた考からして宗教を求めても、その宗教は決して苦を除くことのはたらきはありません。宗教といふものはこれまで繰返してお話したやうに自分の心の問題でありまして、簡単に言へば、自分の心の現在の相を見つめるときにあらはれるところの感情であります。誰人でも現実の自分の心の相を見つめるときに、自分の心の奥底から湧いて来るところの心持が宗教といはれるものでありますから、宗教といふものは要するに、自分を探がすのであります。決して自分の得手勝手の欲望を達するために努力するものではありませぬ。  自分を求めよ  釈尊が或時ある林の中に居られましたときに、その林の中に三十人ほど男が居つて、それが皆友達で、二十九人のものには妻があつたが、ただ一人まだ妻のないのが居つた。それで二十九人の友達が、そのもののために適当の女房を探して遣つたけれどもどうも思はしいものが居らない。しかしながら一人のものを一人ぼつちにして置くのは気の毒でならないから或処から娼女を雇つて来てそれをそのものの妻にした。ところがその雇はれて来た女房が少し性根の善くないもので、二十九人のものが寝て居る間にそこらにあつた品物を引さらへて出奔してしまつたのであります。二十九人のものが起きて見たところが自分の大切なものがないので驚いて娼女を探しあるいて、丁度釈尊が居られたところに来たのであります。二十九人のものは釈尊に向ひて、今ここにかういふ人相の女が来はしなかつたかと尋ねました。さうすると、釈尊はお前達が尋ねる女はどういふ女で、どちらからこの方に来たのであるかと聞かれました。二十九人のものはその娼女のことを有りの儘に話しました。釈尊はそれを聞かれて、それならばお前達に聞きたいことがあるが、「その女を求めるのと、自分を求めるのと、どちらがよいとお前達は思はれるか」と問はれました。二十九人のものは釈尊のこの言葉を聞いて考へました。なるほど逃げた女を探し廻るよりも先づ自分といふものを見つける方が大切であつた。釈尊は二十九人のものが自分を求めることの方が大切でありますと答へたときに、よろしい、さういふことに気がついたならば、そこにすわりなさい、お前達のために法を説かうと言つて一座の説教をせられました。  四苦八苦  この時、釈尊が説かれたる要旨は、人間といふものにはいろいろの苦しみがある。第一生れるといふことが苦しみ(生苦)、第二に年をとるといふことが苦しみ(老苦)、第三に病気の苦しみ(病苦)、第四に死めるといふことの苦しみ(死苦)、これがいはゆる四苦であります。それから、愛するものと別れるといふ苦しみ(愛別離苦、自分の怨み憎むものと一処に居らねばならぬ苦しみ(怨憎會苦)、求めるものが得られぬといふ苦しみ(求不得苦)、それから身体があるために起るところの苦しみ(五陰盛苦)、この四苦を前の四苦と併せて八苦というのである。さうしてこの四苦八苦は、我といふ想が本となつてあらはれるのであるから、その我想を滅ぼすやうにせねばならぬ。それ故に人々は先づ自己を求めなければならぬ。自己を求めて我想といふものが出て来るところを明かにして、その我想といふものを除くことをつとめることによつて苦しみから離れねばならぬと説かれました。二十九人のものはそれを聞いて始めに苦しみが由て起るところを明かにし、自己を求めるといふことが何よりも大切であるといふことをさとつたのであります。  綺麗の心  かやうにして、宗教といふものは自己を求めるといふことに帰著すると言つてもよろしいのであります。我々が自分の心の現在の相を見つめたるときに起るところの感情でありまして、自分の心をその儘にして置いて、外方から何物かを心の中に取り込むといふやうなことではありませぬ。さう申すと、宗教というものは何だか雲をつかむやうなものではないか、ぱつとしたもので何とも蚊とも訳のわからぬやうになるではないかといふ人もありますが、これは考へ方がよろしくないのであります。宗教といふものは固よりぱつとしたものではありませぬ。我々の心を導いて正しき道に進ましめるところの強い力をあらはすものであります。それを今申したやうにぱつとしたもののやうに考へるのは人々の考へであります。その考へを止めなければ宗教といはれるところの感情は起つて来るものでありませぬから、それで何だかぱつとしたもののやうに思はれるのであります。何か自分の心の中にしつかりとしたものをつかみ、胸の中がすつとするやうなことを予想して、どうかさういふさつぱりとした心持になりたいといふ念願で宗教といふものを求める人多いやうでありますが、宗教といふものはさういふ予想によつて到達せらるべきものではありませぬ。宗教といふものは前にも申したやうに自分の心の現実の相を見つめるときに起る感情でありまして、現実の心の相を見つめたるときに綺麗の心であるとは言はれない筈であります。我々の心は我想といふものに本づいて、得手勝手のはたらきをするために四苦八苦をあらはすのでありますから、さういふ現実の心の有様は綺麗なものでない筈であります。  不可思議  宗教は決して予想ではありませぬ。神や仏を予想して、それに助けて貰はふといふやうな心のはたらきがすなはち宗教であるといふことは出来ませぬ。予想といふことは未知の事物を推測によりて考へることでありまして、この考へから離れたるときに宗教といはるる感情が始めて現はれるのであります。神や仏といはれるものは我々の考への上に上ぼるものではありませぬ。どういふ不可思議のものがそこに出て来るか我々にはわからぬが可思議といはれるのであります。さうしてこの不可思議のものに動かされて現はれるところの感情が宗教でありますから、宗教の本質は不可思議のもののはたらきに対する我々の心の態度であると言つても差支が無いのであります。この不可思議といふことは固より心も及ぼす言葉もたえたりといふべきもので、我々の認識の形式では思考の上にあらはれて来ないといふ意味でありまして、我々には到底解釈することが出来ないから不可思議とするの外はないといふやうな意味の不可思議ではありませぬ。これを考へることも説くことも出来ませぬが、しかしながら感情として意識の中に出て来るものでありますから、それを不可思議といふのであります。この不可思議のものに動かされて、宗教と名づけられるところの感情が我々の心の奥底から湧いて来るのであります。  一切を包容する  宗教と名づけられる感情は一種特別のもので、これを説明することは容易でありませぬが、概括していふときは、宗教といふ感情があらはれるときには一切を包容することが出来る心持になるのであります。たとひ自分の好かぬものでも、又悪るいものでも、自分と反対のものでも一切これを自分の心の中に取り入れることの出来る心持をあらはすのでありまして、簡単に申せば歓喜の感情であります。如何なる場合にも喜びの心が起りてそれによりて一切のものを包容することが出来るのであります。普通の場合に我々が喜びの心を起すのは我想といふものが本となつて起つて来るのでありますから、平生我々が歓喜の情をあらはすのは何時でも自分に都合の善い時に限るのであります。畢竟得手勝手の心持でありまして、気に入つたら喜ぶ、気に入らなければ喜ばないのであります。たとへて申せば、何か他の人から忠告を受けたときでも、まことに御親切ありがたうと口には言ひますが、腹の中に喜びの心が起ることはない。すべての人がさうでありませうと思はれますが、欠点といふものは他の人からはよく見えるものでありますから、忠告せられることは親切であり、又たしかにさうであるとは考へられますが、しかしながら忠告が気に入つて喜びの心が起るといふことは普通の心には無いものであります。それは前にも言つた通ほりに我想に本づくものでありますから、釈尊が説かれるやうにこの我想を除き、得手勝手の自分の考へといふものを取り去つて始めて、善きも悪しきも一切を包容することが出来るのであります。これは全く気に入らぬことでも喜ぶことの出来るためでありまして、宗教といはれるものはこの感情によりてあらはれる心のはたらきであります。  盤珪禪師  元祿の頃、播州の網干に盤珪禅師といふ禅宗の大徳が居られました。方々を巡回して仏教の講話をして居られたのでありますが、ある年伊予の大洲で、講話をして居られたときのことであります。その講話會場の近処のものでそこから一里あまり隔つた村落の某家へ嫁に行つた女子がありました。その女子がどういふ訳か夫や姑と喧嘩をして、腹立ちまぎれに悪口雑言をしてその家を退き、急いで我が家へと帰る途中盤珪禅師の講話の會場の前まで来ましたところが、多くの人々が集まつて禅師の講話を聴いて居るのを見て何事かと思ひ、ふとその講話を聴いて見やうとする心が起り、席に上つて聴聞したところが、それが「身びいきのために迷の心が起る、お互に得手勝手の心を振りまはすによつて世の中の騒動が起る」といふ意味の講話であつたので、彼の女子は身にしみじみと聴き取つて内省することが出来ました。講話がすんでからその席に居つた自家の近圏の人々に挨拶をしました。ところが近隣の人々はどうしてここへ參られたかと聞くので、彼の女子は事の始末をかくさずに話をしてきていふやう「元来私はこれまでお寺へ參つたこともない、法話を聴く気も起らなかつたのに、今日夫婦喧嘩をして自家へ帰る途中、講話會場の前まで来て、ふと法話を聴かうといふ心持になつたのは常に不思議である、それに禅師のお話が私の一身のお話であつたのに驚き、身びいきが我身の迷の種であると聴いて私は真に悪るかつたことを知りました、これから直ぐに引返して私の夫や姑に謝罪しやうと思ひます」といふのを近隣の人々が、口を出して「一と先づあなたのお内へお帰りなさい、喧嘩をして逃げて来たのであるから、都合によつては私等が附添ていつて謝罪して上げてもよろしいから」と言うのを彼の女子は「どう致しまして、私が悪るかつたということを私が知つたのでありますから、私が私の罪を謝するのが当然であります」と言つて、近隣の人々の止めるのも聞かず、その場より直ぐに嫁入先の家へ引き返し、そのことの次第を話して姑や夫にわびをしました。夫や姑は固より追ひ出した訳ではなく、嫁の方が腹を立てて飛び出したのでありますから、その謝罪の言を聞いて快く承諾しました。それから嫁のすすめによりて、親子三人打揃つて盤珪禅師の講話會場に赴きてその法話を聴くやうになつて、一家歓喜の生活をするやうになつたといふことであります。  我想を離る  盤珪禅師が身びいきといはれるのは、全く我想といふものに本づいて起るところの得手勝手の心であります。この身びいきの心を離れない限りは、いかなることでも皆、自身を中心として、気に入るやうにつとめるのでありますから、萬事が得手勝手であります。それ故にたとひ言ふことは正しくても、それを聴くものが真実にそれに応じないのであります。これは言ふものが我想を離れないから聴くのも亦我想を離れないためでありまして、世の中の人々の心は皆この通ほりであります。しかるに彼の女子は盤珪禅師の法話を聴いて内省したる結果身びいきが迷の本であるといふことを知つたので、我想を離るることが出来たのであります。さうして我想を離れたる彼の女子の謝罪は姑や夫の心を動かして我想から離れしめたのであります。我想を離れたる所には何時も歓喜の感情があらはれるのでありますから、一切を包容することが出来るのであります。腹立ち紛れに悪口雑言をしてまで退却した女子が、その怨敵と考へた夫や姑をも包容してそれと親しむことが出来るのであります。悪口雑言せられたる夫や姑も彼の女子の罪を許してこれを舊の如くに一家の内に包容することが出来るのであります。宗教といはれる心のはたらきは全くかういふ意義を持つて居るのであります。  感情に導かる。  繰返して申しますが、宗教という心のはたらきは、我々が自分の心の現在の相を見つめたるときに自から湧いて来るところの感情に本づくものでありまして、この心持はそれを予想して起さうとしたところで、予想の通ほりに起つて来るものではありませぬ、我々の心の有樣が醜いからと言つて、それを綺麗にしやうとつとめる心はどこまでも道徳のはたらきでありまして、それによりて宗教のはたらきは現はれるものではありせぬ。どういふ風に出て来るかわからぬものでありますから、まことに漠然としたものであるやうに思はれますが、決して漠然たるものでなく、我々の精神がそれによつて導かれるほどの強い力を有して居るものであります。全体我々人間の行ひは、智慧のはたらきによりて導かれて居るといふことは勿論でありますが、しかしながら実際それは小部分であつて我々の行ひの大部分は感情のはたらきによつて導かれて居るものであります。何事にても心持のよいといふ感情が伴なふときにこそ、どんな苦痛でも忍ぶことが出来るものでありまして、若し喜びの心が起らなかつたときには、如何に正しいと知つた事でも、これを実行することは容易でありませぬ。知るといふことは容易でありながら行ふことの容易でないのに全くこの理由によるものでありまして、実際、我々の心は感情によりて導かれるものであります。智慧のはたらきによつてどういふことが正しいか正しくないかといふことを決定したところで、正しければこれを行い、正しからざればこれを行はないといふやうな訳でなく、正しくても、正しくなくても、自分の心に都合のよい場合には常にこれを行うのが我々人間の常であります。  喜びの心  かやうに我々の行いは、いつでも感情に導かれるといひましたが、常の感情は自己といふものを中心としてあらはれるのでありますから、その感情は得手勝手のものであります。こうして、得手勝手の感情に導かれるところの我々の行為は常に得手勝手を離れることが出来ぬのであります。宗教といふ心のはたらきの場合に起るところの感情は決してさういふ感情でなく、さういふ我々人間の智慧のはたらきを離れ、すなはち我想といふものを離れたるときに自から湧いて出るところの感情に本づきて宗教のはたらきはあらはれるのであります。仏教の書物に「自力のはからひをやめる」と言つてあるのも全くこの意味でありまして、思慮分別のはたらきによりて宗教の感情は起つて来るのではないといふのであります。如何やうに智慧のはたらきが十分であつてもそれで安心といふことが何時でも出来る訳ではない。我々の考へがどういふやうに決定して居るかと言つて、それによつに不安の心持が除かれるのではありませぬ。それ故に、宗教といふものは我々人間の智慧を離れたものであると説かれるのであります、思慮分別によりては宗教の歓喜の感情をあらはすことが出来ないのであります。かう申すと、我々人間の智慧を離れたる感情であるならば、誰にでも同じやうに何時でもあらはれさうなものであると考へる人もありませう。無論この感情はすべての人に同様の歓喜の感情でありまして、智慧のある人にも無い人にも同じやうに起るのであります。しかしながらこの感情のあらはれるといふ場合は常に一定して居りまして、何でもないときに突然と現はれて居るものでは決してありませぬ。  自力の教  それは前にも申した通ほりに、我想といふものを滅ぼしたときに始めてさういふ宗教の感情があらはれるのでありますから、宗教のはたらきを求むるには我想といふものを滅ぼすことが必要であります。これまで仏教の中で自力の教若しくは聖道と言はれて居るものはすなはちこれを説くのであります。すなはち我々が我想を起す所以の道理を知り、さうしてこの我想を除くために相当の修行を要すると説かれて居るのであります。釈尊が説かれたるところをば、その文字通ほりに表面的に解釈すれば釈尊の教は全く之に帰著すると言つてもよいのでありますから、かやうな教をばまた釈迦教とも名づけるのであります。誰でもこの教に従ふて我想を離るることが出来たならば、そのときには何時でも宗教といはるる感情があらはれて来るに相違ありませぬ。しかしながら実際に問題となるのは、かやうの道理を知ることによりて我々が我想を滅ぼすことを得るかといふことと、又我想を滅ぼすために重要なりとせらるるところの諸の行が果して実行せられ得るかといふことに存するのであります。この点につきては後にくはしくお話致す積りでありますが、我想を離るるといふことはさういふ道理を知ることが無くても、又苦しい行を修めなくても自分の心の相を内省して、得手勝手がその本性であるといふことをさとつたときには同じく出来ることであります。六ヶ敷く言へば我の価値を否定するというときには自我を中心とする考へは消えて仕舞ふ訳でありますから、戒(行)と慧(知)とのはたらきによつて我想を滅すると同じやうに、我想がなくなるによつて宗教の感情があらはれて、仏教にて言へば阿弥陀仏のお慈悲が感じられるのであります。法然上人が説かれたる称名念仏の教はすなはちこの意味のものでありまして、一にこれを弥陀教ともいふのであります。知と行とをはげむといふやうなことでなくして、自からに宗教の歓喜の感情が湧いて来るのでありますから、他力の教とも言はれるのであります。  他力の教  我々人間はそれ相応の智慧のはたらきによりて色々のことを考へるものでありますから、何とか彼とか、議論も起るのでありますが、その智慧のはたらきをやめてさういふ考へをしないで、ただ一筋に自分といふものを見つめていつた時には我々は全く不思議の力に動かされて居ると感ずるより外には無い筈であります。我々人間が、我々人間の考へをすればこそ何だ彼だと言つて色々なことを考へなくてはならぬのでありますが、ぢつと自分といふものを見つめて、現在の心の相に目をさまし、我々にはそれ以上に考へる智慧も力もないといふ事がはつきりとして来たならば、最早それ以上に考へることは出来ないで、我といふものの価値は無くなつて仕舞ふ訳であります。すなはち我想を離れて、得手勝手の考へから離れるときに、我々は実に不思議の力に動かされて居るといふことが感ぜられるのであります。不思議と言つたところで、我々が不思議と考へているところの不思議ではなくして我々には思議することの出来ない、人間の智慧を離れたるものを指しているのであります。我々の智慧では説明の出来ないために不思議とするやうな不思議ではありませぬ。此不思議に包まれて、さうしてこの不思議の力に動かされて居るといふことを感ずるところに宗教のはたらきがあらはれるので、これを他力の教といふのであります。この不思議の力をば、宗教的の言葉を用ひて、摂取の光明とするならば、我々はその摂取の光明に包まれて居るといふことを感ずるときに他力の教は我々に味はれるのであります。  鬘童子  釈尊が舍衛城に居られた時に鬘童子といふものが居つて、釈尊に向ひ、「どうも世の中が不思議でなりませぬ。世界は後にどうなるものでありませうか、世界はいつまで有るものでありませうか、又命はどうなるものでありませうか、かういふことに就て、あなたは一向にお話なさらぬやうでありますが、私はそれが不思議でなりませぬ。さういふことがわからなければ修行にこまりますからどうか説明をしていただきたい」と申しました。釈尊はそれを聞いて、「さういふことは我々には容易にわからぬことである。若しそれを知つてから後に道を得やうとするならば、それは道を得ない前に死んで仕舞うであらう、たとひさういふことが明かにわかつたとしてもそれによりて苦しみが無くなる訳では決してない。さういふことを明かにしたからと言つて道を求める上には何の役にも立たないものであるから自分はそれを説かないのである」と答へられました。いかにもその通ほりでありまして、問題とするところはただ自分の心の現在の相であります。其相を見つめたとき、一切の考へから離れてあらはれて来るところの感情はただ歓喜の心でありまして、それがすなはち宗教といふ心のはたらきをするものであります。  内省の境地  これまで繰返して自分の相を見て行くところに宗教と名づけられるところの一種特別の感情が湧くものであるといふ事を申して置いたのでありますが、しかしながら自分の相を自分で見るといふことは決して容易でありませぬ。それ故に内省するといひましても、それが徹底するといふことは六ヶ敷いことであります。内省が徹底するまでに到るには、いろいろの道がありまして、その道を歩むことによりて人々の多くは始めて内省の境に到ることが出来るのであります。教といふものは畢竟その道を説くのであります。種々の方面から言葉を換へ、説明をかへて、種々雑多に説かれて居るのも、要するに我々をして徹底したる内省の境地に到らしめるためのものであります。徹底したる内省が出来て、自分の相が判然としたる場合にはすなはち宗教の心のはたらきが湧いて出るものであります。  忍辱の法  釈尊の教には忍ぶということが大切なる法であるといふことが説いてあります。忍辱と書いてありまして、何事にも耐へ忍ぶ、辛抱するという意味であります。ところで何か事件があつたときに、たとひそれが自分の気にいらぬときでも耐へ忍ぶといふことは勿論善いことであり、又どうかしてその通ほりに実行したいといふ考へがありましても実際に耐へ忍ぶといふことは容易でありませぬ。それは普通に言ふところの耐忍は自分といふものをその儘にして、それを押へつけて辛抱する心持でありますから決して安穩の精神状態でないからであります。道徳の教を向ふに置いて、それを規範として自分といふものを押へつけて、腹の立つときにも腹を立てないやうにつとめるのでありますから、かういふ耐忍は極めて苦しい心持であります。しかるに釈尊が説かれるところの忍辱といふものはさういふ道徳の心持から進んで、宗教の心持に入つての忍辱であります。  無我  前にも申したやうに、普通の人々が耐へ忍ぶといふことは我といふものをその儘にして置いて、その我を抑へつけてそれを道徳の教の中にはめ込むのであります。勿論さういふことは我々人間が社會に生きて行く正しい道でありますから、それを止めてはなりませぬ。どうしても努力して耐忍して行くことを必要とするのであります。しかしながらそれは決して宗教の心持ではありませぬ。宗教といふものはさういふ風に押へつけるのでなく、又苦しみの心持が起らないで、しかも耐認することが出来るのであります。我々人間として道徳のはたらきはまことに大切なものでありますが、しかしながらそれでは苦しみから苦しみに移るのみで、心を安んずるわけには行かないのであります。それ故に、どうしても道徳から宗教に進むで行くのであるが、宗教に進むで見れば、耐忍といふことは全く無我の心持としてあらはれるのであります。畢竟、我といふ心持が強くはたらいて居るから、得手勝手の心が起り、従つて癇癪が起り、腹が立つのでありますが、この我という心持を低くすれば無暗に癇癪が起り、無暗に腹が立つといふやうなことは無い筈であります。それ故に、我といふ心持を無くしたときに、我々は何時でも忍辱の法に到ることが出来るのであります。  堪忍  今から八九十年も前に出来た「提燈灯」と題せる書物の中に堪忍のことについていろいろ面白いことが書いてありますが、この書物は宗の僧侶が著はしたもので、その最初に  「問ふて曰く、此方より腹をたてねども向ふより無理非道をいひかけた時どう堪忍しませう。」  これはよく人のいふことであります。こちらから腹を立てまいとしても、向ふの方から無理非道のことを言つて来るから腹が立つのである。それをどうして堪忍することが出来るかといふ質問であります。  「答へて曰く、向ふよりいふことが無理非道と知れば腹は立たぬ筈、こなたの我慢の身びいきがそこへ出てはやそれに取りついて了簡ならぬなどといふは大なる誤であるまいか、兎角身びいきして、堪忍せず、向ふの無理にこなたの腹立を調合して、いよいよ無理算段になり終には其身を無理の同行となつて、無分別の、我儘のと人にうとまれくらさうよりは五度七度無理をいひかけても取りあはず、こなたの腹立を調合さへせずば終には無理もつきはてて道理の人となるものでござる。  理屈は如何にもさうであります。向ふの方が無理非道であると、知つて居れば腹の立つ筈はない、然るに向ふの無理非道にこちらの立腹を調合するからますます迷ひが深くなるのであります。それで結局、こちらも無理非道の同行となり、向ふが無理非道といふのが、遂に自分も無理非道になつて仕舞ふのであると説くのであります。  「問ふて曰く、おぼえなきに打擲にあふたとき、これも堪忍しませうか。」  「答へて曰く、こなたが意趣をうくる覚さへなければみだりに打擲する人もなきものでござる、若し無法者ありて覚えなきに打擲し悪口雑言いふとても、これまた出あふたが、こなたのふせう、兎角合手にならずあやまつて居さしやれ、人は萬物の霊、此上もなき大切なものを打擲してたのしむものは狂気の人じや、気ちがひを相手にして腹を立て修羅になる、たとへ勝つたとて気ちがひ相手で、手がらにもならず道ある人がほめもしませぬ。たとへば町中で人あやまりて水をかけることが間まあることでござる、幾筋もある道を水をかける所を通ほりかかりますは水のかかる時節で向ふが待つて居てかけたではござらぬ、若しまた途中で大雨降りあたまよりぬるるとて天をにらみ雨を怒りませうか、雨具をもたぬが手前のあやまりでござる。石でも投げかけたらば腹をたてませうが、山より自前と大石が落ちかかり怪我をしたとて石をとらへて怒りませうか。」  「問ふて曰く、親を殺され主人をうたれたとき、堪忍のしやうがごさるか。」  「答へて曰く、故なく親主人をうたれましたら、侍なればそのかたきを取りまする、町人ならば御上よりかたきは取つてくださる、……これは相手のあることじやが、若し途中で雷が落ちかかり死にましたらその一門一家督をとらへ敵と怒り腹立てませうか、舟にて死したる人、海を敵と怒り、難風をののしりませうか、かくの如き果敢なき、今ありて今なきかすかなる夢の世に有ながら樣々に迷い、念より念を起し、かなはぬことを神仏に祈りをかけ勝手ばかりをいひたて、欲より欲に身を苦しめ、一日安心することなく、向ふ人に恨をふくみ悪道へおち入ること親へは不孝、君には不忠、かぞへがたき無分別にあらずや。」  「問ふて曰く、忰が不孝故勘当せうと思ひますが、堪忍の修行で孝行になりませうか。」  「答へて曰く、それは子の不孝ではござらぬ、こなたが教へて不孝にしられるのでござらぬ、なぜといはしやれ、人は萬物の霊神仏の相にして、生れし所は聖人にもなるべきものでござる、それ故孟子も性は善なりといはれました、こなたが寵愛すぎておさなき時より身分にすぎたおどりを教へ、家内でも堪忍の法をたもつ人なく、いささかにも我慢の身びいきして無分別を見ならはせ聞きならはせたとかでござる。……子の不幸もこなたの誤でござるほどに勘当せうより、こなたが今日よりあらためて身びいきを取てのけ一切事を平等に堪忍の法を修行さしやれ。」  「問ふて曰く、母と女房が中が悪うごさる故離縁せうと思いまするが、これも堪忍でむつまじうなりませうか。」  「答へて曰く、これはきついはぢなことでござる母女房が其様に愚痴になるといふはこなたの行がわるいからでござる、そのわけを言いませう。女房がこなたの所へこぬさきに母と中わるくせうとたくんではきませず、母も亦嫁が来たら喧嘩せうと思ふては居りませねども、こなたの不孝さを女房が見ならひ、母もこなたが孝行にない故、不足の心から其様に愚痴になります。すりや女房の不孝も、母の愚痴も皆こなたの誤でござる。」  かういふやうな教は全く道徳の教でありまして、「我」といふものが身びいきで頭を上げるのを押へつけるやうにしやうとつとむるのであります。人が石を投げかけたために怪我をしたとすると、腹が立ちませう。しかるに山から石が落ちかかつて怪我をしてもそれは天災であるとあきらめることが出来ませう。それ故に、人が石を投げた場合でも山から石が落ちたのであると思へば腹の立つことは無いと教へるのであります。教としては、道理至極のことでありますが、しかしながら大抵の人は、人が石を投げかけたのを、山から石が落ちたのと同じやうに考へることは出来ませぬ。まことに道徳の教といふものは知ることが容易でありますが、それを実行することは決して容易でありませぬ。このことは昔から人々のよく知つて居つた事実でありまして、諺に「論語よみの論語しらず」といふことがあります。「論語」を読むでその文字の意味を知ることは容易に出来ますけれども、さてその意味の通ほりのことを実行するということになると到底出来ないことが多くあります。それ故に「論語」は読むでも「論語」は知らぬといはなければならぬことになるのであります。  道徳の徹底  前にも巳にお話致したやうに、我々が何等かの行為をするといふことには、それをすることが心持のよいといふ感情を伴はなければなりませぬ。それ故に、人に石を投げかけられて心持のよいといふ感情が起るとすれば腹が立つことはありますまいが、大抵の人はさういふ場合には不快の感情を起すのでありますから、どうしても腹は立つのであります。それを災難と諦めて我慢しやうとするのは全く道徳的の考へでありまして、「我」といふものを押へつけるのでありまして、それによりて安心立命が出来るものではありません。どうしてもこの道徳の心持から今一層進歩して、宗教の心持にまで到らねば精神の平和を得ることは出来ませぬ。かやうにして宗教は道徳の不徹底なることに気がつくによりて促がされる、内省の段々と進歩するによりて遂に到達すべき境地であるといふことが出来ます。従つて道徳の徹底は宗教のはたらきによりて始めて成就するものであると言うことが出来るのであります。道徳というものは「つとめてこれを為す」ものでありますが、宗教では、どうしてもさうせねば気がすまぬ」といふ心持になるのであります。  宗教の心持  さういふ訳でありますから、我々は道徳の心持を変じて宗教の心持にせねばならぬのでありますが、それがために我々は自分の相といふものを明かにして、「我」といふ得手勝手の心のはたらきを止るやうにせねばなりませぬ。これを自覚といひ、又は内省といふのでありますが、しかしながら内省といふものは容易に徹底するものでありませぬから、從つて道徳の心持から宗教の心持に移るということは困難であります。道徳の教というものは容易にわかるのでありますが、しかしながらそれが容易に実行せられるものでないといふことに気がついて、さうして自分といふものを内省したときに、いかにも自分といふものは力の無い、まことにつまらぬものであるといふことに考への及むだとき、そこに「我」といふものの価値は全く無くなるでありませう。「我」といふものの価値が無くなつたときに、この「我」といふ心持が頭を上げることは無くなるのであります。釈尊が説かれるところの忍辱といふのはこの心持にあらはれるものでありまして、決して「我」を抑へつけるのではありませぬ。言葉は同じでありましても、「我」が無くなりてあらはれるのと、「我」を無くしてあらはさうとするのとは大なる相違であります。  内省の不徹底  しからば道徳といふものは我々は実行が出来ないものであると考へたときに、直ぐに宗教のはたらきが誰にでも起るものであるかといふ質問が起るでありませう。しかしながら実際にそれは容易のことでありませぬ。その故は、「自分が道徳の教に徹底することが出来ぬ」といふことを徹底的に知ることが決して容易のことでないからであります。「私はまことにつまらぬものでありますといふことは人々が言ふことでありますけれども、それはただ口先でさういふだけのことでありまして心の中では「まことにつまつて居る」のであります、卑下するといふことそのものが自慢でありまして、決して「真に自分をつまらぬもの」と知つたのではありませぬ。誰にしても少しく内省をするときに、自分が力の弱いものであるといふ位のことは知ることは出来ますが、しかしながら、真に力の弱いものであるといふことには気がつきませぬから、力が弱いと知りながら、どうにかして苦境を免かれたいという心が起るのであります。さういふ風にして、内省が徹底しないところに、宗教のはたらきを起すことが多くの人々に困難であるといふ根拠が存するのであります。  自己を知る。  履善師の説教の中に「乞食に向ひて、お前は乞食で、身分の卑しいものであると言うときに、その乞食が、私はまことに身分の卑しい乞食でござりますと言つたとして、その乞食に向ひて、お前を大名にしてやると言つて喜ぶやうでは、決して自分を知つたものとは言はれぬ。」と述べておりますが、まことにさうでありませう。むかしのことでありますから階級の制度は厳然として居りました故、乞食が大名になられる筈はありませぬ。それに大名にしてやると言はれて喜ぶのは、全く自分といふものの相を知らぬのであります。しかしながら、かういふ風に自分のことを知らずに居ることは我々人間の常でありますから、自己を知るといふことの容易でないといふことは言ふまでもないことであります。それ故に宗教というのは自分の心の相を見たときに、それが価値のないものであるといふことを知つたときに起るところの一種の感情であると説明しましても、しかしながらそれが容易にあらはれるものでないといふことを繰返して申さなければなりませぬ。  精進努力  それに道を求めるといふことになれば、常に精進努力せねばなりませぬ。他の学問のやうに、ただ聞いて覚えるだけでは決して宗教のはたらきはあらはれるものではありませぬ。知るといふことだけで宗教の心のはたらきがあらはれるので無く、自分を内省して、「我」といふ得手勝手の心持が無くなつたときに始めてはたらきが宗教でありますから、道を求めやうとするには、我々は常に自分をみつめることをつとめねばなりせぬ。さうして自分を省みるための材料は、自分の周囲にあるといふことに注意せねばなりません。ここに一つのコップがありますが、これはガラスで製造せられたもので、水を飲むための道具であるとまで考へるのが普通であります。しかしながらそれではコップと自分とは何等の聯絡もないのでありまして、コップに就て知るといふだけに止まるのであります。若しこのコップが我々と同じやうに精神のはたらきがあるものとすれば、我々人間を指して何といふだらうか、コップは誰にたのまれたかも知れないのに、人のために身を捨てて水を飲む子の道具となりてはたらいて居つて、給料も取らず、禮の一言も言つて貰はず、一生懸命にはたらいて居るのであるから我々人間の心持を見て、何といふでありませうか。我々はさういふ意味に於てコップに対して自分の得手勝手の心持の様子に慚ぢねばなりませぬ。かういふ風に我々の周囲には我々をして内省せしめるための材料が澤山に存在して居るのでありますから、我々はそれによりて精進努力せねばならぬことであります。  僧弘海  むかし弘海といふ坊様が居りました。この坊様は始め禅宗を学むで居りましたが、後に宗を止めて浄土宗の法門に入り、当時有名であつた香樹院講師に從つて勉強して居りました。あるとき香樹院講師に向いて、「私はあなたに從ひまして教を聴いて居りますが、まだどうも自分の心に聞えませぬ、如何したらよろしうございませう」と申しました。さうすると香樹院講師は「先づ聖教をよく読め」といはれました。そこで弘海は「お経を読みまして、その字義はよくわかりますが、どうも心が安かになるといふことが出来ません。どう致したらようございませうか」と尋ねました。さうすると香樹院講師は「よく聴聞せよ」と教へられました。「よく聴聞するといふのは骨を折つて一生懸命に聴くことである」と言はれるのを聞いて弘海は講師に向ひ「さう苦しみの行をするといふことが必要であるとすれば、私がこれまで修めて居りました禅宗の教と同じことであります」と言いました。ところが香樹院講師は弘海のこの言葉を聴かれて、「お前は法を求める志が無い、いかに容易の法であると言つても、仏になるといふ大事に寝て居つて牡丹餅が棚から落ちて口に這入るやうなことはない、道を求めるといふ志が無くて、聴聞が出来るものではない」と叱られました。  聴聞  それから又、香樹院講師は弘海に向ひ「身命を抛ちて法を聴くことは勿論であるが、間断なく聴聞することを怠つてはならぬ」と教へられました。弘海はそれを聴いて「如何にも尤に存じますが、法縁が無く、聴開する機會がすくないので、間断なく聴聞するといふことは甚だ困難であります」と言いました。香樹院講師はそれを聴かれて「馬鹿なことを言うな、若し法話が無ければ、嘗て聞いたことを思へばよいではないか、法話を聴くことのみを聴聞といふのではない、前に聴いたことを思ふのもまた聴くのではないか、お前には眼があるだらうからその眼でお経を読め、それも法を聴くのである。若し又、世事にかかはり、法を聴くの暇が無いといふことであれば、口に名號を唱へればよいではないか、お前が長い間修行をしてまだ信を得ないのは全く業障が深いからである」と教へられました。弘海はそれを聴いて「経を読むといふことは耳から聴くのでありますから、聴聞に相違ありませぬが、自分の口に唱へる称名が聴聞であると仰せられるのはどういふ訳でありますか」と尋ねました。所が香樹院講師は大きな声を出して「お前は何事を言つて居るか、自分が唱へる念仏といふのが何処にあるか、唱へさせるものがありて唱へさせ給ふ念仏である、この念仏は何のために成就して、何のために唱へねばならぬかといふことを、よく考へて見るときは法の貴とさがわかるではないか」と叱られました。自分の周囲にある一切のものに対してそれを自分を反省する材料とするところに宗教の心のはたらきが存するのであります。  内愚外賢  親鸞聖人が著はされたる「愚禿鈔」と題する書物の内に「賢者の信を聞きて愚禿が心を顕はす、賢者の信は内賢にして外愚、愚禿が信は内愚にして外賢なり」とありますが、これも聖人が賢者の心に対して自分の心を見られたのであります。賢者の信を材料として自分の信の価値のないことを自覚せられたのであります。賢者の信を聞きていかにもそれが美しいものであると知つて、どうかしてこの通ほりに自分もなつて見たいと考へるところに自分の内省といふものは出来ません。固より自分を進めて行かうとする努力は大切なものでありますから、さういふ努力が無益のものであるといふのではありませぬが、それでは宗教のはたらきがあらはれるものでないといふことを今は申し上げるのであります。賢者の信はいかにも内は賢くして外が愚であるのに比して、自分の信は外の方が賢いやうで内の方が愚であると気がつくところに、自分の価値は全く否定せられるのでありますから、そこにあらはれるところの心持は宗教的のものであります。  自己を映す鏡  かやうに考へて来ますれば、世の中の一切のものは皆、自分の相を映して居る鏡であるといはなければなりませぬ。これを他の方面から言へば世の中の一切のものの上に自分といふものの相を見ることが出来るのであります。現在の新聞の所謂三面記事を御覧になると、毎日毎日悪るいことをした人々のことが報道せられて居ります。これは勿論世の中の現象でありますが、或は人殺しをしたものが居つた、或は泥棒をしたものが縛られたといふやうに話をして居る間は、自分の心の内のものではありませぬ。自分とは関係のない他人の問題でありますが、それを鏡として自分の心を照して見ると、自分の心とてもさう立派なものではない、自分とても人殺しをしないとも限らず、又泥棒をするときもあるかも知れぬと内省をしたときには三面記事の報道も自分と離れたものではありませぬ。我々はそれによりて、自分の相を見ることが出来るのであります。  佐々木高綱  佐々木四郎高綱といへば、宇治川の先陣でその名が高い武士でありますが、この高綱はその前、源頼朝が石橋山に兵を起して、敗れて大庭三郎というもののために殺されやうとした場合に、頼朝をその危険から救つたのであります。それで頼朝が大に喜むで、他日自分が天下を取つたならばその半分をお前に与へるといつた。ところが後果して頼朝は平家を亡ぼして天下を統一し、征夷大将軍となつた。しかるに高綱は前の予約に反して僅かに中国七州だけ貰つた。それで高綱は大に不服で、頼朝に叛かうとして竊かに計画をめぐらしたのであります。それを覚明といふ人が聞いて高綱に手紙を送つたのでありますが、その手紙には次の句が認めてありました。   殘水小魚貪食不知時渇   糞中穢虫争居不居外清  少しばかり殘つて居るところの水の中に小魚が居つて、それが食うことを求めて居り、その居るところの水が渇くときがあるといふことを知らぬ、まことに憫れなものである。糞の中に居る穢虫が互にその居るところを争ふて居りて、糞の外に清いところがあるといふことを知らぬ、まことにかはいさうなものであるといふ意味であります。高綱はこれを見て、始めて自分の相に目がさめて、その心を飜《ひるがえ》して、仏門に入つたといふことであります。これは小説に近い話でありまして、事実であるかどうかはわかりませんが、しかし実際にありさうな話で、自分の得手勝手の考へをやめて、じつと周囲のものを見つめるときは何時でも自分の相がかかるものでありますから、そこに自から宗教の心持があらはれて来るのであります。  庄之助  むかし江戸に庄之助といふ妙好人が居りました。この人の伝記には美しい話が幾つも伝はつて居るのでありますが、或日用事があつて日本橋へ行つたところが、橋の辺に鯉を商ふものが居りまして、鹽の中にすこしばかりの水を入れ、その中に鯉を数尾入れて居りましたのを圧之助は見て雨の眼から涙を流してかなしみました。それその鯉が僅かの水に命をつないで居り、しかもそれが人に買ひ取られて料理して食料とせられるということを知らずし、喘ぎ、水を飲む有様は全く自分の現在の相であると考へたからでありました。まことに我々から見れば鯉は売られるのでありますから、それが買ひ取られたら最後、忽ちにしてその命を取られるといふことは必然のことで、しかもそれが眼前に迫つて居るのでありますが、鯉はそれを知らずして、何時までもその命を保つて行かうと水を飲むで居るのであります。それを鏡として自分の相を見るとき、まことにかなしむべきは当然であります。  体驗と真似  かくの如く、宗教といふものは、自分の相を明かにして、それが全く価値のないものであるといふことがわかつたときに、「我」といふ得手勝手の考へを離れたときに自から起つて来るところの感情でありますから、その感情が出たところの結果を見て、その通りにならうと望むのは無益のことであります。たとへて申せば、酒を飲むで酔ふて愉快の心持になつて居る人を見て、その人の通ほりに愉快の心持にならうと思ふて、幾ら努力しても、その真似は出来るにしても真実に愉快の心持になり得ることはありませぬ。酒に酔ふた真似が出来たからと言つて、それで酒に酔ふたと同じ愉快の心持になつたのではありませぬ。すなはち宗教は真似をすべきものではなくして体驗すべきものであります。酒に酔ふた人の愉快の心持になりたいと望むならば、すなはちその原因たるべき酒を飲むべきでありませう。酒を飲みて酔ふことが出来れば愉快の心持は自からにしてあらはれるのであります。宗教のはたらきもそれと同じことでありまして、宗教の心持をあらはすべき根本を明かにすることが大切でありまして、宗教の感情としてあらはれたるところのみを見て、その通ほりにならうとするのは無の努力に過ぎませぬ。  内省と宗教  自己を映す鏡といふことにつきて、この前に申し述べて置きましたが、全体我々人間は生きて行かうとする欲求が極めて強いために、自分に都合のよいことを求めて居るのでありますから、我々の考へは何時でも自分を中心とするものであります。自分を中心とするものでありますから從つて我々の考へは得手勝手の方へと進むで行くのであります。それ故に真実の道へと進まうとするには、この自分中心の得手勝手の考へから離れることが第一に必要であります。さうして自分を中心とする得手勝手の考へは自分を内省することが十分でなければわかることでありませぬから、内省をするといふことが肝要であります。この意味から申せば宗教という心のはたらきは全く内省によりて始めてあらはれるものであると言つて差支はありませぬ。  内省の方法  ところで内省をするといふことは容易のことでありません。誰人でも言葉の上では自分が悪るいといふことは言ふのでありますが、しかしながらそれが真の内省であるかどうかは余程吟味しなければならぬことであります。自分が悪いといふことは誰人でも言ふことが出来るものでありますから、ただその言葉だけを聞いてそれで内省が十分に出来たものと考へるのは間違ひであります。今ここに内省と申すのは、自分を省みるといふだけでなく、自分を中心に考へて行くところの自我という意識の全く価値のないといふことを知ることをいふのであります。他の言葉で申せば、自分を中心に得手勝手に考へて行くところの心を否定することであります。しかしながら自分で自分を内省するといふことは自分の眼で自分の顔を見ることが出来ぬと同じやうに困難なことでありますから、自分の心を映す鏡が必要であるので、前回にその鏡のことを一寸申したのであります。ところでその鏡といふものは果して何であるかといいますと、それは世の中の相であります。世の中の一切のものは皆自分の心を映す鏡として、その鏡にうつりたるところの自分の心を自分ながら見ることが出来るのであります。  神仏をはかる  奥田稲杖という人の書いた「心学道乃話」と申す書物の中に、次のやうなことが書いてあります。 「宮寺へ参ても、拍手を打たり、珠数をすつたりしてトホカミヱミタメの南無阿弥陀仏の南無妙法蓮華経のといふて、滅多にハァハァと咽をゑぐつて天窓《アタマ》ばかりかがめたといふても、向ふの神様や、仏様が、ツツツツそれでよしよしとあふせられるやら、いやいやそれではわるいとあふせられるやら、御心にかなふたやら、かなはぬやら、その御返答がわからいでは真の片便宜といふものじや」  御寺や神社に参つて頭を下げたところが、こちらが願ふところのものが神や仏に通ずるかどうか一向にわからぬのであるから、ただ自分の勝手に自分の勝手を願ふだけのことであります。それから又、次に 「又そのやうに神仏をおがみもせず、祭りもせずといふ人にせよ、銘々かうして家の内に暮して居るからには我が先祖や親御の年忌弔をせぬ人はあるまいが、それもやつぱり同じことで、その先祖や親御の神靈がヲヲヲヲヨシヨシとあふせられるやら、またイヤイヤそれではすまぬとあふせられるやら、心にかなふたやら、かなはぬやら、それがわからいでは真の闇の夜に遠眼鏡を見るやうなもので、わからぬことの天上じや、しかしこれは斯ふいふても今時世間には幾等もある神子よせとか、神おろしとか、あんな怪しいことをしたり、又何所の爺さまに弘法大師が乗りうつつて斯ういうお告げがあつたげなの、そこの婆さまに山の稲荷が乗りうつつて斯ういふことを言ふたげなのと、そんな時もないことに肝玉をぬかれたり、金銀を費したりするやうな阿房なことをするものじやないぞ、あんなことをあてにして年中うろたへまはる人も世間には多いものじやが、それが矢張正真の活きた神仏の御心がわからぬから、我こころをもつて神仏をはかるので、真の当座の気休めをするものじや」  と書いてあります。まことに我が得手勝手の心をもつて神や仏をはかるのでありますから、到底真の神や仏の心を得るまでに至ることは出来ませぬ。  功利的の考  「心学道乃話」には、これに続きて、一つの笑話が挙げられて居ります。 「丁度或所の貧乏人の嚊が難産でウンウンうめき苦しみ廻るを、たへがたく思ふたか、頓に裏の井戸の側へ立て裸になりて、水垢離をとり、讃岐の金毘羅様を祈りましたげな、南無象頭山金毘羅大権現様、嚊が難産を助けたまへ、たとひ小児の命はなくとも嚊が命をたすけたまへ、その御禮には此寒中はだかで日參致しませう、若又母子共無事で身二つになりましたら、その御禮には金の鳥居をこしらへて御神前へ建てませうと、一心になつて祈る声を、障子の内から嚊が聞て、これはけしからぬ事と思ひ、苦しい中から言ひますは、申し申しこちの人、いかに神様がものをいはつしやらぬとて、そりやあんまりな立願じや、ここから讃岐の金毘羅様へは二百里あまりあるといふに、寒中裸で日參がどうしてマア出来るものか、其上に又朝食ふて晩には食ふ宛もない貧乏な此内から金の鳥居がどうしてマア出来るものでござらうぞと、顔をしかめて言ひましたら、かの男小さい声で、ハテサテそちは合点の悪るい、おれがここから斯ういふて金毘羅を歎ますうちに、そちは早く産みおれというたと申す話があるが、大てい凡夫の境界はマアこの位が多いものじや、これを斯うして下さつたら何何を拵へて上げませうの、あれを叶へて下さつたら斯ういふことを致しませうのと、何ぞ神様や仏様をお医者か取揚婆のやうに思ふて居る、何とあはれなものじやないか、神は非禮をうけたまはず、そんなことでどうしてまあ神の御心や仏の御心にかなうものか」  かう書いてありますが、いかにも大抵の人々の心はかういふ風な功利的のものであります。ことにつまらぬやうな俗談でありますが、たしかに我々の心を映す鏡でありして、我々はこれによりて我々の得手勝手の心の浅間しい相を明かにすることが出来るのであります。  人間以上の力  かういふやうな得手勝手の心にて神や仏に向つたところで、それで真実の宗教の心のはたらきがあらはれる筈はないのであります。自分の力の足りないところを助けて呉れるものが、外にありて、それに計測して自分の力の足りないところを補つて貰はうとする。それが宗教であると考へて居る人もあるやうでありますが、さういふ心持は決して真実の宗教ではありませぬ。これは全く自分を中心に得手勝手に考へるのでありまして、「心学道乃話」に書いてあるやうに、自分の心を以て神仏をはかるものであります。たとひ神といひましても、又仏といひましても、皆自分の都合のよいものを求めるに過ぎませぬから、畢竟自分の心で自分に勝手のよいやうに造り上げたものであります。さういふやうに自分の得手勝手の心の向ふにあらはれるところの神や仏といふものは自分の気に入らない限りそれを崇めるものではありませぬ。人間の力はまことに弱いものであるから仕方がない、人間の智慧はまことに小さいものであるから仕方がない。この上は人間よりずつと偉大なる神や仏の力を仰ぐより外はないといふやうなことは人のよく言ふことでありますが、それも人間の考へでありまして、人間よりずつと偉大なるものと言つたところで、それは人間がさう考へるまでのことであります。決して人間以上に偉大なるものではありませぬ。  不思議の力  これと同じ意味で、仏といふものは人間の考へに及ばぬ不可思議のものであると言ひますが、しかしながら不可思議と言ふだけのことで、実際不可思議のものではありませぬ。実際に不可思議といふべきものは我々には思議の出来ぬものでありますから、言ふことも、考へることも出来ぬ筈のものでありますが、それを不可思議のものと思議するところに実際の不可思議のものでないといふことは明かであります。人間よりずつと偉大のものであると言つたところが、又不可思議のものであると言つたところが、すべて人間の考へであつて、人間の考へは自分を中心に得手勝手にあらはれるのでありますから、その偉大なりというもの、若しくは不可思議なりとするものが自分の気に入らぬときは決してそれを崇めるものではありませぬ。それ故にさういふ不思議のものを考へたところで、そこに宗教といふ心のはたらきがあらはれることはありませぬ。  智慧を離る  宗教といふ心のはたらきは、さういふ人間の心の得手勝手のはたらきを止めるときに、自からあらはれて来るところの特別の感情であります。この感情は普通の感情のやうに自分を中心とする意識を離れて起るものでありまして、その感情のために我々の心は導かれて行くものであります。それ故に宗教といふ心のはたらきは強いものであります。既に前にお申した通ほりに、我々の精神生活は固より智慧によつて導かれるものでありますが、智慧には限りがありますから、それによりてはどうすることも出来ぬことがあります。そのときに宗教といふものがあらはれて智恵の足らぬところを補ふのでありますから、宗教といふ心のはたらきが智慧のはたらきを離れてあらはれるといふことは自から明かなる次第でありませう。幾ら智慧がはたらいて物事が知られて居るからと言つて、それで心が安まるものではありませんから、どうしても智慧を離れたる心のはたらきがあらはれてそれによりて心が安まるものであります。  推理にあらず  今若し自分が死んだならば、どうなるだらうかと考へると不安であります。それで死んだ後には心は消えて仕舞ふるのであると知つても、又死後には極樂にいつて新しい生活をするのであると知つたにしても、どちらにしてもそれで不安の心が無くなるものではありませぬ。元来我々が未来のことをきめるには、既往の経驗の知識を本として推理する外にはどうすることも出来ぬのであります。たとへて申せば明日といふものは未来のことでありますから、これを見ることも出来ず、又これを実際に証明することも出来ぬものであります。それでこれまでの長い間の経驗に、昨日の次に今日があり、今日の次に明日があつた事実に基づきて明日が必ず来るということを推して考へるのであります。それ故に明日が必ず来るかどうかといふことを真面目に考へるときには安心が出来るものではありませぬ。これは全く我々の智恵のはたらきでありまして、その智慧には限りがありますから、そのはたらきによりて全然心を安んずるといふところまでは判らぬのであります。宗教といふ心のはたらきはこの智慧のはたらきを離れて、自から湧いて来るところの感情としてあらはれるものでありますから、どうしてもこれを不可思議のものとせねばなりませぬ。  今ばかり  今からざつと百五六十年ばかり前のことでありますが、安永と申す年號の頃に備後の楠安那郡の某村に弥曾吾といふ孝行人が居つてお上から褒美を貰つたことがありました。その弥曾吾の父は名を五平といひましたが、この五平の父親は非常な癇癪持で、短気ものでありました。母は十年このかた病気に罹つて病床に呻吟して居りました。五平に一人の姉がありましたが、その姉が三十九、五平が三十五の年まで、兩人で気六かしい父と病人の母とを介護して、他家へかたづかず、又嫁を貰はず、見る人が皆感心して居つたのでありましたが、或時隣の人が来て、以下に向ひて、お母さんも長い間の病気で、さぞ看病に疲れたことであらうと慰めたところが、五平が言ふやう「いいえ、母親の病気は昨日からで、私達はちよつとも疲れは致しませぬ」と言つたといふことであります。まことによく考へて見れば我々はただ瞬間時の存在でありまして、未来はまだ来らず、過去は既に過ぎ去つて居りますから、我々はただ今ばかり生存して居るのであります。五平の内省は徹底して居つたのであります。母親は五平のこの言葉を聞いて涙を流して子の恩を感謝しつつ間もなく死亡しました。  自己を責む  それから五平は始めて妻を貰ひ、姉は他家へかたづいたのでありますが、五平の子が二人出来て兄を弥曾吾といひ、妹をお絹といひました。ところが或時弥曾吾が酒を飲みて公の務に不首尾のことがありした、その時から五平は、平生好きで呑むで居つた酒を飲むことをふつつりやめました。人々はそれを見て不審に思ひその故を問ふたけれども五平は何とも言はないで居りましたが、たつての質問にとうとう白状しました。五平がいふには 「自分は酒が好きで若い時から酒を飲むだ、弥曾吾が酒のために不首尾のことがあつたと言つてもそれを咎めることは出来ない、弥曾吾が酒のために失策したのを見て自分が酒を飲むだ罪のほどがしみじみと感ぜられる、それ故に自分に酒を飲むことを止めた」と言つたといふことであります。五平は弥曾吾の酒のための失策を自己を映す鏡として内省をして居るのであります。かう内省をしたときに起るのは宗教の心のはたらきでありまして、罪あるものを咎めない、罪を赦して一切を包容する、さうしてますます自分の愚悪に気をつけるのであります。まことに我々の智慧を離れてあらはれるところの不思議の心のはたらきといはねばなりませぬ。弥曾吾が孝行人として褒美を頂くやうになりましたのも全くかういふ親の宗教的気分に教養せられたる結果でありませう。  教導する心  心の鏡に向ひて、それに映つて居るところの自分の心を見て、その相の愚悪なることに気がつくときに、ただ自分を責めるより外はありませぬ。自分の心の愚悪なることに気がついて見ればどうすることも出来ぬのであります。普通の人々の場合ならば、息子が酒を飲むで失策したのを見れば、酒を飲んではいかぬと教訓するのが常であります。酒を飲むからさういふ失策をするのである、これから酒を飲むことを止めよと叱責するのが、普通の教導の仕方であります。固より自分の息子を良く育てようとの念願からすることでありまして、無理からぬことではありますが、しかしながらそれによりて真に教導の道が尽されたと思ふのは大なる誤であります。五平は弥曾吾の酒の上の失策を見て自己を映す鏡とし、それによりて自分の心の醜き相を見て私かに嘆いて居るのであります。すこしもその息子を教導する心を持つて居りませぬ。五平は全く自分といふものを中心に考えるところの得手勝手の心を離れて他人をも自分をもどうすることも出来ぬ心の境に立つて居ります。そこにまことがはたらいて居りますから、弥曾吾はそれに動かされて、酒を飲むことを止めて親孝行の評判を取るまでになつたのでありませう。  治郎右衛門  もう一とつ昔の話をして置きませう。それは享保の頃、摂津の国摩耶山の麗に治郎右衞門といふ百姓が居りました。浄土真宗の流を汲むで信心堅固のものでありましたが、至つて貧乏の生活をして居りました。ところが毎年一二度づつ京都の本願寺へ参詣するので、蕨を取つてそれを町に賣つてその賣代金を本願寺に献ずるといふやうなやり方でありました。その頃、京都の西陣に菱屋了玄といふ金持が居つて、これも浄土真宗の信者で、毎日、本願寺へ参詣して居つたので、何時しか治郎右衛門と語り合ふやうになり、互に肝胆相照すといふ有様で、治郎右衛門が上京する度には了玄のところを宿とするやうになりました。ところが或年、毎年一二度は必ず上京する治郎右衛門が京都に上つて来ないので、了玄は不審に思い、無事なれば必ず參詣する人であるのに、參詣せぬのは病気に相違ない、若しくは往生せられたかも知れない、何にしても気にかかることであるから行つて見よう、この世の友達は随分多いことであるが、未来までの友達はあの人ばかりだ、どうして暮して居られるか、行つて見ようと、家来一人を連れて遥る遥る摩耶山の麓の村に至り、さうして村の人に聞いたところが、村の人がいふには「この村に治郎右衛門と申すものは居りますけれども、あなたのやうな富裕のお方がおたづねになるやうなものではござりませぬ。その日の煙も立てかねて、口には粗食を食い、身には破れたる衣を著たる乞食体のものでござります」と言つて、治郎右衛門の家を教へました。まことにその家は貧乏で殆ど人間が住む家ではない、竹の柱に蓬の網戸、壁もまばらに、床とてもない土の上に荒莚を敷いてその上に治郎右衛門は坐つて居りました。  菱屋了玄  そこで、菱屋了玄は「治郎右衛門どの家にか」と訪ねますると、治郎右衛門は挨拶をかへし「さてさて了玄様におはするか、ようこそおいで下されました。私もこの頃不快で起臥が安らかでありませぬため、御本山への参詣も怠つて居ります。あなたは存命にてますます称名念仏喜び申さるることこそ目出度くぞんじまする。まづまづこちらへおはいり下さいと言つて、家に入れたけれども、むさくるしき住家で、すわるところもない有様でありますが、しかしながら兩人は夜更るまで法義のことなど話し合ひ互に称名念仏して居りました。召し連れられた家来のものはさういふ事には志のないもので大変に困つて不自由に一夜をあかしたのであります。二人は積る話をして明る朝、別れに臨みて、了玄がいふには「これは多分今生の暇乞であらうと思ふ。どちらが前に往生するかも知れぬが、あなたが若し前にお立ちであつたら、浄土で待つて居つて下さい。自分が早く往生したなら半坐を別けて待つて居ります」と言つて、互に別を告げるときに、了玄は懐中から金若干を出してそれを治郎右衛門に与へていふには「あなたの体を見るに甚だ貧しいやうだ。この世はしばしの仮の宿であるから、貧しいことは左まで厭ひ玉ふところではあるまいけれども、自分は同行のよしみで見るに忍び難いから、何の忠功もない下僕にでも少しのものを施すのに、まして一味の信を賜はりし身は四海皆兄弟なりと承つて居るから、持ち合したいささかの金を進上する。せめて風を防ぐほどの戸障子でも、これで求めて下さい」と言ひました。  因果の道理  ところが、治郎右衛門が申すに「存じもよらぬ御事を仰せられる。これまで多年よしみを結び、信心堅固の良教を得たことと思つてうれしく存じて居りましたが、只今の御言葉を聞いて、さてはあなたの御心得も如何かと存じまする。貧職苦樂は前世の業因からあらはれるものでありますから、あなたのやうに富裕であるのも前業であり、自分のやうに貧賤であるのも宿業であります。業力といふものは聖者も免かれ給ふことでないのに、あなたはそれを救はむとせられまする。因果の道理を辨へぬためにさういふことをいはれるのでありませう」と言ひました。了玄はそれを聞いて「まことに驚きました。私のいやしい心にくらべてあなたを助けやうと思つたのは間違ひでありました。仰ぎ願はくはもとの如くに、交はりたまはば浮生の思ひ出、この上ないことであります」と懇にわびて、もとのやうに、打ち解けて、この後もますます交を厚くして居つたといふことであります。この話は仰誓師の「妙好人伝」に載せられた話でありますが、よほどよく考へて見ねばならぬ話であります。  業報を甘受す。  了玄が未来までの友達であると許して居る治郎右衛門が貧乏の様子を見て、金をやつて寒さを凌ぐやうな用意の出来るやうといふ親切はありがたい心であります。普通の人々は下さいと頼むでも呉れるものではありませぬのに、了玄は頼まぬ治郎右衛門に金を遺らうとするのであります。いはゆる博愛の心のあらはれでありませう。勿論人間の善事でありますが、しかしながらこれは親鸞聖人が言はれる聖道の慈悲でありまして末とほらぬものであります。治郎右衛門が言ふやうに、貧富苦樂は宿業の致すところでありますから、聖者であつてもそれを助けることは出来ぬ筈であります。自分の宿業であると自覚したるところに貧苦は甘んじて自からこれを受くべきでありますからこれを苦にする筈はありませぬ。貧乏でないものが、貧乏のものを見て、さぞ苦しからうと推測するのはいやしい自分の心にくらべて他の心をおしはかるためであります。宿業のことはりをば徹底して考へて居る治郎右衛門には、貧乏は何の苦しみも覚えぬのであります。まことにその心が宗教の本質をあらはして居るのであります。了玄も固より宗教の心のはたらきをあらはして居るのでありますから、治郎右衛門の言葉を聴いてすぐに自己の思想を見ることが出来たのであります。普通ならば折角親切に恵むでやらうとするのを辞退するばかりでなく、却て悪口をいふなどは以ての外であると立腹するのが常であります。しかるに了玄はさうでなく、治郎右衞門のために宿業のことはりを説かれて、それによりてすぐに自己の態度の間違つて居つたといふことに気がついたのであります。二人共に得手勝手の自己中心の心を離れて、不可思議のものに動かされて居るのであります。  人の字  奥田頼杖が著したる「心学道乃話」の中に、或処の百姓の嫁が姑を殺したる話を挙げ教訓の資料としてありますが、口語体の文章でありますから、今その本文を読みませう。 「近頃或国の在郷に小百姓の嫁が姑を殺した事がござりました。これも始からそのやうなおそろしい嫁ではござりませぬから、はじめ嫁入して来たときには姑へ手をついて、私は何もぞんじませぬ不調法もの、さぞ不都合なることばかりでございませう。たらはぬ所はどうなりといふに聞かして可愛がつて下さりませと、我身を引さげ、順の道を守つて居たに違ひはあるまいから、そこで姑も又、身に立ちかへつて、いいやのふ、わしも此やうに歳はよる、愚痴にはなる、若い衆の厄介がちどうぞ面倒見て下され、たのみますといふたに違ひはあるまいから、人といふ文字の形が誠によく出来て居るのじや。」人といふ文字は陽の長い棒と陰の短い棒とが相擁して立派の形をして居るので、陽は上に居り、陰は下に居り、相互にその分を守るのが人の道であると説くのが所謂心学の主要とするところであります。  おれがおれがの鬼  それから話がつづくのでありますが。「そこで婆さまはやさしい声で、こふ嫁丈、今朝はゑろふ寒いから、まあ来て火燵へあたらしやれといはるると、嫁も又やさしい声で、はい、ありがたふぞんじます、わたしはどうで若いもの、あなたさまは御老年、どうぞお冷なさらぬやう御用心なされて下さりませといふ。そこで又婆さまもおおよくいふて下さるのふ、しかしおまへ若ふても用心するがよいぞへ、どうぞ煩はぬやうにさつしやれと、いはるると嫁も又、はいはいありがたふぞんじますで、始の程は相互の胸の中おれがおれがの鬼が居らぬゆへ、睦じい、これが兩鏡相対して影像なしといふ活仏の寄合じや」  お互の胸の中におれがおれがの鬼が居るときはお互に人を責めて己を省みることのないものであります。その鬼がお互の胸の中に居ないときは、清らかなる二たつの鏡を相向けたやうなもので、何もうつるものはないのであります。  慎しみの心  それから又、言葉を進めて 「夫婦の中でそのとほり、どんな我慢な夫婦でも、婚禮の盃をつかみ合ふてするものではない、その時は互ににこにこで、夫は女房可愛のたつた一とつゆへ女房も又夫大事の一心不乱、これも陰陽合体の人といふ字がまことによふ出来て居る。此やうなことを自然傍から犬や猫が見て居たら何と思ふであらう、偖《さて》も偖も人間がたといふものは尊いものじや、あれから見れば、おれ等がやうな畜生は浅間しいものじや、あのとほりに知らぬ同士、一つ所へ寄合と、相互に歯をむいたり、飛びついたり、ふうふうわんわんの噛み合するが、人間方はあのやうに知らぬ同士が寄合ても、互に禮儀が正しうて、夫婦の盃なさるれば、直ちに夫婦の禮があり、嫁姑の盃なされば直に親子の禮儀があると感心するに違ひはあるまい。そんなら此嫁姑も始終この人といふ文字の形をくづさぬやうにして、犬や猫に笑はれぬやうにして居ればよいに、月日のたつに從ふて、段々つつしみの心が薄くなると、つい言葉づかいもあらくなつて、互にいひたい事をいふやうにもなり、したいままをするやうになる」 感情が強く動くときは理性の力ではどうともすることが出来ぬやうになります。慣れるに從ふて感情のあらはれが違つて来ますから、遂には慎しみの心が薄くなるのであります。  足上頭下 「さうなると、この人といふ字が我他彼此我他彼此と動き出して姑は嫁を呼ぶにも大きな尖り声して、こりややい嫁丈といふやうになり、嫁も又大きな声してゑい喧しい何じやいなと、いふやうになる、そこで何喧しいとは誰にいふのかと咎めると、そりやお前の呼やうがあんまりじやからと互に角を出しかけると、はじめに言ふた事が皆嘘になつてしまふ。始には何も知らぬ不調法ものといふた嫁が頓と発明になり出して、わたしも美目は十人竝、まんざら塵塚から拾ひあげられたものでもない、何屋何兵衛といふ礎とした親里もあるもの、おまへの儘にもなりすまいといふと、姑も又始にはわしも歳はよる、眼はうすしといふたものが頓に達者になり出して、おれはまんだ眼もよく見える、手足も達者なゆへ、まんざらそなたに寝せ起しをして貰ふやうにもござらぬ、やれやれおそろしい嫁の面つき見るも嫌じやと、かの人といふ字の長い方の陽点の姑が、短かい陰点の嫁の後へ行きすぎると、陰点の嫁も又順の道を失ふて、陽点の姑の天窓の上へあがるやうになる、さうなると、この人という字が逆に引くりかへるから、始に感心した犬猫も見てあきれる、やあやあ始は貴い人であつたが、はや逆に、ひつくりかへつてわんわんの噛合がはじまつたから、もうおれ等の仲間入したといふのであらう、何とまあ浅間しいことじやないか、それを足上頭下といふて大道を逆立してあるくやうなものゆへ、よいことはない筈じや。」いかにもさうであります。家庭にても銘々が自分勝手のことを言ひ募れば、その家庭の平和を保つことは出来ませぬ。  順の道に違ふ  そこでかの百姓の嫁は次第に邪見になる、姑は段々愚痴になつて朝から晩までがみがみ噛み合つたのでありますが、到頭姑は眼が見えなくなりました。年を取つて眼が見えぬのでありますからそれをいたはるのが嫁の道でありますが、感情が悪るくなつて居るので、眼の見えぬのを幸に無禮の振舞をするといふ風でありました。或日のこと、妻を搗きて、それを莚にひろげて干して置いて家内のもの一同は田植へ行きました。俄に夕立がしたので、留守番をして居つた眼くらの姑さんがその姿を濡してはと思うから不自由の体ながらさぐりさぐりに麦を干したる莚を内庭へ引き込ふとして麦をこぼしました。そこへ嫁が帰つて来て、眼くらの姑がいらざる指出さつしやるから麦がこぼれたと怒鳴つて暴力を用いて姑をつき倒しました。しかるに姑さんは打ちどころが悪くてそれがために卒倒して遂に亡くなりました。それが官に聞こへて死刑に処せられたといふ事実を挙げて、嫁が姑に事へるといふ順の道を誤まつてはならぬといふ心学者一流の教訓が説いてあります。  機縁あれば  私が今この嫁の話を引くのは、その事実を例として道徳の教を示さうとするのではありませぬ。又姑と嫁との間の道は孝順であるといふことを心学者風に説かうとするのでもありませぬ。私がかういふ話を例に挙げるのは、前に申した通ほりに、我々の感情は自分を中心に得手勝手にあらはれるものでありますから、それに任すといふと、常に真実の道から離れるものであるといふことを示さうとするのであります。おれがおれがの鬼と言つてあるのは全く自分を中心に考へるところの感情に本づくものでありまして、この感情が動くと、道理は十分にわかつて居る人で、その感情に動かされて思はず邪の道に踏み入るものであります。嫁入して来た時には実際まだその自分中心の感情を動かすべき機會がないために平和を保つことが出来るのでありまして、真実にその心が平和であるのではありませぬから、平和を破るやうな機會があれば、直ぐにがみがみ噛み合ふのであります。それを慎しみの心が薄くなつたと言はれるのでありますが、それは我々の心を道徳の上から見て言はれることでありまして、実際の心のはたらきの上から見れば、自分を中心とする感情の動く機會が多くなつたのであります。それ故に自分は道徳の教を守つて居るから、さういふ悪るいことはしないといふ風に、極めて表面的に、薄つぺらな考へをして居る人々には何時でもこの嫁のやうな過ちが起るものであるといふことを申し上げたいために私はこの例を引いたのであります。  人を責めず  「法句経」に次のやうな釈尊の言葉が出て居ります。  「不好責彼、務自省身、如有知此、永滅無忠」  この言葉は人を責むることをやめて自らを省みよ、さすれば苦しみはないといふ意味であります。「彼れを責むることを好まず、務めて自から身を省みよ、もし此を知ることあらば永く滅して悪なけん」といふのでありす。元来、人を責むるといふことはおれがおれがのがはたらくためでありまして、自分のことは棚に上げて置てただ人のことばかりをいふのが我々の心の常であります。前に読みました書物の中にある通ほりに、如何なる人間と雖も婚禮の席で抓み合をするものはありますまい。後になつてお互に自分を棚に上げて置いて人を責めるやうになつてから夫婦の抓み合も始まるのであります。それ故に人を責めることをやめて務めて自分を省みるといふことは我々の第一に心がくべき道であると言はねばなりませぬ。人を責むることを好まずして、自からその身を省みることが十分であつたならば、我々の心の苦しみといふものは永く滅して仕舞ふものでありますから、それによりて真実の平和が得られることは疑のない訳であります。  浅間しい心  かういふことは誰人にも考へのつくことでありませうが、しかしながら実際に人を責むることなくして、我が身を省みるといふことが行はれるかどうかといひますと、それを実行して居ると答へることは出来ないでありませう。なるほど人を責むることなく、自分を省みるといふことは我々の常に心がけねばならぬものであるといふ道理はよくわかつて居るにしても、実際にさう実行して居るかと問はるれば、どうも思ふ通ほりには行かぬと返答せねばなりませぬ。ただ思ふ通ほりに実行することが出来ぬばかりでなく、我々はむしろ進むで、人を責むるといふことに理屈をつけ、又自分を省みるということには制限をつけ、人の悪るいと思ふことは容赦はせず、自分の悪るいことをばどこまでも弁護してその悪るいことをかくさうとするのであります。まことに浅間しい心であると言はねばなりませぬ。  煩惱具足  道徳の心が強くあらはれれば、あらはれるほど、自分の心が道徳の規範に背くものであるといふことに気がつくのであります。人を責むることなく、自分を省みることを第一にせねばならぬといふ教はよく理解して居つても、どうしてもそれを実行することが出来ぬといふ自分の浅間しい心を見つめたときに、まことに自分の心は煩悩具足であるといはねばならぬのであります。仏教でいふところの煩悩は、かやうに自分の心の内面を見て、まことに浅間しい心であると自分に気のついたときに、その意味があるものでありまして、ただ我々の心が悪るいからそれを煩悩と名づけるのであるといふやうなことではありませぬ。人間の心は悪るいからそれを煩悩といふのであると、人ごとのやうに考へるときに、そこに宗教上の意味は無い訳であります。宗教の心持にていふところの煩悩具足といふものは、自分を内省したときの心持でありまして、単に心が悪いといふやうなことをいふのではありませぬ。嫁入して来たときの当座は所謂慎しみの心が強くしてよく姑に事へたものが、段々に自分の我儘を言ひ張るやうになつて来たが、それはまことに浅間しい心であると自覚したときに始めて煩悩具足であると感知することが出来るのであります。ここに自分のやうな煩悩具足のものが人を責めることは善くないといふ道理を知りながら、人を責める、自から省みなければならぬといふ教を知つて居りながら、真に自分を省みるといふことの出来ないものであるといふ自分の内面を見るときに、我々は煩悩具足と痛感せざるを得ないのであります。  人を裁く  あれは善い、これは悪るいと、人を裁くことは至つて上手でありますけれども、自分を裁くことは決してすることのないのが我々の常であります。たとひ自分が悪るかつたと思ふことがあつても、どうにかしてそれを繕ろふて善いやうに取りはからほうとする、どうにかしてその悪るいことの責任を免かれやうとし、又どうにかしてその悪るいことをかくして仕舞はうとするのであります。自分では最善を尽したのであるが、まことに致方のない次第であると言つて見たり、神や仏でない限り、人間としてはこれ以上出来ることではないといふやうなことを言つて、どうしても一切の責任を自分で負ふといふことをしないのであります。人を貶すことには十分つとめますけれども自分をば決して貶すことはなく、どこまでも辨護する心持でありますから、そこに人と人との間に平和が破られるのであります。かういふ心の有様をありのままに見つめたときにあらはれる心持が煩悩具足といはれるのであります。  助けられる  かやうに内省したときに、我々は我々の心を以てして、教を守ることも出来ず、身を修むることも出来ないといふ浅間しい心の有樣に当面するのであります。さうして我々は我々の心のはたらきを以ては、我々の心をばどうすることも出来ぬといふ実情を知ることが出来るのであります。そこに我々の思慮分別を離れて、不可思議の力があらはれて、我々の心はそれに導かれて真実の道に入ることが出来るのであります。仏に助けられるといふのはまさにこの心の有様を指していふのであります。我々が我々の心の内面を見て、その悪るい有様と、どうすることも出来ない有様とを知つたときには、我々の思慮分別はすこしもそのはたらきをあらはすことが出来ないのでありますから、そこに我々の思慮分別を離れたる不思議の力がはたらきて我々はそれに導かれて真実の道に進むことが出来るのであります。それ故に、その心持を簡単に約めて言へば、煩悩具足の心持が真にあらはれたときに我々は邪なる道から離れることが出来るのであります。  悪人正機  右のやうな次第で、如来のお助けは悪人を正機とすると説かれるのであります。正機といふのは救済の正しき目当てというほどの意味でありまして、仏の方より、言へば煩悩具足のものであるから、それをたすけねばならぬのであります。我々の力より言へば煩悩具足であるから助けられるのであります。それでありますから、平気で説教を聞くと、お互は煩悩具足の故にたすかる、仏は煩悩具足のものを殊にあはれみたまふと説かれるから、悪るいことをした方が余計たすかる筈だと、考へ違ひをして、悪るい行をしないやうに慎しみの心を起すことは要らぬと考へるものがあります。親鸞聖人が世に居られたときにもさういふ誤解をしたものが多かつたと見えて、聖人の御手紙の中にそのことが委しく説き示してあります。それは前にも申したやうに、煩悩具足といふ事をば自分の心から離してただ悪るい心とのみ考へるためでありまして、全く内省が足らぬ結果であります。  廃悪修善  親鸞聖人のお手紙に、次のやうに書いてあります。 「凡夫ナレバトテ、ナニゴトモ、オモフサマナラバ、ヌスミヲモシ、人ヲモ殺シナンドスベキカハ」  煩悩具足の凡夫であるからといつて、何事も自分の思ふやうに振舞ふてよいと言つて、人の物を取つたり、人を殺したりするといふことは決して為すべきことではありませぬ。 「モトヌスミゴコロアラン人モ、極樂ヲネガヒ、念仏ヲマフスホドノコトニナリナバ、モトヒガウタルココロヲモ思ヒナヲシテコソアルベキニ、ソノシルシモナカラン人々ニ、悪クルシカラズトインコト、ユメユメアルベカラズ候」  もつと悪るい心のある人でも、宗教の心持があらはれたときには自分の心を内省するのであるから、悪るいことをしてもよいとは決して言ふべきことではありませぬ。  「煩悩ニクルハサレテ、思ハザルホカニ、スマジキコトヲモフルマヒ、イフマジキコトヲモイヒ、思フマジキコトヲモ思フニテコソアレ」  煩悩は我々の心の真実の相でありますから、思ふまじきことを思い、いふまじきことをもいひ、すまじきことをするのでありますが、その相に当面して、道徳上の苦しみが起り、そこに煩悩具足の感があらはれるのでありますから、我々の心は決して道徳上の規範を離れるべきではありませぬ。  「サハラヌコトナレバトテ、ヒトノタメニモ、ハラクロク、スマジキコトヲモシ、イフマジキコトヲモイハバ、煩悩ニクルハサレタル儀ニハアラデ、ワザトスマジキコトヲモセバ、返々アルマジキコトナリ」  煩悩は仏のたすけを受けるさはりとはならぬといはれても、わざと悪るいことをするといふことは善くないと懇切に説かれたのであります。このお手紙はまだ長いのでありますが、その要旨は悪を廃し、善を修めるといふことが仏道を修むるものにも大切であるということを教へ示されて居るのであります。  業の相続者  さういふ次第でありますから、自分は煩悩具足のものであると感知することは内省を十分にするときに始めて出来ることでありまして、ただ自分は悪るいのであると口だけでいふのではありませぬ。そこで内省といふことが何時も宗教の問題となるのでありますが、釈尊が内省に就て説かれた中に、誰人でも省みねばならぬといふことが五つあるとして、第一に自分は老いて行く身であり、老を超ゆることが出来ぬといふことを省みねばならぬと挙げてあります。それから第二に自分は病むべき身であり、病を超ゆることが出来ぬといふことを省みねばならぬ、第三に自分は死に行くべき身であり、死を超ゆることが出来ぬといふことを省みねばならぬ、第四に自分の愛するものを好むものも皆転変無常であるから、取りとめのないものであるといふことを省みねばならぬとあります。これ等は宇宙及び人生に対しての思索によりて自分といふものの相を見るのでありますが、第五の、自分は自分の業の相続者であり、自分が積むだ業の相続をしなければならぬといふことを内省せねばならぬといふことは、実に自分のありの儘の相を見て行くものでありまして、煩悩具足ということも、さういふ風に内省するときに真に宗教的の意味を有するに至るものであります。  内省の極致  業といふことに就きては、これまで度々お話致したのでありますから、御承知のことといへますが、自分の行為の結果をいふのでありまして、我々の身と口と意との三つのもののはたらきが業を造ると説かれるのであります。自分といふものはどうして出来たかといふことは容易に解釈の出来ぬことでありますが、しかしながらどうしてもそれを解釈せねばならぬために、色々の考へが起るのであります。自分は自分の業の相続者であるといふことを哲学的に考へれば、それまでのことでありますが、内省の極致として、自分は自分の業の相続者であると考へるところに、全く宗教の感情があらはれて来るのであります。自分は自分の業の相続者である以上、自分は自分の心が煩悩具足であるといふ苦しみを考へたときに、それは甘んじて受けねばならぬところの自分の業の結果であるといふことを知らねばなりません。これまさに内省の極致であります。  責任を他に嫁す。  しかしながら、それが内省の極致でなくして、単に業報であるといふときには、業といふものが自分を縛つて自由にすることを許さないから致方がないといふやうに、責任を業に嫁して自分の罪を消さうとするに止まるのでありますから、それでは宗教の感情の起る筈はありませぬ。自分が考へたり、言つたり、行つたりしたことが、業となりて、この業がどこかに殘つて居つて自分を束縛するのであると考へるのでは、内省の極致としてあらはれるところの業の意味とは全く懸け離れたものであります。たとひ業といふものが自分の行為の結果として起るものであると考へるにしても、それは自分の責任を嫁するための業でありまして、決して宗教的の意味を有するものではありませぬ。釈尊が言はれる自分の業の相続者といふ意味はかやうに深く内省して、自分は煩悩具足の罪の塊であるといふことに帰著するのであります。  嫁の心が変る  釈尊が舎衛城に居られたる時に一人の若い青年が居りまして、釈尊を尊敬して篤く仏法を信じて居りました。年をとつた母が居りまして、この青年はその母を大切にして居りました。母はその息子のために自から娘をこれを息子の妻にしました。始の程は家内が平和でありましたが、段々と嫁の心がかはりて遂にその夫にすすめて姑を家の外に遂ひ出さうとしました。ところが息子は仏法を力に堪へ忍むで居りましたが、到頭嫁もそれに動かされて姑を大切にするやうになりました。その後、かの青年が釈尊に面會したときに、釈尊はその青年に向ひ、相変らず母を大切にするかと尋ねられました。ところで青年は有りの儘の事情を話しました。さうすると、釈尊はむかしにも同じやうなる話があると言つて、次のやうなお話を至されました。  家庭不和  むかし或所に青年が居つて、父が死んでからその母を大切にして居つた。母はその息子のために自から同じ家柄の娘を撰びて嫁にした。始めの間は家内が睦じくして居つたが、段々と嫁の我儘が出て、遂にその夫に説いて姑を家の外に逐ひ出した。それから間もなく子供が産れた。そこでその嫁が人々に向ひ、これによりて姑が悪るいといふことは明かでありませう、姑が家を出てから可愛い子供も出来て家内が樂しくなつたではありませぬかと言つた。それを聞いて始はひどく腹を立て、さういふ悪人が世にはびこるのは誠が死んだのであると言つて、葬式をしやうとその仕度をして居つた。そこへ帝釈天が婆羅門の姿をして現はれて、その姑に向ひ、お前は誠が死んだといふが、誠は決して死んだのではない、法の我は現に生きて居る、決して死にはせんと言つた。姑はそれに対して法といふものは確かに死にました、悪るいことをするものが世にはびこるのはその証拠でありますと言つた。帝釈天はそれを聞いて、法は決して死んでは居らぬ、自分はお前のためにここに来たのである。お前が悪くむ嫁も、可愛い孫も共に同じ火で焼いて仕舞はうかと言つた。  己に反る  それを聞いた姑は驚いて、孫を焼かれては大変と思つたので、それならばどうぞ私も嫁も孫も仲よく一緒に幕せるやうにして頂きたいと哀願した。そこで帝釈天が言はるるやう「女よ、お前がいぢめられてもお前自身正しい法を捨てないならばお前は可愛い孫や嫁と一緒に睦まじく暮せるであらう、恐れるなよ、お前の子も嫁も私の力で気がついて今頃汝を迎ひにここに来るであらう、つとめ勵みて善を修めよ」と言つて姿を消して天上に昇つた。釈尊はかういふ昔噺をしてその青年がよく内省し身を修め心を修めたことを賞められました。かういふ話は、話として見れば平凡のものに過ぎませぬが、静かに考へて、これを自分の心の問題として見るときにはすなはち宗教の感情が湧いて出るのであります。いくらいぢめられても私自身に正しい法を捨てなければ精神の平和は保つことが出来るのでありますが、我々のやうな愚悪のものは動もすれば正しい法を捨てるものであります。それを煩悩具足と感知したるとき、我々は正しい法といふものか果してどういふものであるかといふことを知らないと考へたときに、我々は何時でもそこに正しい法を持つて居るのであります。  責任を仏に譲る。  自分は自分の業の相続者であるから、自分が積むだ業に対しては全責任を負はねばならぬといふことを明かに自覚するときに宗教の感情が起るものであるといふことは、上段に例話を挙げて申した通ほりでありますが、しかしながら自分が積むだ業に対して自分が責任を負ふといふことは余程深く考へなければその意味がわからぬであらうと思はれます。我々は自分といふものを善いものとしたい心持で居りますから、たとひ悪るいと自分で承知が出来ても、どうしてもその悪るいといふことを他のものの責任に嫁したいのであります。それ故に悪るいと考へてもしかしながら人間だから仕方がない、神や仏でない凡夫であるから仕方がないといふやうに悪るいといふことの責任を人間といふものに嫁して仕舞はうとするのであります。そのために我々は苦しみから免れることが出来ぬのでありまして、この心持から離れなければ宗教の感情が起ることがない。悪るいことは自分がして、その責任を神や仏に譲るといふことは得手勝手の甚だしいものであります。  徒らに仏を拝む  宗教を求むる人々の多くが、かやうな心持で得手勝手に仏をおがみ、自分が造つたところの業の結果を取り除いて貰はうとするのはつまり出来ない相談であります。これまで繰返して申したやうに、宗教といはるるものは自分の相に目がさめて、その愚悪が明かに知られたときに心の中から湧いて出るところの感情であります。得手勝手の願をかなへて貰はうとして徒らに仏を拝むといふやうなことで湧いて出るところの感情ではありませぬ。自分の思惑を知りて、どうすることも出来ず、手も足も出ない心の有樣に到達したときに心の中から不思議に湧いて出るところの喜びの感情が宗教といはれるものでありまして、喜ばれると考へて喜ばれるものでなく、愉快にならうと思つて愉快になれるものではありませぬ。どうして自分といふものを内省してその真実の相に当面して、最悪の自分はどうすることも出来ないことを知つたときに、始めて自分の地位を明かにし、それによりて喜びの心が起るのであります。まことに不可思議の力のあらはれであるといはねばなりませぬ。徒に仏を拝むだところで、それによりてここにいふやうな宗教の感情が起るものではありませぬ。自分の責任を仏に嫁して仕舞はうといふ得手勝手の望から仏を拝むといふことも、結局不可思議の力に頼らうとするのでありますが、しかしながらその不可思議といふのは我々が不可思議と思議するところのもので、我々には思議することの出来ぬところの不可思議ではありませぬから、それによりて宗教、感情が起ることはありませぬ。  愚悪の心  かやうに、我々の心は愚悪のもので、責任を他に嫁することをつとむるものであるといふことを自覚することが大切でありまして、その悪の心を除き去るといふことは問題ではありません。自分が悪るいといふことを知つたならば、それを直さねばならぬといふことは宗教の上で言ふことではありませぬ。してならぬことを故意にするといふことは固より善くないことでありまして、苟《いやしく》も道徳の心のあるものは故意に悪るいことをしないやうにつとめねばならぬのでありますが、持つて生れたる愚悪の心は、それをどうすることも出来ぬのであります。持つて生れたる愚悪の心はどうすることも出来ぬといふことを明かに知つたときに、我々は手も足も出ないのであります。しかるにそれをどうにかしやうと努力するのは全く道徳の心持でありまして、その心持は苦しみを増すばかりで決して苦しみから離れる道ではありませぬ。道徳の教は固より人間に必要なものでありまして、世の中を渡つて行く上には大切の教でありますから、ますますそれをつとめねばならぬものであります。しかしながら自分の心ではどうすることも出来ぬところの生れつきの愚悪の心は、道徳の欲によりては如何ともすることが出来ぬために宗教のはたらきを必要とするのであります。故意に悪るいことをする、わざとすまじきことをするといふことは固より道徳の教によりてこれを正すことが出来る筈であります。従つて道徳の教に背きて悪るいことをするといふことは甚だよろしくないことでありますが、我々の心は日常それに背くことが多いのでありますからそれに気がつくと苦しみの心が強くなるのみで、道徳の教はその苦しみを除くものではありません。殊に生れつきの愚悪はその真実の相を明かにすればするほど、道徳でそれを始末することが出来ぬといふことに気がつくのであります。ここに宗教の必要が起るのでありますから、宗教は道徳のやうに自分の心を善くするやうにつとめやうとするものではありませぬ。  私の経驗  かういふことに就きてはどなたにも御経驗のあることと思ひますが、私が経驗した一例をお話致しませう。一昨年の夏、私は山口県に參りましたが、その時広島から夜行の汽車に乗り、朝早く幅生といふ停車場で下車し、それから縫部行の汽車に乗り換たのであります。切符は固より広島よりの通ほし切符でありましたから、寝台車から下りて「プラットホーム」をあるいて、乗換の停車場の方へ進まうとすると、驛夫がいきなり怒鳴りつけてここを通ほつてはいけない、あとへ帰れといふのであります。私には何の意味かわかりませぬから切符を見せて瀧部へ行くために乗換をするのであると申しましたが驛夫は頑固として承知しませぬ。しかしながら私は鐵道規則には背いては居ないと信じて居りましたから、更に乗換の停車場の方へ進まうとすると驛夫は遮つて留めるのであります。私は理不尽なる驛夫の処置に激昂して腹が立ちました。そこへ折よく驛長が参りましたから、どういふ訳であらうかと聞きましたところが驛長の言はるるには、それは驛夫の考へ違ひであつたが、この停車場を横ぎつて向ふの停車場へ行かれるのと間違へてとめたのでありませうといふことでありました。それで私にも驛夫が私の進行を遮つたのは全く私がこの停車場を横断するものと信じたためであつたといふことがわかりました。さうわかつて見れば私が驛夫のいふところに腹を立てたのは全く私の方が悪るかつたのでありました。間違ひといふことは何時でもあることであります。それに最後の寝台車から下りたのでありますから驛夫には列車から下りたものとは思はれなかつたのでありませう。それに私は自分が正しいと考へましたから驛夫をばけしかぬ奴だと考へて甚だ不愉快でありました。自分が正しいと考へたのでありますから愉快であるべき筈でありますが、あの時には甚だ不愉快でありました。」ところが驛長の話を聞き、それから驛夫が間違つたことをわびたときには全く私が事情を明かにしないで腹を立てたのがわるかつたと考へましたが、その時には驛夫に対して気の毒でありました。自分が悪るかつたと考へたときには愉快の心持でありました。かういふことは日常の経驗にあることで、どなたにも同じやうな御経驗があるであらうと思ひます。  機の深信  自分は正しい道を踏むで居るから自分は善い、しかるに先方は自分に対して理不尽のことをする責任は全く先方に在りと考ふるときはどうしても自分の心に苦しみを生ずるのであります。先方の事情をも明かにせず、無暗に腹を立てたのは自分が悪るかつたと責任を負ふときには自分の心の苦しみは消えるものであります。自己を善しとするところにはどうしても相手を裁いて、何でも相手の方を悪るくしやうとする心持がはたらくのであります。そこで自分の心の相をよく知つて、自分は常に自分を善しとするものであると自覚したときには自分は実に愚悪のものであると認めねばなりませぬ。すなはち自分の責任は自分にこれを負はうとする場合は自分といふものは愚悪であると自から信じたときであります。仏教ではこれを機深信と名づけてあります。機といふのは器のことで仏法を受ける器といふ意味で、すなはち我々自分のことであります。その自分が愚悪であるといふことを知ることを機の深信と名づけるのであります。かやうに我々自分が愚悪のものであると信じたときにはすなはち宗教の感情があらはれるものでありますから、機深信が出来たときには法深信が出来ると説くのであります。自分の愚悪に気がつくときは法の貴さがわかるのであります。  法の深信  この法の深信と機の深信とを併せて二種深信と名づけるのでありますが、固より機と法とが互に別れてゐるのではありませぬ。機を深く信ずるところに法が深く信ぜられるといふのでありますから、我が機が煩悩具足・罪悪深重のものであると信ずる、それがすなはち法の力のあらはれたのであると知るのであります。更に約めて言へば、我々が自分の愚悪を知るといふことは、すなはち不可思議の法の力であると信ぜられるのであります。それ故に仏教では機法一体といふ言葉を用ひてこの意味を示してあります。機と法とが一体で、別々に離れたものならば機法合体といふべきであります。機と法とを別けて言ふのは機と法とを説明するためでありまして、固より別々に離れて居るのではありませぬ。機の自分と法の阿弥陀仏とが別々に離れて居つて、阿弥陀仏をおがむことによつて法が機と合体するのであれば合体であつて、一体ではありませぬ。さうしてさういふやうに機と法とが離れて居るのではそれによりて宗教のはたらきがあらはれることは容易でありませぬ。  二種深信  よく考へて見ますと、愚悪といふことは愚悪でないものに対して言はれることでありますから、自分の愚悪がわかるのは思惑でないものが自分に加はつたからであります。愚悪でないものはすなはち仏でありますから、仏の力によつて自分の愚悪がわかるのであります。自分が自分の愚悪を知るということはかやうにして仏の力が外から加はつて来るためであります。これを自分の心の内の方からして言へば、自分が自分の悪を知るといふことは外なる仏の力が加はつて来たためであります。機の深信が出来ればすなはち法の深信が出来るといふのは正にこの味であります。私がこの講話の最初に申したやうに宗教といふものは外なる力を取り入れて自分の力を強くするものでありますが、外なる仏の力が我々の心の内に取り入れられるのは自分が自分といふものの価値を否定したときであります。すなはち自分の愚悪を知りて手も足も出ない場合であります。さういふ場合には我々は常に直ちに仏の慈悲を味ふことが出来るのであります。  妙好人善太郎  むかし石州の有福村に善太郎といふ妙好人が居りました。或時道中のとき、小さい仏様を首にかけてそれに花を供へてあるいて居つた。さうすると一緒にあるいて居つた或寺の奥さんが梅の花の枝の小さいのを呉れた。善太郎は奥さんに向つてこの花は誰からお貰ひになつたかと聞いた。ところが奥さんは道の傍に咲いて居つたのを折つたのであると言つた。善太郎がいふには梅といふものは実を結ぶのを人が待つて居るのであるからそれをまつて折り取るといふことはよろしくない、必ず主に断つて貰ふやうにしなさいと言つた。或時或人が有福村の入口に来て善太郎同行のことを聞いた。聞かれたその人が善太郎であつたので善太郎といふのは自分であると答へました。さうするとその人はお前の御住居は何処であるかと聞いた。ところが善太郎が言ふやう、私は家を持ちませぬ。それを聞いて合点が行かれ、さうすれば誰かの家を借りて住居して居られるのでありますかと問い返したところが、善太郎は私は如来様の家に置いて貰いますと答へました。その人はこれを聞いて驚いて土の上に手をついて感涙を流したといふことであります。固より自分の家でありませうから、自分の家といつてもよろしいのでありますが、よく考へて見ればひとり自分の力で造つたものではありません。大工やら、左官やら、屋根屋やら、多くの人々の努力により出来上つたものでありますから、如来様の家に置いて貰ひますといふのはまことに敬虔の態度であります。自分の愚悪であるといふことに徹底した人の心持は常にかうであります。  この善太郎が住んで居る近傍に、弘法大師の八十八箇所が建立せられて大いに繁昌して、そこに大勢の人が参詣することがありました。ある時その八十八箇所に参詣する人々が善太郎の家に宿を求めたところが、善太郎は快く承諾して人々を泊めて遣り、その人々に向ひて弘法大師の御利益よりもつと有難いのがあると言つて、善太郎は自分が予て聴聞したる弥陀教のことを懇々と説き示したのであります。その人々はそれに動かされて八十八箇所へ參ることをやめて念仏の教に入つて大いに喜むで家に帰つたといふことであります。人を教へ導かうとする聖者の心持でなく、相共に手を携へて真実の道を進まうとする愚悪の善太郎の言葉に多くの人々が感動したのでありませう。或日の晩若いものが善太郎の家の外に干してあつた柿を盗みにやつて来ました。善太郎は家の中でそれを知りて大きな声を出して、「若い衆怪我をせぬやうに取つて御帰りなさい」と言つたので若いものは大いに恥ぢ入り、柿を盗むことをやめて帰つて仕舞いました。かういふ言葉はさういふ人の心持によつて意味が相違するものでありまして、「取つてはならぬ」といふ意味を皮肉に言ひあらはしたとも考へられますが善太郎の場合はさうではなくして、「怪我をせぬやうになさい」と若いものの身体を心配して、それが自分の所有の柿を盗むのであるということを念頭に置いて居ないのでありますから、その言葉を聴いた若いものも恥ぢ入らねばならなかつたのであります。  或時善太郎の家へ泥棒が這入りました。善太郎は息を殺して黙つて知らぬ振をして居りました。泥棒がいい加減に盗むで今やその家を出やうとする時に「私が前生で借りたものを取りに来て下されたは御苦労である」と言ひました。さうすると泥棒はあきれて、盗み取つた品物を殘らずそこへ置いて謝つて仕舞つたのであります。盗まれて感謝することは馬鹿らしくて普通の人にはとても出来ることではありませぬ。前にも大和の清九郎の話を挙げて盗賊に禮を言つたことをお話致しましたが、盗みたるものによく盗むで呉れたといふことは普通の人には馬鹿らしくてとても言はれることではありませぬ。しかしながらそれは多くの人々が愚悪でないからであります。盗賊が自分の家に這入つたのは決して自分の責任に帰すべきものではないといふことを知るからであります。しかるに自分の愚悪を知ることに徹底して、盗賊が這入つた、自分の品物を取られたことにまで自分の責任を省み心持になれば、盗賊に対して禮をいふことは実に真面目の挙動であります。決して巫山戯た真似をして居るのではありませぬ。善太郎の言葉は仏教の上に用ひられる、前生で自分が盗むだものを取り返しに来て下さつて御苦労であつといふのでありますが、これを普通の人々の言葉に直して言へば、盗賊の行為の上に自分の相を見出したのであります。自分の心にも人の物を取るといふ悪るい心はあるのを、現に盗賊の行為を見せしめられてそれによりて自分が反省することが出来るのは大いに喜ばしいことであると感謝して居るのであります。まことに美しい宗教的の心の態度であると言はねばなりませぬ。  善太郎に養子がありましたが、この養子は仏法に心のうといものでありました。善太郎はその養子に向つて手をついてお辞儀をして、どうかお寺に參詣して下さいと頼みました。又自分がお寺に参詣をして帰つたときにはあなたのお蔭で參らして貰ひました、有難うございますと養子に禮を言ふのでありました。社會的の生活は自分ひとりで出来るものではありませぬから、何事をするにもみな人々のお陰を考へねばならぬのでありますが、愚悪でないものは自分のひとりのはたらきと考へますから、自分がしたことに関して、他人に向つて禮を言ふことはありませぬ。善太郎は酒を好み、時々酒を飲みて酔ひますと、口癖に「生々世々の初ごとに、私は全体悪太郎なれど、御陰で善太郎といふ」と小踊りをしたといふことであります。まことに善太郎といふ人は、一切の事柄に対して感謝することが出来たのであります。安政三年の三月に七十五歳で死んだのでありますから、さう古い時代の人ではありませぬ。かういふやうな人の話をお聴きになれば、ただ馬鹿らしいといふ感じが起るだけでありませうが、それは善太郎につきての話を伝記の上の話として聴かれるからでありまして、自分の心を反省する資料として善太郎の話につきて考へるときには、決して馬鹿気たる話としておろそかに看過することは出来ぬ筈であります。  善太郎は無論学問のない田舎の農夫でありまして、煩悩具足・罪悪深重である自分が阿弥陀仏の慈悲の力に救はれるというお説教を聴いただけのことでありませうが、それによりて徹底的に自分の愚悪を信知することが出来て、すなはち機の深信がたしかでありましたから、そこに法の深信が出来たのであります。つまり前に繰返して申したやうに自分のしたことは自分がその責任を負ふ、決して自分のことを他に嫁することをしないという心持にまで到達したのであります。かやうの心持によりて当然あらはれるところの宗教の感情に動かされて、外観には馬鹿気たやうに思はれるところの態度をなすのであります。外の人々がその態度を見て、馬鹿らしくて真似が出来ないとするのは智慧の世界に住むで居るからであります。智慧のはたらきによりて他人の態度を批判して居るために、善悪邪正を判別することにその心がはたらいて、人格の全機を投げ出して事に当るといふことが出来ないためであります。しかるに智慧の世界は案外にその領分の狭いものでありまして、到底智慧のはたらきでは解決のつかぬ場合がありまして、智慧の世界を離れて宗教の世界に這入らねばならぬのでありますが、宗教の世界に這入つて考へて見れば、それは決して馬鹿気たこととして一笑に附し去るべき筋合のものではありませぬ。  善太郎は貧乏の人でありましたが、お寺に参詣するときには梨や柿などの果物を集めてこれをお寺に参詣するときに持参して寺の庭に店を出し、その側に代慣の銭を入れる筒を置いて、梨や柿を取つた人に相当の代償を筒の中に入れさすやうにして置くのでありました。自分は寺の中に這入つてお説教を聞いて居るのであります。さうして筒の中にたまつた金を三つに別けてその一分は本山に納める、その一分は檀那寺に納品する、その一分は自分がお寺に参つたときのさい錢にするのでありました。その心がけはまことに特別であります。世の中には他力の教を奉ずるものは卑屈に流れて進取の気力に乏しくなると論ずる人がありますが、自覚の度が浅くして自分の愚悪であることを知らず、無暗に聖者振つて大言壮語するといふことは、一寸見れば進取の気力に富むだやうでありますが、それは虚為の生活でありまして、我々の学ぶべきものではありませぬ。愚悪なることを知つたならばその愚悪を直ほすことが人間のつとめとするところではないかといふ人もありませうが、それは前に言つた通ほりに道徳の教でありまして、宗教の世界にありて言ふべきではありませぬ。宗教の世界にありては善悪邪正を論ずることなく、ただその真実の相を実直に見ることにとどまるのであります。  波斯匿王  あるとき波斯匿王が澤山の人々を連れて城の外に出て居られたときに、王が平生最も深く尊敬して居られたる祖母が死なれた。この祖母の年は百二十歳でありましたから、老衰して眠るが如くに死なれたのであります。波斯匿王はその祖母に対して孝養を尽して居られたから、定めて悲しまれることであらうと大臣の不省密といふものが心配して、一策を考へ出したのであります。そこで澤山の牛や馬を集め、車に澤山の寶を積むで五百人の伎女を連れ、音樂を奏して堂々と繰り出して途中にて波斯匿王の帰途に出合ふやうに計つたのであります。波斯匿王は丁度途中でこの行列に出合はれて大変に不思議がられて、これは何者の供養であるかと聞かれたのであります。そこで不著密が申すに、これは町の長者の某の母が死んだためにかやうに供養するのであるといひました。すると王様は澤山の象や馬を集めたのは何のためかと聞かれました。不省蜜はそれは馬や象を閻魔王に贈つて母親の命を買はうといふのでありますと答へました。王様はそれを聴いてそれは愚なることである、人間の命はとめることが出来ない、人間はどうしても死ぬるのである、幾ら澤山の金を持つても命に代へることは出来ない、愚なることをするものであると笑はれました。さうすると不省密はまた外に五百の使女を集めてそれを換へことにして母の命を購はうとするのでありますと申しました。王様はそれを聴いてそれは駄目である、幾ら寶を積むでも、美女を差出しても、人の命と取換へることは出来ないと言はれました。不省蜜は又、魔術により、或は徳の高い僧侶の力によりて母の命を購ひたいと申して居りますと申上げた。王様は笑つてそれは愚なる考へである、一たび鰐の口へ這入つたものは再び出ることは出来ない、生あるものは必ず死ぬるものであるから、さういふことをしては駄目であると言はれました。  不奢密  波斯匿王は言葉をついで、釈尊の説かれるには、生あるものは必ず死する、死するといふことは誰人も免かれることが出来ない。それ故に早く道を得なければならぬ、しかるにかやうなことをするのは極めて愚なることであると言つてひどく笑はれました。そこで不奢密が言ふには、あなたの仰せの通ほり、生あるものは必ず死するものでありますから、どうかお歎きにならぬやうにと予めことはつて置いて、実はあなたの祖母が亡くなられましたと申し上げました。驚いたのは波斯匿王でありました。人のことはつまらぬことだと笑つてすまして居られたが、自分の祖母の死についてはさうは參りませぬ。しばらくして波斯匿王は不省蜜に向いてお前は方便といふことをよく知つて居ると賞めて宮殿に帰つてから懇に祖母の弔ひをせられました。釈尊はかういふことを土臺として「すべての生けるものは皆死に行くものであるが、その業に従つて功徳の果と罪悪の報とを受ける、それ故に善きことをして後の世に備へねばならぬ、げに功徳は人その後の世の渡し場の船である」と説かれました。  真相を究む  かういふやうな話は外にも多くありますが、死ぬるといふことをおそろしく思ふことをやめよと言うよりも死ねるといふことの真相を明かに示すといふことが、悲しみの感情をなくする上に正当の道であるといふことを示されるのであります。人間が死ぬるといふことはきまつた事実でありまして、又人間の力でそれを如何ともすることの出来ぬものであります。さうしてこの死ぬるといふことがおそろしく、又悲しみでありますから、死を恐れ死を悲しむといふ心持を無くせよといはれてもそれがその通ほりになくなるのではありませぬ。それ故に人間が死ぬるといふことの相を明かに説き示して、そのおそろしきこと、悲しきことに当面せしめることが却て死生の境に安んずることの出来る心持をつくるものであるといふことを説き示されたのであります。死といふことの真相を明かにすることによりて徒らにそれを悲しむところの我々の愚悪の心の真相に気がつくとき、そこに始めて宗教といはるる感情のはたらきが現はれるものであります。  勝鬘夫人  さて、波斯匿王がその祖母の死なれたときに、大臣の不奢密の心づかひによりて、人間が死ぬるといふことの真の相を明かにして法に入られたといふことを只今お話致しましたが、この波斯匿王の娘に勝奢夫人といふ女性がありました。波斯匿王は既に釈尊の教を聴いて仏法に帰依して大いに喜むで居られましたが、ある時、その夫人の末利と相談して言はれるには「娘の勝奢夫人は智慧がすぐれて曾得の早い生れつきであるから、若し釈尊の教を聴くときは直ちにその法を合点するに違ひない。それで使を遣つて娘の勝鬘夫人に道を求める心を起さしめやうではないか」と言つて、夫婦で相談をきめて使を阿踰閣国の勝鬘夫人の処へやり、委細のことを書いて申し遣はされました。勝奢夫人はそれを読みて「かねて釈尊のことは承はつて居つたが、この書き物の通ほりであれば釈尊はまことに貴とい法を説く御方であるから、どうかお目にかかつて見たい」と念願せられました。その念願が届いて到頭勝鬘夫人は釈尊にあはれました。さうして釈尊と相対して法の上につきて問答をせられました。  煩悩  勝鬘夫人が釈尊に向つて言はれたことは固より種々の方面に渉りて居りましたが、今はその中の一部分を抜いてお話を致すのであります。勝鬘夫人が言はるるやう「凡そ煩悩といふものには二た通ほりありまして、一とつは根本煩悩、一とつは起煩悩であります。根本の煩悩といふのは見惑と思惑とに本づくもので、見惑というのは道理に迷うことをいふので、物の道理がわからないと心が迷ふ、心が迷ふによりて煩悩が起るのであります。思惑といふのは実際に事物に遭遇したときにその事物に迷ふのであります。事物に遭遇してそれに対して如何にすべきかに迷ふよりして煩悩が起るのであります。この見惑と思惑とから根本の煩悩が起るのでありまして、その根本の煩悩からしてまた種々の煩悩があらはれるのであります。しかしながら、その根本となるものは無明でありまして、早く申せば智慧が無いといふことが一切の煩悩の本であります。」勝鬘夫人は煩悩の根元をばかういふ風に言つて後に、更に言葉を続けて、釈尊に向つて言はれました。  見惑と思惑  「偉い人の言はれることを守つて、それによりて自分の心をよくしやうとする人、それから自分の力によりて自分一人で証を開かうとする人は、精進努力の結果、見惑と思惑とを断ちて煩悩を少なくすることが出来るでありませう。しかしながら証明といふものを断つことが出来ないために法といふものを十分に知ることが出来ぬために結局、断つべきものを断つことが出来ないのであります。それ故に本当の証といふものが開けるものではない、ただ涅槃といふものの一部分を得たに過ぎないのであります。これに反して、すべての苦しみといふものをよく知りて、その苦しみの本であるところの一切の煩悩といふものを断ちて、さうして道を修めるといふことになれば証を開くことが出来るのであります」と言はれました。自分の心が悪るいからと気がついてその悪るい心を善くしやう、自分の心がムシャクシャして困るから、このムシャクシャした心持を直さうと、一生懸命に努力しやうとする。固より努力の結果としてその悪るい心、ムシャクシャした心は善くなることはありませう。しかしながら善くなつたと言つたところがその場限りのもので、心の本が改らざる以上、その心のあらはれが止むといふことは無い筈であります。海辺に居て波の音がうるさいから、にげて山の中に這入るとすれば、波の音のうるさいことは止むでありませうが、うるさく思ふ心の本が止まない以上は、山の中に居りても風の音が同じくうるさいことでありませう。  四聖諦  それから勝鬘夫人が言はれるには「あなたのお説きになる苦・集・滅・道の四諦(真理)といふものはただ仏のみがそれを知られまして、さうして無明の殻に覆はれて居る世間の人々に説き示したまふのでありますが、それを聴くのは容易に合点することが出来ないのであります」と言はれました。苦・集・滅・道の四諦につきては釈尊が成道の後、ヴェナーレスにて第一回の説教(転法輪)をせられたときに説かれたところがあります。その時の釈尊の説かれたことは「道を求めるものは二個の極端を避けて中道を進まねばならぬ。二個の極端とは、一とつは榮耀榮華の贅澤なる享樂生活で、一とつは身を苦しめる生活である。この兩個の極端なる生活を避けて中道を進むべきである」といふことでありまして、その中道を進むといふことにつきて更に四個の聖諦(真理)が説かれたのであります。  苦諦  四個の聖諦(真理)の第一は苦諦であります。人生に目がさめて、自己の精神生活を見つめたるときには、一切が苦であるといふことを知るべきであります。生れることも苦であります。老ゆることも苦であります。病むことも苦であります。死ぬるといふことも苦であります。愛せざるものに會ふことも苦であります。愛するものと別れねばならぬことも苦であります。すべて我々の身体のはたらきによりてあらはれるのは皆苦であります。まことに苦は人生の真実の相でありますから、我々は反省してその苦の相を明かに知らねばならぬのであります。人生の相を苦であると知るときに道を求むるといふことが現はれるのであります。  集諦  かやうに、人生の真の相は苦でありますが、しからばその苦は如何なる原因によりて起るのでありませうか。それを神が我々を試練するために与へたものであると考へるのは釈尊当時の人々の間に行はれた説でありましたが、それは愚なる考へであります。苦は人間の運命であると考へることはあまりに捨鉢であります。釈尊はこの苦の原因を自己の心の内に求め、一切の苦は渇愛と執著の心とによるものであると説かれました。渇愛といふのは願ひ求むる欲望でありまして、苦とは既に得たるものを失なふことのないやうにとの心であります。この渇愛と執著とが我に苦悩を与るものでありますから、それが集まつて苦を作るのであるといふ意味で、集諦と名づけられるものであります。  滅諦  人生の相が苦であると知り、又その原因が我々の心の内にあることを知れば、更に進みてその原因たるところの渇愛と執著とを滅ぼすことの大切であることが知られるのであります。通俗の言葉にていへば、渇愛・執著等不合理の欲望を滅ぼすことであります。これを滅諦というのであります。さうしてさういふ境地は涅槃でありますから、滅諦といふのは涅槃に至りて感情の平和なる世界に住むことをいふのであります。  道諦  しからば如何にして渇愛と執著とを滅ぼして涅槃に至るべきかといふに、それは八正道を歩むことによりて達せられると釈尊に説かれるのであります。それが道諦でありまして、正しい道を修めて精進努力するところに滅諦が成就するものであるといはれるのであります。この四個の聖諦は釈尊の教の神髄でありまして、釈尊の教はこの四個聖諦を基礎として立てられたものであります。  仏性  勝鬘夫人は更に釈尊に向ひて「苦・集・滅・道の四聖諦は仏を除いた他の人々には知られるものではありませぬ。ただ仏のみそれを知りて世の人々に説き示したまふのであるが、その義理が深く細かいので、世の人々はそれを信ずることが六ヶ敷いのであります。それは何故かといふと奥深い仏性を説かれるからであります。」と言つて仏性のことに就て話されました。それに拠ると、「仏性とは仏となるべき力で、本から人々に具はつて居るところの本性である。それは仏より外のものにはわからぬものでありますのに、その処に四聖諦が説かれるから人々にわからぬのであります。」「智慧のある人々は四聖諦の説を聞いて、他の事柄に就て、苦を知り、その原因を断ち、滅をさとり、道を修めるのでありますが、それは智慧に限りがありてその事物を究め尽すことは出来ませぬ。自分の心の中に備はれるものとして、苦を知り、その原因を断ち、滅をさとり、道を修めるといふことになれば一念に一切を具へて居りますから絶対のものであります。しかしながら、この絶対の四諦はただ仏のみの究めたまふところであります。」「如来の法身(真理の根本)は煩悩とまつはりてそれと離れず、不思議の状態にて存在するのでありますが、この如来の法身が煩悩と離れざるところを指して仏性といふのであります。」勝鬘夫人は更に言葉を続けて申されました。  「仏性には空と不空との二つの方面がありますが、空に就ていへば、仏性はすべての煩悩の中にありながら煩悩と離れ、煩悩と異なるものであります。不空に就ていへば、仏性は限りない煩悩にまつはりて離れず、異なつて居ない不可思議の法であります。さうして智慧のあるものは、ただこの世は苦である、無常である、空である無我であるなどと考へて、空を知ることは出来ますが、不空を知ることが出来ませぬから、真に仏性をさとることは出来ませぬ」「仏性は生死の底に横はつて居ります。生死といふのは機能がなくなつたり、あらはれたりすることであります。この生と死とはそれがそのまま仏性であります。生といふも死といふも、この世の言葉だけで、感覚のあらはれたのが生であり、それが壊れたのが死であります。さうして仏性には生死がない、常住にして変ることのない不可思議の法であります。」「仏性はもとより清きものでありますが、しかしながらこの清き自性が煩悩に汚されるのであります。さうしてそれを明かに知るのは仏の智慧によるのでありまして、仏より以外の人々にはわかることでありませぬ。」  釈尊は勝鬘夫人の言葉を聞いて、「まことにあなたの言はれるやうに、自性として清き仏性が煩悩のために汚されるといふことはまことに知り難いものである」と言はれました。釈尊は更に言葉を続けて  「しかしながら、このことは勝れたる法を具へたる菩薩のみが聴いて保つことが出来る。その他のものはただ仏の語を信ずるのみである」と言はれました。さうして、仏の語を信ずるといふことにつきて、くはしくそれを説明して、次のやうに説かれました。  「もし我が弟子にして、教を信ずるもの、又は信の進めるもの、又は信の心明かにして法の真理に与ふ智慧を有するものは証を開くことであらう。法の真理に隨ふといふのは、五官と、意と、その対象たる境界とを考へ、業の力、業の報を考へ、煩悩の根本たる無明を考へることである」  求道者  勝鬘夫人はこの釈尊の言葉を聞いた後に釈尊に向いて「仏の智慧を得て、奥深い理を會得するものは三種の求道者であります。その第一種のものは自分で深い法の真理を体驗して我物とする人、第二種のものは法の真理に随ふて智慧を得たる人、第三種のものは深い法の真理を知ることは出来ないが、それは仏の知りたまふところであると知りてただ仰いで仏を信ずる人であります」と言はれました。釈尊はそれを聴いて「あなたは善き方便によりて深い法の真理を獲る方である」と賞賛せられたのであります。三種の求道者の中で、法の真理を我物とするものは別にして、法の真理に隨ふて智慧を得ることと、仰いで仏を信ずることとは、多くの人々が道を求むる手段として、現にあらはれて居るものでありまして、むかしからその甲の方を解信といひ、乙の方を仰信といはれて居るのであります。しかしながら仰信と言つた処で、一も二もなく、言はるるが儘を信ずるといふのではなく、法の真理を聞いて疑はないのでありますから、仰いで信ずるといふことになりても、自分の真の相を見るといふことが第一であることはいふまでもない次第であります。  業の力  釈尊はこの場合に「法の真理に從ふ」といふ言葉を用ひて居られますが、法の真理に隨ふといふことは、自分の心とその心の対象となるところの一切の事物とを考へ、そこに業の力を知ることに帰著するのであります。業ということにつきては前にお話致したことがありますが、自分の思ふこと、言ふこと、行ふことのはたらきが集まりて、その善悪ともに結果を自分が受けることを指しているのであります。それ故に今の自分は前の自分の業の結果としてあらはれたるものと考ふべきであります。自分は自分の業の相続者としてここに現はれたるものであるとすべきであります。普通には我々の行為が集まりて業を成すものであると説いてありますけれども、しかしながら業といふものが我々の心を離れて別に存在するのではありませぬ。内省を深くして自分の真の相を見つめるときに、それはどうしても自分の業の結果であると考へねばならぬほどに痛感する心持であります。つまり自分の真の相を見たるときに考へられるところの心持であります。  因縁和合  たとへて申せば、今自分が寒いと感ずるとき、それは自分の業の結果であると言はねばならんのであります。さう申すと、「いやそれは理窟に合はぬことである。寒いのは外界の湿度が冷却したのである。それが自分の業の結果であるとは受取られぬ」と言はれるでありませう。固より外界の湿度が冷却するために、寒いといふことを感ずるのでありますが、しかしながら寒いと感ずるのは自分の身体があるためでありまして、自分の身体があるのは全く前の業の結果に外ならぬものであります。業といふことをば他の方面から明しますと、業といふものは全く因縁和合によりて出来るところの結果に外ならぬものであります。凡そ物事には必ずその本となるところの原因があるもので、結果と原因とは常に相関係するものでありますが、その因と縁とはまことに無数のものであります。その無数の因と緑とが集まりて、それが結果をあらはして居るのでありますから、一寸見れば簡単のやうでも、それは中々複雑のものでありますから、我々の心は無数の因縁の集まつたものであると考ねばなりませぬ。それを宗教的に考へて業といふのであります。さうしてさう考へるときに、我々は始めて法の真理に隨ふことが出来るのであります。  法に隨ふ  今ここに多勢の御方がお集まりになつて居られますが、皆様は私の講話を聴かうという心を起してここにおいでになつたのでありませう。さう考へるとまことに簡単のことで、皆様は御自身の意志によりてここへお集りになつたまででありますが、深く考へて見ますと、あなた方が此席へおいでになるといふ一とつの事実の上に、因と縁とは無数のものであります。一寸之れを数へ上げて見ても、第一に日本帝国がありてその国家が平和でなければなりませぬ。昭和二年二月十六日といふ時日がなくてはなりませぬ。この會場がなくてはなりませぬ。交通の便がなくてはなりませぬ。開會の世話をする人々が無くてはなりませぬ。天気其他の事情が好都合でなくてはなりませぬ。相当の衣服や下駄や草履等が無くてはなりませぬ。それには又多数の人々の努力が存して居るといふことを考へねばなりませぬ。又あなた方の身体が健康で外出に都合がよくなくてはなりませぬ。それには衣食・住を始めとして身体の健康を保つための事柄が十分でなくてはなりませぬが、その奥には無敷の人々の努力があるといふことを考へねばなりませぬ。それはただあなた方御自身の方面からのみ見たのでありますが、講話をする私の方面から見ても、私がこの講話をするといふ簡単の事実の上に、無数の因縁があるといふことを考へねばなりませぬ。第一に私の身体がなくてはなりませぬ。それには兩親から始めて先祖のことまでをも考へねばなりませぬ。私自身の健康から講話をすることが出来るまでの事情を考へて見ればまことに因縁は無数であります。かやうに表面的に見ればまことに簡単の事実でもその奥にある因縁は無数でありまして、その因縁和合して御出席になつたといふ事実があらはれたのであります。さうすると、それは単純にあなた方の意志によるとのみは申されませぬ。あなた方は無数の因縁のために講話を聴くべくここへおいでになることを余儀なくせしめられたのであると考ふるのが正常でありませう。さうしてその無数の因縁はすべて自分に関係するものでありますから、それが自分の業の報であると感ずるところに、我々は得手勝手の考へから離れて法の真理に随ふことが出来るのであります。  業に牽かれる。  それ故に、宗教的に深く内省して考へるときは、あなた方はあなた方の業に牽かれて、今この講話の席においでにならねばならぬやうな余儀なき状態になられたのでありますことに業の力が重大であり、又それが自身の身と口と意とのはたらきの結果であると知るときに、我々は業の重いということに自身を省みねばならぬのであります。しかるに、それをただ表面的に極めて疎略に考へて、「自分が講話を聴きたいと思つたからここへ来た」と考へるときに、ただ得手勝手の方へのみが起きまして、決して法の真理に随ふといふことは出来ませぬ。その得手勝手の考へを離れて、「業に牽かれてここへ来た」のであると考へるところに、あなた方は業に牽かれてどうしてもこの講話を聴かねばならぬ余儀なき場合に立ち至つたのであるといふことが感じられ、得手勝手の考へから離れられるのであります。あなた方は私の講話でも辛棒して聴かねばならぬやうな業をつくられたので、その業の報として今ここにおいでになつたのでありませう。さう考へるところに我々は何時でも法の理に隨ふことが出来るのであります。  運  我々人間はどうしても自分勝手の考へを起すものでありまして、自分といふものを独立して存在するもののやうに考へ渇愛と執著から離れることが出来ないために、他非我是の心はどうしても巳むときがないといはねばなりませぬ。「日用心法鈔」といふ昔の本の中に「運」といふことの話が載せてありますが、その文は  「在家出家儒者神道者上下共に運々といへども運の字の義理を知らず、運とははこぶといふことにして過去の善悪によりて、今生の福と禍とを運び出すなり、又今世の仕方によりて其善悪を未来へ運び出すなり、是運の字の義理なり」  運といふものを一とつの大なる權力として、それを心の外に置いて、それによりて自分の他非我是の心を守らうとすることは人々の常でありまして、動もすれば運が善いとか、運が悪るいとかと言うのであります。しかしながらそれは自分の得手勝手にいふことで、運といふものは全く自分の業の結果と考ふべきものであります。  「然れば運といへば不意に来たやうに思へど。左様にあらず、作し置いたることのあらはれ出でたるなり、何にも不意に来たといふ義理の字にあらず、皆是我なしたる業の運び出であらはれたといふものなり、一たびなしたる業のむくはずといふことなし、之によりてかりにも悪はすべからず、かりにも善をなすべし、その善悪の出で来るところを運といふなり」  自分の業の結果であれば、自分はその全責任を負はねばならぬこと勿論であります。さうして自分が全責任を負ふところに他非我是の心から離れて、法の真理に隨ふことが出来るのであります。  心の聾  「やしなひ草」の中に蛸薬師のことが載せてありますが、それは次の通ほりであります。  「京極の港に医王堂あり、人これを蛸薬師といふ、耳の通ぜざる憂あるものは石に穴のあきたるを持ち行きて供ふ、之れ耳の通じがたき事石のごときも能く通ずるやうにと願をかくることなるべし」  病気といふものは苦しみを感ずることが甚しいものでありますから、從つて、得手勝手の考へが起ることも多いのであります。石に穴のあきたるものを供へて自分の聾のなはるやうにと祈願するなどは其一例であります。  「おもふに目の通ぜざるに二種あり、一つは天然の聾、二つは自作の聾なり、彼天然の聾といふは或は生れながらにして聾、或は疾に侵されて聾となる類是なり、これ等は不自由なりといへども、書きて見せしかたすれば通ずるなれば憂ふるに足らず、唯憂ぶべきは自作の聾なり」耳の聴えざることは不便でありますが、それはまだよいとして、心の聾はまことに憂ふべきものであります。  「人諫るに嘉言善行をもつてすれどもこれをはばみて聞かず、或は主君父母用事ありて召せども唯諾せず、その外、我勝手あしければ其命厳しといへどもかぶりをふりて聞かぬなり、これ等は薬師の御手にもなどか及ばんや、然るに此疾ある人、これを憂ふることを知らずして偶ま逆上などして少しく耳遠くなればはや不自由なりとて、或は服薬し、或は薬師に願をかけなどす、形の不自由なることを知れども、心の不自由なることを知らぬこそ愚といふべし」  他非我是の得手勝手の心は即ち心の聾であるといふことを説いたのであります。これは昔の心学の一派の言ひ方ですが、自分の心をみて得手勝手を離れねばならぬといふことは宗教的に説く所と同じことであります。  心の内へ  「やしなひ草」の記事の後に狂歌が載せてあります。   何ほどの薬師の慈悲も及ぶまじ我といさめをきかぬ聾は   直にきく薬ぞ我に立かへれただ一言の人のいさめを  内育の極めて必要であるといふことを示したものであります。自分の心を外へ外へとはたらかすときには、それは何時でも得手勝手になるものであります。宗教といふ心持はそれに反して自分の心を内へ内へと省みて行くときにあらはれるものでありまして、決して心の外に何物かを求めやうとするのではありませぬ。たとひ心の外に何物かがありましても、それによりて自分の心がすくはれるといふことはありませぬ。世の中には自分の心の外に神や仏などを見出してそれに信頼し、それに祈願し、それによりて自分の心を安らかにしやうとつとむる人があります。又さういふことを宗教であると考へる人もあるやうでありますが、私が前から度々申し上げたやうに真実の宗教といふものは決してさういふ心持を指しているのではありませぬ。常識で考へて明かなることでありますが、さういふ風に自分の心をその儘にして、自分の望むところのものを神仏に祈願して成就して貰ふといふことは得手勝手の甚しいものでありまして、さういふ目的が達せられるといふことは考へられぬことであります。自分の心を外方へとはたらかして、それが不満足を感じたるときに、それを滿足せしめるやうに計らひ、又はそれが悪るいと感じたるときに、外面からそれをかくさうとすることを宗教といふべきではありません。さういうことに全く他非我是の心でありまして、その心を離れたるときにあらはれて来るところの感情によりて始めて宗教はあらはれるのであります。  不可思議の心持  既に前に申した通ほりに我々の世界は我々の心にて造るものであるから、世の中はすなはち自分の相であるといふことを考へねばなりません。若し自分の相を正しくすることが出来るならば、世の中の相はそれによりて正しくなると知るべきであります。それ故に釈尊の教はつまるところ自分の相を正しく見るといふところに帰著するのであります。さうして自分の相を正しく見たるときに、それが愚かであり、悪であり、自分としては自分をどうともすることの出来ないという、自分の相が本当にわかつたとき、そのときに起きて来る心持がすなはち宗教といはれるものであります。この心持はまことに不思議のものでありまして、我々の思慮分別によつては決してこれを求め得らるべきものではありませぬ。  宗教の誤解  それ故に、自分の心を外にして、別に仏を求むるのでもなく、自分の心の外のものを改めやうとするのでもない。又自分の心をよくして行かうと努力するのでもなければ、理想を描いてその理想に向つて進むで行くことでもありませぬ。宗教といふものはかういふ努力を指していたのではありませぬ。又さういふやうな得手勝手の希望を達するやうにと念願するところに宗教といはれる心持があらはれることは決してありませぬ。しかるに世の中にはこの点につきて多くの誤解がありまして、宗教といへば直ぐに自分の心の外にある神や仏に祈願してその力にすがつて自分の望を達しやうとすることであると考へて見たり、或は死んで極樂といふやうなよいところへ行かうと考へて見たり、或は自分の心をば段々と磨き立てて行くことをば宗教であると考へて居る人が多いやうであります。  修身の教  しかしながら、さういふことは別に名がついて居りまして、或は修身の教或は道徳の教といはれて居ります。固より多勢が集まつて家庭をつくり、社會をつくり、国家を成して居るのでありますから、身を修めて行くことの必要はいうまでもないことであります。修身の教を守りて進むことがよくないことであると申すのでは決してありませぬ。ただそれによりては安心ということが出来ぬ、それによりては自分の心が安らかになることがない努力するにつきて思慮分別のはたらきを必要として、それは必ず苦悩を増すものでありまして、決して心を安らかにするものではありませぬ。我々の日常生活は道徳の世界でありますから、努力することを怠つてはなりませぬ。努力を怠つて後へ戻るやうでは道徳の教は駄目になります。宗教はこの苦しみの世界を離れるのであります。つまるところ、道徳の心持から離れて宗教の世界に入ることによつて始めて我々は安心の境にあることを得るのであります。  夫婦喧嘩  むかし心学者の義堂といふ人の書いたものに夫婦喧嘩につきて面白い話があります。或処に夫婦喧嘩をするものが居つて、どうかしてその喧嘩を止めたいと思つて、ある先生に夫婦喧嘩の止むやうな教を示されるやうにと頼むだ。さうすると、その先生が言ふのに、お互に自分の考へを言ひたいままに言ふから喧嘩になるのである。それで夫婦喧嘩はこれから三十一文字の歌ですることにしたらよからうと言つたので、夫婦は家に帰り、これから喧嘩は三十一文字でしやうといふことに話し合つた。ところが喧嘩になつて見ると中々三十一文字ではすまない。亭主は女房に向けて「お前のやうな、顔の上に壁土を塗つて、黒豆と小豆を竝べたやうな汚ない顔を、おれなればこそ八年十年も持つて居る」と言ふと三十一文字よりは多くなる。そこで女房は腹を立て、三十一文字で喧嘩をするといふことを約束しながら、今のは三十一文字よりは多いといふ。さうすると亭主が言ふやう「お前は歌のことを知らぬ、歌には前書といふものがある。今のは前書だ、これから三十一文字が出て来るのだ」   あづき餅のやうなつらをばふくらかしなほやきもちをやくたいもなき  さうすると女房は   またしても又悪性をすり鉢の嚊が顔までみそをつきやがる  亭主は更に   散ればこそいとど櫻はめでたけれこちらの嚊めも早く死なぬか  さうすると女房は   ほととぎす啼つる嚊は長命しおほう親父の後にのこれり  亭主腹を立て   秋が来て顔はもみぢのつらにくやはらが立田の山の神めが  歌の徳  だんだんと歌が進むで来て、山の神と言つて亭主が罵るものですから、女房はこらへかね、もう歌どころではない、真剣ぢやと言つて、亭主に飛びつき亭主の鼻に食いつかうとした時に「歌といふものはその身に立ち返つて、仇あるとも恩にして返す、優しき心は天地神明も守りたまふものであるから歌をつくるには自分の心に立ち返らなければならぬ」と先生に言はれたのを思い出して、たちまち胸をなで下して、鬼の顔を地蔵とかへて亭主に向ひ   寒純よりはげしくあたる親父めへ熱燗一ぱいのましやりたや  亭主喜むで古今の名歌ぢやと褒めた。早く一杯飲まして呉れと言つた。さうすると女房が酒を上かんにして進めて一家が和合したといふ戯話であります。  忍從  それを例の先生が聞いて、女房の歌はまことに名歌である、定めて鬼神も感動したことであらう。これからはさういふやうに歌で喧嘩をするがよからう。自分が下の句を出して置くから、それに上の句をつけることにしたらよからうと言ひ、亭主には   かんにんするが家の福徳  女房には   まけてさへいりや其身安心  の下の句を与へた。それから家に帰つて、又嘩が始まつた。   にくい嚊横つら一とつくらはそとかんにんするが家の福徳  これでは上の句が合はぬ、それで   嚊どのがやきもちべらをかみつぶしかんにんするが家の福徳  どうもうまく行かぬと亭主が言へば女房は   悪性な親父がつらのつらにくやまけてさへいりやその身安心  これでは上の句が合はぬ   去るならば金澤山につけてくせまけてさへいりやその身安心  どうもうまく行かぬ、なほとくと考へて見ませうと言へば、亭主   我よきに嚊のあしきはなきものとかんにんするが家の福徳  女房は   何事も我をあやまり願ひにまけてさへいりや其身安心  自分といふものが悪るいから人も悪るい、自分が善ければ人も善い、我々の世界は我々の心の造るところであるといふことを極めて通俗的に示したものであります。まことに巫山戯たやうなことでありますが、自分が善くて他人が悪るいといふ得手勝手の心からして喧嘩は起るものであるといふことを説いたのであります。  我是他非  何事につけても我は是なり他は非なりといふ心にて、善いとか悪るいとか言つたところで、それは全く自分の都合次第によることでありまして、若し自分に都合が悪るかつたならば何でも悪るいことと決め、若し自分に都合が善かつたならば何でも善いことと定めるのであります。それ故に甲と乙とは必ず衝突するのであります。世の中に喧嘩が絶えぬのは全くこの我是他非の心持の人々が充ちて居るからであります。皮肉に申せば自称の善人が世の中に多いために何時も世の中に喧嘩がたえぬのであります。  浄念房  むかし江州の坂本に浄念房といふ人が居りましたが、この浄念房は宗教の心持のよくあらはれた坊様でありました。方々の家へいつてお経を読むのが常でありました。ある日ある金持の所に行つて御経を読みましたが、その日は親の祥月忌日であるのでその家の主人は布施を上げる積で二百文を包むで仏壇の側に置いた。浄念房は仏壇の前で何時もの通ほりに御経を読むで帰りました。後で浄念房に渡さうと思つて包むで置いた錢二百文が見当らぬので主人は不審を起し、たれか錢の包みを浄念房に渡して呉れたかと聞いた。ところがだれも皆忘れてそれを渡したものはなかつた。そこで主人は大いに腹を立て、これは必定あの坊主が持つて行つたに相違ない、遺らうとも言はないものを案内なしに持つて帰るといふことは不都合だ、全く泥棒だ、急いで淨念房の所へ使を遣はして、「今朝仏壇の側に置いてあつた錢の包を持つて帰つたのであるか」と談判して来るやうにと命じた。昔から七たび尋ねて人を疑へといふことがありますが、しかしながら我是他非の心持の人々は尋ねて後に凝るのではなく、疑ふて尋ねるのであります。自分は善くて他人が悪るいといふ考へを持つて居るのでありますから、何か無くなつたら直ぐに他人を疑ふのであります。  主人の命を承けた使のものは淨念房の所へいつて、その旨を話したところが、浄念房はそれを聞いて何とも言はず、少し待つて下さいと言つて自分が寝る部屋に入つて、二百文の錢を持つて来て紙に包むで笑いながらこれを持つて帰つて呉れと言つた。使ひのものは此錢を持つて、主人の家に帰つて、主人に渡した。主人はそれを見て「果してあの坊主が取つたのであつた。殊勝な坊主と思つて毎月御経を読むで貰つて居つたが、あれは泥坊であつた。以後あの坊主を寄せつけてはならぬ」と威張つたのであります。さうすると、その時座敷を掃いて居つたものが、とこに錢の包みがありましたと言つて主人に渡した。これは不思議と主人が取つて見ると、それは自分が今朝こしらへて置いた鏡の包みでありました。そこで浄念房から寄越した錢をしらべて見ると、これは綺麗な錢で全く別のものでありました。そこで主人は使のものを呼んで、「浄念房が何と言つてこの袋を返したか」と聞くと、「何とも言はず、ただ笑みながら錢をかへしました」と使のものが答へました。主人はますます不思議でありますから、浄念房から返した銭二百文と、自分が包むで置いた錢二百文と合せて四百文を持つて浄念房の所へ往つて、先づ浄念房に向つて「今月は親の月忌日であるから布施を上げやうと考へて錢二百文を紙に包むで仏壇の側へ置いたが、あなたはそれを取つたか」と聞きました。そこで浄念房は「旦那から頂かないものを私は持つて帰りは致しませぬ」と言いました。さうすると主人は「それなれば私の方から使のものを寄越したときに何故二百文の錢をかへされたか」と詰問しました。そこで淨念房が言ふやう「使のものが申すに、旦那が殊の外、腹を立てて瞋恚《しんい》の焔を燃やして居られる、と言はれたので、それで私の瞋恚の焔をしづめて、さうして悪念を拂ふて仏縁を結ばうと思つて、幸に昨日或家で貰つた錢があつたのをお返したのである」と言ひました。  主人は淨念房の言ふことを聞いて大いに驚きました。「まことに慈悲の深い殊勝なお志と知らず、まことに失禮なることを致した、あなたは生き仏であらう、今まで申したことは一切水に流して赦して頂きたい、又これから後は後世のことをお願ひする」と言つて淨念房を拝み、四百文の錢を取り出してそれを浄念房に呈上した。淨念房はそれを聞いて「自分を生き仏と言はれるのは何事か。凡そ世の中に生き仏とはれるものは釈尊の外には無いといふことを聞いて居る。以後世を頼むとは何事を言はれるか。釈尊でさへ三世不可得と説かれたものを、未して我々凡夫の身で学問もなく修行もないものがどうして後世の道が知られやう。後世の道がわからぬためにかうして道心を起して坊主になつたのである。自分に後世を知らずして人の後世といふものを受取られることはない。今頃世間には偉い人も随分多勢居られて、仏道を修行し、自分の後世を究めたまふた知識達も多いことであるから、さういふ人は人の後世を受け取られることであらう。しかしながら思へばそれさへ心許ない次第であるのに、まして自分のやうな無智文育の僧侶は坐禅三昧の道に至り難いものであるから、どうすることも出来ない。そこで僧侶となつて心の中にただ阿弥陀仏をおさめ奉り他念を起すことなく、穢土を厭い、浄土を欣び、仏の御教にしてただ一向に他力を頼み奉り名號を唱へれば、定めて浮上に往生せむずることと思ふばかりである。後世はただただ銘々の勵みで、人頼にするものでないと聴いて居る。「約束の念仏は申すまでに候よ引かう引かじは弥陀の計ひ」と蓮如上人も詠まれたと聞いて居る。自分達も全くその通ほりである」と言つて大笑をしたと言ふことであります。  疑をかけたときには泥棒であつたものが、疑が晴れたときには生仏となつた。しかしながら泥棒と言はれた淨念房も生仏と言はれた淨念房も、淨念房にはすこしも変りはないのであります。すこしも変りのない浄念房をば自分の都合によりて泥棒としたり、又自分の都合によりて生仏とするのは皆主人の得手勝手の心のはたらきであります。浄念房はそれ故に泥棒と言はれても驚かず、生仏と褒められてもすこしも喜ばないのであります。これが尋常の人であつたならば必ず泥棒と呼ばれて腹を立て、生仏と云はれて大に喜ぶことでありませう。自分は盗まないのである。それは仏の知ろし召すところである。しかしながら主人はそれを疑ふて腹を立てて居るのである。弁解しても得心はせぬだらう、黙つて銭を返して瞋恚の焔をしづめて仏縁を結ぶ程にしやうとするところに淨念房の宗教の心持の美しさがあるのであります。すなはち自分の愚悪を知るといふことに徹底して居るのであります。自分の愚悪を知るといふことは、これも宗教上の言葉にて言へば、自力のはからいをやめるといふことに帰著するのであります。自力のはからいのやみたるときに、善し悪しの考が無いのでありますから、これこそ真の愚悪であります。  功利的  誰人でもすこしく心を落ちつけて自己の内面を見つめるときには自分が愚かであり、又悪るい心に滿ちて居るといふことには気がつくことでありませう。ところで仏の慈悲にかやうに愚悪であるのを助けられるのであると聞いて、自分は愚悪のものであるから必ず助かると考へたところで、それは畢竟するに自分の得手勝手の心でありまして、愚悪なるものが助かると言はれるから自分を愚悪のものとするのでありまして、若し悪が助からんと聞けば愚悪でないと考へる心持であります。それ故に愚悪であるから助かると聞いて、自分を愚悪のものとする人々は必ず道徳の教に背くやうなことをしてそれを愚悪の看板とするのであります。これでは宗教にもならず、道徳にもならず、浅はかなる自力のはからひによりて自己の満足を得やうとするばかりであります。これに反して愚悪ではいかぬと聞いて愚悪を離れやうとする人々は自力をはたらかして努力して愚悪を離れやうとするのでありますが、それはどこまで進むでも人間の道徳でありまして、それによりて宗教の心があらはれることは決して無い筈であります。  愚悪の辨護  たとひ自分が愚悪であると口で言つても、けれども愚悪は凡夫なるが故に巳むことを得ないと考へたり、なるほどそれは悪るかつた、しかしながら最善をつくしたのだから仕方がないと言つたりするのでありますから、どうしても徹底して愚悪であるといふことは出来ません。自分が愚悪であると言ひながらその自分といふものが「我」でない第三者であることが多いのであります。真に愚悪であるならば、何等善し悪しの判断も出来ぬ筈であり、又、一面から見れば一切が悪るい筈であります。しかるにすべてのことにつきて善いと悪るいとの判断をして、しかもそれは自分の都合を基本として他を裁くのでありますから、よろづのことにつきて我是他非の心を離れることが出来ぬのであります。  畜生の徒者  明慧上人といふ御方は華厳宗の高僧で、学徳共に秀でた古今高僧中の第一流に位する人でありますが、この明慧上人の書かれたものの中に次のやうなことがあります。  「我常に志ある人に対していふ、仏になりて何かせむ、道を成じても何かはせむ、一切求め心を捨てて徒者になり返りて、兎も角も私にあてがふことなくして、飢来れば食し寒来れば被るばかりにて一生果てたまはば、大地をば打ちはづすとも道を打ちはづすことはあるまじきと申すを。」  愚悪の自分をよく知れといはれるのであります。求め心を捨てていたづらものになれといはれるのは兎角のはからひをやめろと言はれるのであります。  「傍に人聞きて、偖《さて》は徒者になりたるが善きことござんなれと、我も左様にならむと思ひて、飽まで食し、飽まで眠り、或は雑念に引かれて時を移し、或は雑談を述べて日を幕し、衆のために墓なき益をもなさず、寺のためにも扶けにならぬ、明ぬ暮ぬと過ぎ行きて、我こそ何もせずして徒者になりぬれと思はば、これは畜生の徒者になり返りたり、是の如くならば必定して地獄の数となりぬべし」  いたづらものといふても、道徳に背き、人間の人間たる道でつくさずともよいと言ふのではありませぬ。かういふことはどうして愚悪の内省が十分でないために起る訳であります。  他人の非  明恵上人は又人の非を言はぬやうにすることに就て次のやうに言つて居られます。  「人の非を心に思ひ、口に言ふて人の生涯を失はむことを顧みず、人の恥辱たるべきことを顕はす、これ何の科ぞや、人の非あらば其人の非なるべし、然るを傍にて言へばやがて我身の罪となるなり、詮なきことなり」  これは道徳の教として説かれたることでありますが、他人の非を挙げるといふことは、我是他非の心のあらはれでありますから、その奥には宗教の心のはたらきがあることも、察せられるのであります。それで明慧上人は  「若し世のため、法のためならば諸仏諸神世にまします、その誠にまかすべし、敢て我と心とを発していふことなかるべし」  と説いて居られるのであります。結局仏教でいふところの「無我」であることを要する、我是他非の心をあらはす「我」を捨てるところに何時でも宗教はあらはれるものであります。  我を捨つ  芸州の広島に風律といふ俳諧師が居りました。芭蕉の門人の野坡を師として関西では可なり高名の人で、識見もあつた人でありますが、「世捨人に戯る辞」といふ戯文を造つて居ります。その全文は次の通ほりであります。  「市朝を去りて山林に住む人の世を捨てたりと思ふは大なる誤なり、身山林に入るときは世も亦これに從ふ、きのふは市朝の人、今日は山林の人にして其名のかはりたるまでなり、さらに捨てたる話なし」  自分の心にて自分が造り出したる世界はどこまでも自分につき從ふのでありますから、町を厭ふて山に這入つたからとて世を捨てたといふことは出来ませぬ。  「西行法師は官を捨てて歌仙と変じ、遍昭は苔の衣よとよみ玉へど僧正の號は捨玉はず、法然上人の捨ものは日蓮上人の拾いものなり、捨子は人となりて父を慕ひ、筆捨松はすてぬさきより其名は十倍せり、むかし金は身の後の害なりとて、北海に捨たる人あり、又これを拾ふ人あり、拾ひて貧民に与へ、一村大に潤ふ、捨るにも益あり、捨ふにも益あり、ただおのれおのれが物好にして、捨てたる詮は更になし、世を捨て、身を捨てんよりは唯我を拾つべし」  世を捨てると言つたところが、心が捨たらない以上は何の詮ないことであります。  「我なきときは天下に敵なし、我ある時は我一人なり、天下の人にからまる、聖人には我なし、都には都を行ひ、鄙には鄙を行ふ、貧しき時は貧しきなり、富めるときは富めるなり、戦場に向ひては馬を飛ばし、家にありては算盤をはぢく、鍬をとつては畠に打ち込み、笏を取りては天下を治む、汝元来我なし、かの小児を見ずや、痛ければ泣き、嬉しければ笑ふ、あら玉の年を重ねて、我といふものをこしらへ、はてはこしらへたる我に持ちあぐむこと迷惑なれ、かかる不自由不自在の境目をせざらんよりは、速かに我を捨てて自由自在の場所に住むべし、捨てる神あれば拾ふ神ありといへど我を捨てるときは捨ふ神更になし、寶暦二年十一月風律」戯れに造つた文章でありますが、「我を捨てる」といふことにつきては宗教的に徹底した考へを言いあらはして居ります。世といふも、身といふも、皆これ心からして造られるものでありますから、世を捨てると言つたところで、その世を造り出すところの心を捨てなければ、何の甲斐もないことであります。さうして、この「我」を捨てるときに宗教といふものがあらはれるのであります。我々は、そこに始めて、真実の道に入ることが出来るのであります。  弥陀教  本稿は、「弥陀教」と題して、昭和六年三月より同年十一月まで、東京婦人精神文化研究會に於て講話せられたるものの筆録であつて、先生の校閲を経て雑誌「精神文化」誌上に掲載せられたるものである。  序論  これから十数回に渉りて、連続して、弥陀教と申す題目にて、お話を致さうと思ひます。このお話の趣旨は、宗教としての仏教の意味が十分におわかりになるやうに、順序を追つて説明するのでありまして、決して学問としての仏教につきてお話致すのではありませぬから、このことは予めよくお断りを致して置きます。単に仏教と申しますと、学問のことがさきになりまして、これまで仏教の話と申せば、大抵、その哲学方面のことであつたり、道徳上の方面であつたり、甚しきは専門の宗教学上のことであつたりして、安心立命の上から仏教を見ることは、案外等閑に附されて居たやうでありました。たとひ、安心立命のことが説かれるやうな場合でも、矢張、その知識の方面が主に説明せられるやうであります。私はそれ故に、さういふ学問の方面を離れて、真に宗教としての仏教につきて、これからお話をつづけやうと思ふのであります。  仏教の専門の方では、釈尊一代の説法を大別して聖道門と浄土門とにせられて居るのでありますが、その聖道門と申すのは、この娑婆世界にありながら迷を転じて悟を開くところの教であります。これは「法華経」や「涅槃経」を始として大乗・小乗一切の諸経に説かれてあるところの教であります。  細かに分けて申すと、聖道にも又、大乗の聖道と、小乗の聖道とがありまして、その大乗に仏乗と菩薩乗との二つがあり、小乗に声此乗と縁覚乗との二つがあります。  それは、これまで仏教の学問にて普通説かれたるところでありますから、その説をそのまま、ここにお話いたすのであります。仏乗といふのは即身成仏の教でありまして、華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗などに説かれるところの教がすなはち、大乗の中の仏乗であります。全体大乗といふのは大きな乗物といふほどの意味で、多数の人が乗られるといふことを示すもので、その仏乗といふのは、直ぐに仏になることが出来るところの乗物といふほどの意味であります。菩薩乗といふのは劫を歴て修行し、その功を積みて始めて仏となるの教でありまして、三論宗・法相宗などがこれに属するものであります。  小乗といふのは大乗に反して小さき乗物の意味でありまして、その内の縁覚乗といふのは飛花落葉を見てひとり諸法の無常をさとり、又は因縁の法則を観じて悟を開くものであります。声聞乗とは真理を聞き、道理を観じて修行の功を積み、速きは三生を経、遅きは六十劫を経て、仏になることが出来るのであります。成実宗・?舎宗の如きがこれに属するものであります。又声聞乗にして戒行を貴ぶのが律宗の教であります。  かやうに聖道門の教は、これを要するに自力にて仏になるとせられるのでありますから、それに自力の教といふ名目がつけられて居ります。又自力にて修行の功を積み仏になるといふことは至つて六ヶ敷いことでありますから、それに難行道といふ名称もつけられて居るのであります。  浄土門といふのは釈迦教よりも遙かに後になりて始めて行はれたものでありますが、それは先づこの婆婆世界を厭ひ捨てて急ぎ浄土に生れて彼国にて仏道を行ずるといふ教であります。さうして、この場合、浄土に生れるといふことは仏の力によるもので、自分の力によるのではないからとして、この教を他力の教といひ、又浄土に生れることは自力の修行でないから容易であるというところから、これを易行道とも名づけるのであります。  しかしながら、釈尊一代の教を別ちて、かやうに聖道・自力・難行の教と、淨土・他力・現行の教とにすることは、動もすれば人々の誤解を致すの畏れがありますから、私はこの区別を止めて、釈迦教と弥陀教とに別けてお話致さうと思ひます。勿論、この名称はむかしから仏教の学者が用いたものでありまして、私が勝手につけた名称ではありませぬ。  さうして、私の考へでは、仏教を宗教として見るときには、それは必ず弥陀教の心であるべきものと信ずるのであります。さういふ訳で今、弥陀教につきてお話致さうとするのであります。  釈迦教  釈迦教と申すのは、前にも一寸お話致した通ほりに、この娑婆世界にありながら迷を転じて悟を開くの道でありまして、これは釈尊が「華厳経」や「涅槃経」の中に説かれたものでありますから、これをそのままに受取りと、釈尊の教としてこれを信奉するが故に、これを釈迦教と名づけるのであります。しかしながら、如何にして迷を転じて悟を開くべきかといふ問題につきては、いろいろ人々の所見が相違する筈でありますから、同じく釈迦教の中でも、そこに種々の説明が行はれて居るのであります。その大略は次の通ほりであります。  真言宗では父母が生める身にて速かに仏のさとりを開くのであるとして、この身ながら大日如来の位に上るといふので、すなはち即身成仏の教であります。禅宗では前仏と後仏とが心を以て心に伝ふるといひて、人の心を指して直ちに仏といふのであります。それ故に成仏ではなく即心是仏の法と名づけるのであります。天台宗では煩悩即菩提、生死即涅槃と観じて観心によりて仏になると説くのであります。華厳宗にては法界唯心の理をさとり、初めて発心するときに便ち正覚を成ずるといふのでありますから、これも即身成仏の義でありますそれ故に、華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗などの大乗の教に説くところのものは、この身そのままに頓に悟りを開くのであります。これに対して同じく大乗の中でも三論宗や法相宗などでは、多くの年月を経て修行の功によりて仏になると説くのでありまして、三論宗では八不中道、無相の観に住すると申して一切の考へを否定し、心に仏にならうとする願を起し、身には六度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を行じ、長い間菩薩の道を修めて後に仏に成るといふのであります。法相宗にありては唯識の観に住して、しかも願を起し、六度を行じて長い後に至りて仏になるといふのであります。成実宗や倶舎宗に至りては智慧を研き戒律を持し、これによりて遂に仏になると説くのであります。  此の如く釈迦教にありて釈尊の教をそのままになるといふにしても、それを奉ずるものの心がいろいろに相違して居るから、大乗と小乗との差異があらはれ、又それに四種の乗が区別せられるのであります。しかしながら、その終局の目的であるところの仏となるといふことにつきては、それが速かに出来るのと、遅く出来るとの差異によりて、これを順教と漸教とに区別するのであります。  漸教と申すのは段々と修行してその修行の功を積みて仏になるのでありますから、漸次に進む道であるといふ意味で、これを漸教といふのであります。漸次といいましても三祇功とか、六十劫とかと申して、何百萬年かわからないやうな永い年代であります。これは我邦に古く伝はつたところの仏教で、法相宗・倶舎宗、さうして律宗、この三つの教であります。今日ではかやうな漸教は殆ど行はれて居ないと申して差支ありませぬ。  頓教  これに反して、釈迦教の中で、華厳宗や、天台宗や、真言宗や、禅宗や、日蓮宗のやうに、此身のままに真理を悟つて仏になるの教を順教と申すのであります。  釈尊は因縁が和合して、一切のものが生ずるといふことを第一に説かれました。それ故に「我」といふものがあらはれたのも全くそれがあはれるだけの因縁がなくてはなりません。それ故に今の「我」は全く前の「我」の結果としてあらはれたのであると考へねばなりませぬ。我々にして若し現在の「我」の?悪なるに気がつきてそれから離れやうとするならば、将来の「我」を善くするために、現在の「我」を善くすることをつとめねばなりませぬ。ここに於て、釈尊は発悪修善の法を説かれたのであります。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」とは釈尊が常に説かれたる教として「法句経」に載せられて居るのであります。因縁を観ずるということはそれ故に釈迦教の主要なる点であります。釈尊は又、諸行は無常であると説かれました。世の中の一切のことが無常でありますから我々人間が生れることも無常でありまして、生れてから後、寸刻も常として止まることはなく始終変化して居るのであります。ところが我々はこの無常の中に於て常の想をなし、堅く執りて動くことのないやうにと望むのであります。これを執常の倒見と申すのでありますが、この倒見があるために我々にはいろいろの苦悩が起つて来るのであります。巳に一切が無常であれば諸法は無我であらねばなりませぬ。世の中の一切のものが無常である以上は、一切のものに常一主宰の我があるべき筈はないのであります。一切のものが始終変化するのにその内に常住不変の我があるといふ訳はありませぬ。それ故に釈尊は無我のことを説いて、世の中の人々をして早くこれを悟らしめやうとせられたのであります。  釈尊は又四諦の真理を説かれました。それは第一に苦諦でありまして、人生に目がさめて、自己の精神生活を見つめたるときには一切が苦悩であると知るべきであります。まことに苦悩は人生の真実の相でありますが、それは渇愛と執者の心とによるものであると釈尊は説かれました。これを第二の集諦といふのであります。渇愛とは願ひ求むる欲望で、執著とは巳に得たるものを失ふことのないやうにとの心であります。それが我々に苦悩を与ふるものでありますから、それが集めて苦悩を作るといふ意味で集諦と名づけられたのであります。巳に人生の相が苦悩であるといふことを知り、又その原因が渇愛と執著とにあることがわかれば、その渇愛と執著とを滅することが必要であります。通俗の言葉にて言へば渇愛・執著等の欲望を滅すことを肝要とするもので、これを第三の滅諦といふのであります。さうして、さういふ境地は涅槃でありますから、滅諦といふのは涅槃の境地に至りて心の平和なる世界に住むといふ意味であります。しからば、如何にして、苦悩の原因たる渇愛と執著とを滅するかといふに、釈尊は八正道を修むることによりてその目的が達せられると説かれました。八正道といふのは正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(約めて言へば六度)であります。これを道諦といふのであります。釈尊はこの四つの聖諦を説きてこれを人々に示されたのであります。頓教と申すのはこの釈尊の教をよく理解して、それを体驗することによりて、この身のままに、迷を転じ、悟を開くべき教であります。  釈尊の精神  釈尊の教が、その言葉にあらはれたるものはまことに此の如くでありますが、しかしながら、その教を奉じてそれを自分のものとしやうとするならば、その言葉の中に含まれて居るところの釈尊の精神を十分に明かにせねばなりませぬ。むかしの書物の中に、ある愚なる女中が、その主人から、「この魚をよく見て居つて呉れ」といひつけられて、一生懸命にそれを見て居つて、猫が来てその魚を取つたのまで見て居つたという話がありましたが、いかにもその言葉は「よくそれを見て居れ」といふのでありますが、その言葉の中に含まれて居る意味は「猫の取るのを番をして呉れ」といふことでありますから、見て居つただけではその言葉の意味を体得したとは言はれませぬ。  これと同じやうに、釈尊の言葉にしても、その中に含まれたる意味を十分に理解して、それを味得するのでなければ、釈尊の教を奉じたものとは言はれないでありませう。  そこで、釈尊がその教を説かれた精神は何処に存して居つたかといふことを考へて見ることが、その教を奉ずる上に、第一必要でありますが、それにつきては種々の方面から考へなければなりませぬ。今、ここに、私が考へつきましたことにつきて大略のことを申し上げて見ませう。  釈尊は、その頃までの印度の学者が種々の思索を盛にして、それによりて苦悩を去らうとしたのを排斥して、それは駄目であるとせられたのであります。思索というのは智慧のはたらきに属するものでありますが、それによりては苦悩を除くことは出来ないとせられたのであります。つまるところ、哲学的の思索によりては、我々は苦悩から離れることが出来ないとせられたのであります。言ふまでもなく、宗教は哲学ではありませぬ、哲学が宗教の代りをすることは出来ませぬ。  それから釈尊は、我々がいろいろの見解を立てても、それによりて我々の苦悩が除かれることはないと示されたのであります。我々の生命といふものはどういふものであるか、我々が死して後にどうなるものであるかといふやうなことが、理屈の上で、よくわかつたとしても、それによりて苦悩が除かれる訳はないのであります。有名なる一茶の俳句にもある通ほりに「路の世は露の世ながらさりながら」であります。我々の世界が露のやうな脆いものであり、そこに住むで居るところの我々の命が露のやうに脆いのであるといふことは十分に承知して居りましても、可愛い我が子の死むだのはまことに哀しみに堪へぬことであります。誰人でも、人間がすべて死ぬるものであるといふことは知りぬいて居るのでありませう。しかしながら、死ぬるといふことは誰人に苦悩の種であります。死むだ後のことが明瞭にわかつたとして、それによりて早く死にたいと思ふ心が起る筈は決してないことでありませう。それ故に、我々が如何なる見解を立てたにしても、その見解によりて苦悩を除くことは出来ぬのであります。  その頃印度では、自分の心の外面だけを見て衝々の教を立てたのに反して、釈尊は自身の心の内面を見て、その教を説かれたのであります。苦悩といふのは人々が考へて居るやうに心の外に存するものでなくして、我我の自分の心にて造り上げるのであるから、その自分の心を調べることが第一であると釈尊は示されたのであります。釈尊が四諦を説かれたのも帰するところは、自分の心を内観するといふことに外ならぬのであります。  大体、かやうの次第で、釈尊の教は、事に就てその説を立てられたものであるといふことが明瞭であります。決していろいろの理屈を考へ出して、かうあるべしと説かれたものではありませぬ。或る門人が釈尊に対して、死してから後にもなほ命がありますかといふやうなことを質問したときに、釈尊はそのやうなことは無用の問題である。苦悩を離れやうとして、さういふ見解を明かにしたところで、苦悩は決して巳むのではない。自分はさういふ無用のことは説かぬ。自分が説くところは現在、我々が苦悩の状態から離れる道であると言つて、さういふ問題に関しては何等解決を与へられなかつたのであります。  釈尊の教  さういふ次第でありまして、釈尊の教には儀禮といふものはなかつたのであります。すべての人が学ぶことを要するところの教義といふものもなかつたのであります。それから、その頃の印度の人が考へて居つたやうな神といふのもなかつたのであります。その当時の印度の大多数の人々はいろいろの神を考へて居りまして、たとへば、山の神、樹の神、その他、自在天とか、何とかといふやうな種々雑多の神を信じて、それに祈り、又それを祀つたのであります。しかるに、釈尊の教にはさういふ想はなかつたのであります。  釈尊の説法は、それを聞く人に対して、その智慧に相当して、十分によく理解が出来るやうに、或は譬喩、或は寓話、或は事実上の話をして、その人をして自然に不可思議の法に触れしめるやうにとつとめられたのでありました。  かういふ次第でありますから、釈尊の教は全く釈尊自身の内証と申して、釈尊自身が悟られたところの真理をそのままに人々に伝へられたものであると言はねばなりません。釈尊の教は全く事実を開陳せられたものであつて、決して一定の教義を立ててこれを人々に教へられたのではありませぬ。今日では、仏教の各派おのおの、その派に特別の教義といふものが行はれて、代々これを受けて伝へて居られるやうでありますが、さういふ信條は釈尊の教には一とつも無かつたのであります。ただ釈尊が自覚によりて悟られたる真理が主として説明せられたのでありました。しかもそれは何時でも事実に拠りて示されたといふことが釈尊の教の特徴でありました。  廢悪修善  前に一寸申した通ほりに、釈尊の教はまことに簡単明瞭のものでありました。世の中の一切のものの真相をば明かに観察し、それによりて誤まりたる所見を正し、従つて種々の苦悩をそれによりて除くべしと説かれたのでありました。これを実際的に言へば、八つの正道を修めて行くといふことに帰著するものでありました。さうして釈尊が八つの正道と申されたのは正見と正思惟と正語と正業と正命と正精進と正念と正定とでありましたから、これを約めて言へば布施、持戒、忍辱、特進、禅定、智慧の六度か、戒、定、慧の三学になるのであります。結局、悪を廢し、善を修むるといふことが、釈尊の教の要旨であると考へられるのであります。  それ故に、釈尊の教は道徳を主とするもののやうに思はれます。殊に小乗の声聞とか縁覚とかと申すものでは戒律のことが厳重に言はれるので、釈尊の教は精進一徹のものであるやうに解せられるのであります。しかしながら、釈尊が廢悪修善のことを説かれたのは、それによりて真理を悟ることが出来るとせられたからでありませう。八正道を修めることによりて、自身の相を明かにし、我々の心が如何に真実を離れて居るかということを明かにすることが出来るとせられたからでありませう。これは前にも申したやうに「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」、是諸仏教」と釈尊が申されたことによりても、推知することが出来るのであります。  諸行不及  悪を廢して善を修めよと言はれるからと申して、ただ単に悪を廢し、善を修めやうと努力することが、釈尊の精神を知つて、正しくそれをするのであるとは申されませぬ。悪るいことを止めなければならぬとすれば悪るいことにますます多く気のつくものであります。悪るいことの数は甚だ多いのでありますから、それを一とつ二たつと止めて行つても、何時それが全く巳むかはわかりませぬ。恐らくは我々の一生の間にはその千分の一も萬分の一も止むことはないでありませう。親鸞聖人が「何れの行も及びがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」と申されたのはまことに徹底したる内省によりてあらはれたる言葉であります。ただ釈尊が説かれたる言葉だけをそのままに受取りて、悪を廢し善を修めるやうに努力することは、一寸考へれば釈尊の教に従つたもののやうに思はれるのでありますが、その実は釈尊の教の形式のみを伝へてその精神を無視したものであります。宗教といふものが自身の心の問題である以上は、我々はどこまでも自身の心の内面を観ねばならぬのでありますから、釈尊も「心を法の本とす」とか、「自己を調へよ」とかと言つて、内省を十分にすべきことを説いて居られるのであります。常識で考へても、釈尊が説かれた言葉を聞きましても、それが自分のものとならなければ、何の役にも立たぬことであります。そこで釈尊が八正道を修めて涅槃の悟を開くことが出来ると教へられたことを、我々が自身の心の有様の上に受取りて見れば「何れの行も及び難き」といふ事実が知られるのであります。まさに釈尊の教とは反対のやうでありますが、しかしながら、それが釈尊の教によりて見ることの出来た自身の相であります。  法の信仰  かういふ訳でありますから、釈尊が「苦悩に我々が渇愛と執著とによりて自から造るところのものであるから、八正道を修むることによりて、渇愛と執著とを成し、それによりて苦悩を除くべきである」と説かれましたことにつきても、その釈尊の精神の内に「法」といふものに対して極めて熱烈なる信仰が存して居つたといふことを知らねばなりませぬ。釈尊が阿難に向つて説かれました言葉に「法を燈とし、法を家となし、自からこれに帰依して、他に帰依することなかれ」とあります。又釈尊は迦葉といふものに対して念法といふことの説明をして居られますが、それに拠りますと、「如来の法というものは妙なるものの中の最も妙なるものである、此法は心の見るところであつて肉の眼の見るところではない、生じたものでもなければ出来たものでもない、住《とどま》らず、滅びず、始なく、終なく、無為無数であつて、譬に説くことも出来ず、我々にもどうすることも出来ないものである。しかしながらこの法は家のないものに家となり、頼りのないものに頼りとなり、心の暗きものに光りとなり、悟りの岸に至らざるものを覚りの岸に至らしめるものであり、香のないものに香を与へるものである」といふやうに説かれました。  これ等の説明によりて見ましても、釈尊には「法の信仰といふものが強かつたといふことが考へられるのであります。「法」といふものを燈とし、それによつて導かれて行かねばならぬといふことが強く信ぜられて居つたのであります。正道を修めるといふことも要するに「法」に導かれるのでありまして、結局、「法」によりて涅槃の悟りが開かれるのであります。釈尊はかやうに「法」の妙徳を信じて悟の道に入られたのでありますが、かやうな信仰がなくして、ただ釈尊の言葉の表面のみを受取る場合には、釈尊の精神に背くことが甚しいと申さねばなりませぬ。  真実の法  釈尊が燈とし、依り所とせよと言はれるところの「法」は不可思議のものでありまして、我々の言説を離れたものであります。不生不滅・不増不減・無為無数にして、心も及ばず、言葉もたえたものであります。それ故に「法」を燈とすると言ひましても、さういふ不可思議のものをば我々がつかむといふことは出来ぬものであります。言葉通ほりに釈解すれば「法」を燈とするといふのでありますから、先づ「法」といふものを見出して、しつかりとそれを握つて、それを燈とすべきでありますが、しかしながら「法」といふのは我々の目に見ることの出来るものではありませぬ。又言葉でこれを説明することも出来ぬものであります。仏教で「真如」と申して居るものがすなはち「法」でありますから、これを「真実」といふ言葉に代へても差支ありませぬ。しかしながら、「真実」と申しても、我々が平生使つて居るところの真実は違つたものであります。我々が平生使つて居るところの真実は虚偽に対しているところのものでありまして、ただ相対的のものでありますが、ここに「真実」といふものは、さういふ我々の考へを離れた絶対的のものであります。我々の平生の言葉で、真実とか、虚偽とかといふやうな考へを離れて居るものでありますから、我々は直接にこれに觸れることは出来ぬものであります。  法を見る  「法」といふものは、かやうに不可思議のものでありまして、我々は直接にこれを見ることは出来ぬものでありますが、しかしながら、「人」「物」を通じて間接にその法に觸れることが出来るのであります。釈尊につきて申せば、我々は今日でも、釈尊の言行を通じて、その中に動いて居るところの「法」を見ることが出来るのであります。釈尊在世の常時には釈尊に接したる多くの人々が釈尊の身体を通じて「法」といふものを見ることが出来たのでありませう。跋伽梨《パツカリ》といふものが釈尊に始めてお目にかかつたときに「私は身体に力がなくして、あなたにお目にあたるといふことがこれまで出来なかつた」といふ意味のことを言つたところが、釈尊はそれに対して「法を見るものは私を見る」と言はれました。いかにもさうでありませう。釈尊は言ふまでもなく一人の人間でありますが、その人間の身体が無くなつてから千年の後の今日にも、なほ釈尊が存して居るのは全く釈尊の身体を通ほしてあらはれたところの「法」であります。それ故に、釈尊在世の当時に、世尊として釈尊を尊崇したのは、全くその「法」に接することが出来たためであります。「法を見るものは私を見る」のである釈尊が申されたことはいかにも当然のことでありませう。  小乗  そこでお話を致さなければならぬのは、仏教でいふところの小乗のことであります。小乗といふことは小さい乗物といふ意味で、多くの人が乗ることの出来ぬ乗物で、多くの人々が進むことの出来ぬ道であります。仏教の内で、我邦に最も古く伝はつた成実宗とか、倶舎宗とかといふやうなものがこの小乗に属するものであります。無論自分で小乗と言つたのではなく、後に起つた大乗に対してこれを小乗といふのであります。さうして、大乗は釈尊の精神を開展させて興つたものでありますから、それは釈噂の教説ではないとまで言はれ、大乗非仏説と申す議論もありますが、小乗の方はこの点から申すと、釈尊に親炙した人の説いたところに拠るとせられたもので、いはば原始的仏教であります。しかしながら、それが果して釈尊の精神を伝へたものであるかといふことは、別問題であります。  小乗の中には声門乗と縁覚乗との二種が別けられて居ります。縁覚といふのは飛花落葉を見て、独り諸法の無常をさとり、或は十二因縁を観ずるといふやうに、修行によりて悟を開くことをつとむるのであります。声聞乗といふのは四諦の真理などを聞き、それによりて修行して涅槃のさとりをひらくことをつとめるものであります。この二たつのものは共に釈尊に接近した人々の教に本づくものであるとせられるのでありますが、いかにも釈尊は厳粛の生活を説き、自身にも極めて厳粛の生活をせられたのでありますから、直接にそれに接觸した人々は、それに習ふて涅槃のさとりをひらくことに努めたものでありませう。その中には固より釈尊の精神を理解して居つたものもあつたのでありませうが、多くの人々は、釈尊の精神といふものには注意せず、ただその厳粛の生活のみを模倣して、それによりて涅槃のさとりをひらくことが出来ると誤解したのでありませう。恐らくは釈尊在世の当時には面前に崇高なる人格を見て、それを、仰するのあまりに、ただその形式の外面にあらはれたものが目にとまり、その内部に動いて居つたどこかの真実の法は、多くの人々の目に著かなかつたのでありませう。  阿弥陀仏  しかしながら、深く考へて見ますと、釈尊が、真理を悟り、正道を修めることによりて、悟を聞くことが出来ると言はれたその心の中には強き「法」の信仰が存して居つたのであります。  さうしてその「法」といはるるは「仏性」といひ、「如来」といふもので、それを限定すれば、阿弥陀仏であります。それは仏教で説かれるところの仏には澤山あります中に、一切の衆生をたすけむといふ願を起して仏となられたのは阿弥陀仏であると示されて居るのでありますから、宗教の意味を強く考へていふときは、釈尊の身体を通して我々の前にあらはれたのは全く阿弥陀仏であると言うべきであります。それ故に、一方から見れば、釈尊はこの阿弥陀仏の法を説くためにこの世に出られたのであると申すことも出来るのであります。  我々はかやうにして、釈尊によりて示されたる阿弥陀仏で崇拝し、その教に從ふて、転迷開悟の目的を拠することが出来るのであります。すなはち釈迦教に対して、これを弥陀教と名づけるのであります。私はこれから、弥陀教の要旨につきて段々お話を進めやうと思ふのであります。  聖道の実際  前にお話致したやうに、仏教には、聖道と、それから浄土と名を附けられて居る二つの大きな分派があります。しかしそれは釈尊の教を受取る人の側で造つたのでありまして、元来の釈尊の教がさう二つに別れて居るわけではないのであります。ところが仏教が我国に這入りまして、奈良朝時代から平安朝時代にかけて、いろいろの宗派が行はれました中に、最も盛であつたのは天台宗であります。京都の比叡山に延暦寺が建てられまして、其所を道場として、伝教大師の宗教が拡がつたのであります。学問の上から言つても、天台の哲学は仏教の中で最も発達したものであると言つて差支ありませぬ。無論、天台宗の教理と申すやうなことは六ヶ敷い理屈もありますけれども、実際から眺めて見ると、第一に「法華経」を読誦すること、それから真言を行ずること、それから禅観を修すること、それから菩薩戒を持すること、それから念仏すること、これが天台宗にて実際に行はれたものあります。  観仏と念仏  かやうに天台宗の実際につきて、「法華経読誦、真言行、禅観修、菩薩戒、念仏が行はれたのは、要するに、それによりて仏を観るのでありまして、疫病が流行つたときにもお経を読むことが行はれたのも畢竟は仏をたのむのであります。それから真言を行ずることも、それから禅観を修することも、自分の心を内観してそれによりて仏を観るのであります。それから戒律を持することも、念仏を申すことも、皆、仏を観るの法でありまして、念仏の書評と同じ意味のものでありました。ところが、それ等の方法によりては安心立命の境に達することが出来なかつたために、別の意味を持つた念仏が始まつたのであります。それは前に申した、念仏が観念の念仏であるのに反して、ただ仏名を称ふる念仏でありました。  観念の念仏  念仏と申すことは、元来、仏を念ずるのでありまして、すなはち仏の相を念じ、仏の心を念じ、その根本に入つて申せば真如を観ずるのであります。たとへて申せば、仏の国は極樂でありますが、その極樂の立派なことを念じ、この世界がまことに穢ない苦しい世界であるといふことを考へて、そこでこの汚ない苦しい国から綺麗な浄土に行かうといふことを念願するといふやうなわけで、それには自分の智慧を研いて、真理を覚つて、さうして覚を開くといふことが目的であります。それが前に申した聖道の教であります。これを釈迦教と申すのであります。実際から申せば観仏の教であります。我邦に始め行はれた仏教は、すなはちかやうな釈迦教でありました。それで、観仏といふことが盛んに行はれて居つたのでありまして、念仏と申しても観念の念仏に外ならぬものでありました。  称名の念仏  この釈迦教の要旨を一日につづめて申せば、自分の心をよく調べて、それによつて涅槃の証を開くべしといふことであります。迷を転じて悟を開くべしといふ教であります。それは全く釈尊の説かれたところでありますから、そこで釈迦教と名づけられたのでありますが、しかしながら、さういふ教を自分のものとして受け取つて、その教に動かされて進んで行くといふことにならなければ、宗教としては何等価値のないことであります。それ故に、さういふ教を自分の心に受け取つて、さうして釈尊が説かれた教の意味を自分の心の上にあらはすといふことになると、「法華経」を読誦するといふことも、真言を行するといふことも、禅観を修するといふことも、菩薩戒を保つといふことも、念仏するということも、畢竟ただこれを行ふというだけでそれが自分のものとはならないのであります。そこに気の附いた人が、別の意味の念仏を申すやうになつたのであります。仏の功徳を念じてさうして仏に随つて行かうといふやうな念仏にぶつかつて、さういふことはとても出来ない自分であるといふことに気の附いた人が、概念の念仏を捨てて称名の念仏に移つたのであります。  浄土教の実際  観念の念仏と称名の念仏と、念仏といふ言葉は同じでありますけれども、その意味は全く相異したものであります。早く申せば観仏といふことは仏の功徳を考へ、仏の慈悲を考へ、さうしてその仏に縋るのであります。これに反して、称名の念仏といふことは唯だ仏の名を唱へるのであります。仏の名を称へるといふことは、観念の念仏でも同じことでありまして、矢張り仏の名を称へるのでありますが、その称へる心持が相異して居るのであります。概念の念仏は自分の心によつて行を起すのでありまして、称名の念仏は行に帰して心を捨てるのであります。そこに非常な相異があるのであります。さうしてかやうに相異の起るのは、全く自分の心をよく省みると省みないとによるのであります。  空也上人  天台宗の高僧でこの称名念仏をした第一人者は空也上人であります。この空也上人は延喜年間の人でありますが、自分の出た所は言はれないし、父母の名も言はれないし、どうした人かその履歴のはつきり判らぬ人であります。或は天子様のお子様であつたといふことも伝へられて居りますけれども、それは虚伝でありませう。唯だ京都の町を常に仏の名を称へて歩いて居つた人でありましたから、阿弥陀聖と称せられて居りました。言ふまでもなく、天台宗の高徳でありまして、天台宗の観念の念仏からただの称名念仏に入つた人であります。元々天台宗の人でありますから、前に申しました天台の五つの方法を修行して居つた人でありますが、自分を省みることが非常に深かつたために、その念仏を称名の念仏になつたのでありませう。今日でも、宗教の心理をしらべて見ますると、観念の念仏は何時でも内省によりて称名の念仏になるのであります。空也上人は天性、宗教的の人でありまして、その行は実に世間ばなれがして居りました。或るとき山の中に這入つて弟子を連れて生活して居られたのでありますが、いろいろ米を集めたり、それを炊いて御飯にしたりすることが大変うるさくなつて、或るとき突然空也上人の姿が消えた、弟子が驚いて方々探したところが、京都の町で乞食の仲間に這入つて菰を被つて寝て居られたのでありました。世間が騒がしいから山の中に這人つて居たが、山の中も亦騒がしいからそこでかうして居るのだと、平然として乞食の群に這人つて、隠遁して居られたといふことであります。  空也上人が鞍馬山の溪の中をあるいて居られましたときに、向ふから侍が鹿の角と猿の皮を持つてやつて来るのに逢はれました。空也上人はその侍に向いて、あなたは妙なものを持つて居られるがそれは何ですかと尋ねられました。ところがその侍は私は狩をして鹿と猿をとつた、鹿は角を切り、猿は皮を剥いで持つて帰つたのでありますと答へました。さうすると空也上人は涙を流して、それは自分と一緒に此山の中に暮して居つたものであります。それを殺すといふことは何事でありますか、どうかその角と皮とを私に下さいと言つて、それを貰つてその角を杖とし、猿の皮は自分の著物にして始終自分の身につけて離されなかつたといふことであります。その侍は平の定盛といふ男でありましたが、空也上人の言はれたこととその態度と、それから後の行とに、ひどく感激しまして、誠に悪るいことをして済まなかつた、生きものは自分と同じやうに命を持つて居る、自分も命が惜しいのに、殺された鹿も猿も命が惜しかつたであらう、誠にすまぬことをしたと悔悟して、空也上人にお願して頭を剃りて修行しやうと思ふ心が起きまして、空也上人に向つて、私には妻子がありますから、妻子を捨て、これから後はあなたのお伴をして修行しやうと思ひます」と申したところ、空也上人は「妻子を捨てるのは慈悲の殺生だから、それはよくない、妻子を持つたまま、髪のあるまま教に従つて修行されればよい」と言はれました。平定盛はすぐに空也上人の弟子になつて宗教的生活をしたといふことであります。当時天台宗には空也上人の他にいろいろ高徳があつたのでありましたけれども、多くの人々はその教のままずつと進んで行かれたのでありますから、修行の功はありましたけれども、空也上人のやうに宗教の心にみちみちて生活して居つた人は少なかつたでありませう。天台宗で説くところの教といふものは、固より同じでありますけれども、受け取る人の心持がどうそれを受け取るかといふことが問題でありまして、そこで空也上人は実に宗教的に徹底した人であつたといはなければならぬのであります。  恵心僧都  空也上人にすこし遅れて、恵心僧都といふ人が出て来られたのでありますが、この人が今申した称名念仏の道に入つた有名の人であります。天台宗から出て称名念仏を初めて盛んにやつたのが空也上人であつたとすれば、恵心僧都は第二番目にそれをやつた人であります。恵心僧都は、前にも後にも一寸類のないほどの学者でありました。この恵心僧都が空也上人の高名を聞かれて、その上人に會いたいものだと心がけて居られたところが、或時京都の町でふと空也上人に會はれました。まことに徳の高い、前に申したとほりに人間離れのした阿弥陀聖と言はれるほどに南無阿弥陀仏を申して居られる人でありましたから、恵心僧都もひどく感ぜられまして、空也上人に向いて、「私は極樂を願ふ心が誠に深いのでありますが、往生は出来ませうか」とかう聞かれたのであります。さらすると空也上人が言はれるのに「私は無智のものでありますからさやうなことは少しもわかりませぬ、唯だ昔の偉い人の言はれたことを聞いて、さうして考へて見るのに、往生の出来ないといふことはないと思います。いろいろ観念の力をはたらかしてさうしてだんだんと進んで行つたならば、非想、非非想までは至ることが出来るのであります。浄土を願ふものも矢張り同じことであります。穢土を厭ひ浄土を願ふ心持が深く、それによつて進んで行つたら往生の出来ないことはないと思います、と空也上人は言はれました。恵心僧都はそれを聞かれて、まことにさうだと感心して涙を流して空也上人を拝まれたといふことであります。後に恵心僧都は「往生要集」といふ書物を書かれまして、称名念仏の意味を詳しく説かれましたが、その「往生要集」のもととなつたものは、空也上人が説かれたところの、穢土を厭ひ、浄土を願ふといふことであります。  さて、恵心僧都が、どういふやうにして観念の念仏から称名の念仏になられたのであるかといふことを、ここに考へて見たいと思ふのであります。恵心僧都は非常に才智の優れた人であつたと伸べられて居ります。その少年の時のことにつきてもいろいろの話が殘つて居るのであります。さういふ才智に富むだ恵心僧都を生むで、さうしてそれを育てたお母様が又非常に偉い人でありました。お父様は早く死なれたのでありますから、恵心僧都はお母様の手で育つたのであります。お父様は言置で、少し年を取つたら叡山に上して僧侶にするやうにといふことで、六つか七つの年に、大和の国から京都の叡山に上して仏道を修行せしめられたのであります。元来がゑらい人であるのに、修行が善かつたので間もなく出世せられまして、年が二十幾つで巳に有名の大家になられたのであります。朝廷でお経の講釈をするやうな偉い人になつて、いろいろ頂戴物をせられたので、恵心僧都はその喜びを母上に伝へるやうに、朝廷から頂いたものを使に持たせてそれをお母様の所に送られました。ところがお母様はそれを受け取られぬのみならず、自分が自分の可愛い子供をば自分のもとから離して叡山に上して仏道を修行せしめるのは、一身の名誉のため、一家の利益のためではない、衆生済度のために外ならぬものである。年がまだ若いのに、人から褒められたとて有頂天となる心持は何事であるか、自分はさういふことを期待したのではない、といふやうな意味のことを言はれたと伝へられて居ります。恵心僧都はそれを聞いて、大いに内観せられまして、それから一生懸命に仏道を修行せられたということであります。  偉い人は蔓を引くものであります。恵心僧都の妹に安養の尼といはれた人がありますが、この安養の尼が又非常に宗教的の人でありました。或る時安養の尼の家に泥棒が這入りまして、著物を盗みて帰りましたが、その帰つたあと、庭に著物が落ちて居りました。尼はそれを見てこれは今の泥棒が落したのだから持つて行つてやれと使の人をやられました。ところがその泥棒はそれにひどく感激しまして、悪るい所に這入つたと言つて、さうして尼の家で盗み取つたものを皆返却してしまいましたといふ話が殘つて居ります。安養の尼はかやうに宗教心が強かつたのであります。或時恵心僧都が話されたことに「どうもこの浮世といふものはまことにもろいもので、たとへば春が過ぎて夏になり、夏が過ぎて秋になり、秋が過ぎて冬になり、今木が生々して居るけれども、しばらくするとこの木の葉が落ちる、これを以ても人の命が露より脆いことを感ぜねばならぬ」といふことを申されました。安養の尼はそれを聞いて「あなたは世の中のはかないことをそんなに悠暢に考へて居られるのか、出る息は入る息を待たない、世の中は春が過ぎて夏が来るなどとそんなに悠暢に考へて居られますか」と言はれました。それで恵心僧都は閉口せられたといふやうな話も殘つて居るのであります。兎に角お母様が偉いし、妹も偉いし、御自身も偉いのであります。  勧進の偈  恵心僧都が後にお母様に「勘進の偈」といふものを書いて送られました。それはかなり長いものでありまして、その中に次のやうなことが書いてあります。  「三界はみな苦悩なり、鳥の樊籠を被るが如し、苦に於て樂と思ふがゆゑに、久しく生死に流転す、人命は極めて無常なり、幼少の人なほ死す、何にいはんや衰老の者をや、いかんぞ心せざらん、念文の中の悪業は、冥官みな注記す」  銘々が皆一念々々心が起る、其度毎に造る所の悪るい業は地獄の役人が一とつ一とつそれを記載するといはれるのであります。  「きくならく多悪のもの、地獄の中に馳遺せらる、過去無始のつみ、ただ命終の時をまつ、現在無際のとがは、更らに受生の処をあらそふ」  かやうに、人生の有様を説いて、さうして更に次のやうに言つて居られるのであります。  「男女の愛子といへども、誰の人か相すくふ者あらん、自ら恣に悪業を造りて、洞然火の中に堕せん、天に呼び地をたたくといへども、さらに何の益かわからん、唯ねがはくは我が悲母、生死の由来を観じて、早く世間のつとめを拠つて、速に出要の道にしたがへ、出離の最要路、念仏門にしかず」  そこでかういふやうな浮世にあつて、さうして浅間しい人間がその苦から離れる道といふものは、唯だ念仏門であるとかういふことを長く書いて、お母様に送つて居られるのであります。  厭離穢土  それから恵心僧都は  「夫以れば三界は皆な苦なり、五蘊は無常なり、苦と無常と誰かいとはざらんや、然るにわれら無始よりこのかた、いたづらに生じ、いたづらに死して、猶いまだ道心をおこさず、亦いまだ悪趣をまぬがれず、悲しいかな、いづれの時にか、まさに解脱分の善根をうゑん」  と説いて居られるのであります。この穢れた世を厭い、浄らかな国を望むといふことは、それはまことに深く念ずるところであるけれども、しかしながら、それには道心が起らなくてはならないのに、自分は道心もまだ起さないし、それから念々に作る所の悪業が極めて多いから悪趣を免れることは出来ない。かういふ風な有様であつては、何れの時にか解脱することが出来やう。そこで恵心僧都はだんだん考へて、さうして釈尊の説かれたと言はれるお経を引くり返して読まれたのでありますけれども、前に申したとほり、その頃天台宗で主に読んだお経は「法華経」でありまして、その他のお経といふものはさう詳しくは詮索しなかつたらしいのであります。恵心僧都はさういふ自分の心の有樣に目がさめて、厭離穢土のためにその目的を達すべき方法を説いてあるところの御経を探されたのであります。  観無量壽経  恵心僧都は、「法華経」以外のお経につきて詮索せられた結果、見つけられたのが「観無量壽経」でありました。恵心僧都は次のやうに説いて居られるのであります。  「抑々観無量壽経を案ずるに、云く、或は衆生あり、五逆十悪を作りてもろもろの不善を具す、かくの如きの悪人悪業をもつてまさに悪道におち、多功を経歴して苦をうくること窮りなかるべし、かくの如きの悪人命終の時、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説て、をしへて仏を念ぜしむるに遇へり、かの人苦にせめられて仏を念ずるにいとまあらず、善友告ていはく、汝もし念ずることあたはずば、まさに無量壽仏と称すべし、かくの如く心をいたして声をして絶ざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称す、仏名を称するがゆへに念々の中に八十億劫の生死の罪をのぞき、命終の後に金蓮花のなほし日輪の如く、その人の前に住するを見て、一念の頃のごとくにすなはち極樂世界に往生することを得」  かういふ文句を読まれて、恵心僧都は観念の念仏から称名の念仏へと進まれたのであります。自分といふものを棚に上げて置いて、或は極樂の相を考へ、或は地獄の相を念じても、それは畢竟、一場の話柄に過ぎぬのであります。  三の罪  恵心僧都は深く内省して  「夫身において三の罪をつくる、殺生?盗邪婬なり。口において四の罪をつくる、安語綺語悪口兩舌なり。意に於て三の罪をつくる、貪欲瞋恚愚癡なり」  かういふやうに、恵心僧都は自分の心の浅間しいことをつくづくと考へられた結果、そのお経の中に  「極重悪人、無他方便、唯称弥陀、得生極樂」  といふ文句に遭遇して、それにひどく突当られたのであります。自分の心の浅間しいといふことを考へ、自分の罪の深いことを考へ、それでどうすることも出来ないといふことを知られたところで、かういふ深い罪を犯すやうな悪人は別に道はない、ただ弥陀の名を称へることによつて極樂に生れることが出来るといふことにより、自分の心を転換することが出来たのであります。  弥陀の本願  或る時、宇治の平等院で恵心僧都が説法せられたことがありましたが、その法座の上に木の葉が落ちました。恵心僧都がそれを取つて御覧になつたところが、その木の葉に虫喰の文字がありました。「極樂へ行く船の便りに」といふ歌の下の句がその木の葉に虫喰のままにあつたといふのであります。これは作り話でありませう。それは兎も角も「極樂へ行く船の便りに」といふ句があつたと考へればよいのでありませう。それで恵心僧都は聴衆に向いて「どなたでもこの上の句を詠みなさい」と注文せられたのであります。ところが誰も詠まないので、恵心僧都が自から詠まれました。それは「法の道しる人あらば渡すべし極樂へゆく船の便りに」といふのでありました。澤山の人はそれを聞いて一同感に入つて帰りました。その中に一人の老婆が居りまして、一人殘つてさめざめと泣いて居りました。恵心僧都がこれを見て、人々は皆な下向するのにお前一人後に殘つて泣いて居るのはどういうわけか」と聞かれました。そのとき老女が申すのに「今の上の句を聞いてまことに悲しみに堪えませぬ」といふのであります。恵心僧都は「我が詠みたる上の句を聞いて何を悲しく思召さるや」老女いふやう「法の道を知りたる人こそは此船の便りに極樂に行かんずれども、ゆれ等如きの罪悪深重なる法の道を知らぬものは、此船の便りに極樂に行くこと叶ふまじと存じて悲しむなり。」恵心僧都はこれを聞かれて「なる程尤もだ、どうか一とつあなた上の句を附けて下さい」と言はれましたところが老女が「法の道知るも知らぬも渡すべし極樂へ行く船の便りに」とよみました。恵心僧都はこれを聞かれて、「さてさて御身は凡人にましまさず、誠に弥陀の本願によく叶ひたる上の句なりと感じられました。そのとき老女は「我はこれ西方浄土の教主なり」と言つて光明を放ち紫雲たなびき云々とありますが、これは固より事実を荘厳した話でありませう。まことに法の道を知るといふことは、どこまでも学問でありまして宗教ではありませぬ。法の道を知らぬ人が、渡されねばならぬのでありますから、一切の人々はただ称名念仏によりて救はれるべきであります。  法然上人が説かれたことが「和語燈」に載せてあるのを見ますと「極樂世界にもれたる法門なきがゆへに」と言はれて、いろいろ教があつてもどの教でも極樂に行くことが出来るのであります。しかしながら「ただしいま弥陀本願の意はかくのごとくさとれとにはあらず」とありまして、念仏の法門は斯くの如く悟れといふのではなく、  「ただふかく信心をいたしてとのふるものをむかへんとなり」とあります。唯だ信心をして称ふるものといふのであります。法然上人はそれを説明して、  「耆婆扁鵲が萬病をいやすくすりはもろもろの木、よろづの草をもて合薬せりといへども」  耆婆といふのは印度の名医で、扁鵲といふのは支那の名医であります。その耆婆扁鵲がいろいろの病気を治すのはいろいろの木やいろいろの草を合せて薬を調合するといふのであります。  「病者はこれをさとりて、その薬草何分、その薬草何兩和合せりと知らず、しかれども是を服するに萬病ことごとくいゆるごとし」  医者の薬を、これは何がいくら這入つて居るといふことを知らなくても、その薬を飲めば病気が治るのであるといはれるのであります。  「ただうらむらくはこのくすりを信ぜずして、わがやまひはきはめてをもし、この薬にてはいゆる事なからんとうたがひて服せずんば、耆婆の医術、扁鵲の秘法もむなしくしてその益あるべからざる如し」  薬を飲んで治るのは、その薬をのめば治ると信ずるからで、これは何がいくら這入つて居るといふことが判つて居なくてもよいのであります。  「弥陀の名號もかくの如し、その煩悩悪業の病きはめてをもし、いかがこの名號をとなへてむまるることなからんと、うたがひてこれを信ぜずば、弥陀の誓願、釈尊の所説むなしくして、そのしるしあるべからず、ただあふぎて信ずべし、良薬をえて服せずして死することなかれ」  かやうに法然上人が説かれたのは、自分の計ひといふものを離れてただ信ずるのみであると、かういはれるのであります。  唯信  そこで唯信ずるといふことが重要の問題であります。いろいろ思考したり、判断したりして、さうして後に信ずるといふのではなくして、ただ信ずるといふのは、全く自分の計ひを捨てることであります。さう信ずることが正しいからと言つてそれを信ずるのではありませぬ。たとへば、恵心僧都にしても、後の法然上人にしても、全く自分といふものの力のないといふことを十分にさとられたのでありまして、さうしてその後にただ念仏することが出来たのであります。釈尊が一生懸命修行して仏になれと言はれるのでも、その奥に法を信ずることによりて修行してゆかれるのであります。それ故に、唯信ずるといふことは、全く自己の内観によりて自己の力のないことを十分にさとつたときの心持でありまして、ただ念仏より外にはないことが当然であります。親鸞聖人は「唯にただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また唯はひとりといふところなり。信はうたがふこころなきなり。すなはち真実の信心なり、虚仮をはなれたるこころなり、虚はむなしといふ、はかりなりといふ、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて、自力をすつるをいふなり。これを唯信といふ。……また唯信はこれ他力の信心のほかに、余のことならはずとなり」と説明して居られるのでありますが、これにてよく知られるやうに、唯信ずるといふことは疑はぬことであると申して差支がないのであります。彼れ此れとはからふことをやめて、ただ念仏を申すのであります。自力を捨てて本願他力をたのむのであります。  寶物集  この前に空也上人の念仏と、恵心僧都の念仏とのことにつきて、大体のところをお話いたしたのでありますが、それは段々と弥陀教といふものを説明するためであります。今日お話をするのは、その続きであります。空也上人でも、恵心僧都でも、その当時の天台宗の学者でありまして、全く専門の方でありますが、当時さういふ專門の学者でなく、又僧侶でなく、しかも仏教のことを心がけて居つた人が少なからずあつたのであります。それは沙弥と申すもので、僧侶でなく、しかしながら全くの俗人でなく、僧侶と俗人との中間の風俗をして、さうして仏教の修行をして居つたのであります。かういふ人々のことにつきてお話を致すことは、弥陀教といふものを理解する上に都合のよいことでありますから、そのこともお話を致さうと考へるのであります。その前に、平の康頼といふ人が作つた「寶物集」といふ書物に就て一寸、お話を致して置き度いと思ふのであります。この平の康頼といふ人は、前にお話した空也上人や恵心僧都よりは後の人で、平安朝時代の末の頃、源平時代の人であります。朝廷に事へて官は檢非違使に至つたのでありますが、平清盛が大変に暴虐であつたのを憤慨して藤原成親といふものが、平家滅亡の陰謀を企てたのに加担した。その陰謀が露見して俊寛僧都と共に硫黄ヶ島に流されたのであります。それが治承元年で、それから硫黄ヶ島に三年ほど流されて居りましたが、許されて京都に帰つたのであります。流される途中法体になつて、平判官入道といはれた位に仏教の志のあつた人で、京都にかへつてから後にこの「寶物集」を著はしたのであります。  寶の数々  この書の内容は康頼が硫黄ヶ島より京都にかへつた后、東山の別荘に蟄居して居つた。ところが友達の誰彼が康頼の生きて還つたのを喜むで訪問し、いろいろの話をした中に、康親が不在の中に世間の様子が益々悪るくなつた。それで三国伝来の峨峨の釈迦如来も浅間しがつて、天竺へ帰らむとする夢想の沙汰があつたといふことで、多くの人々が参籠するといふことを聞いて、康頼も驚いて嵯峨に參詣して通夜をして居ると、同じく参籠した人人の雑談の中に、世の中で何が第一の寶であるかといふことが問題となり、これにつきて種々雑多の問答が行はれたのであります。一人がいふに、それは隠簔といふものが第一の寶である。この隠簔といふものを持つて居ると、思ふことが何でも叶ふ。食ひものが欲しいと思へばすぐにそれが得られる。又人が隠れて居つて何か話をして居ればそれを聞くことが出来る。又自分を隠して人に見せないといふことも出来る。さればこの隠簔といふものこそ、人間第一の寶であらふと言つた。そこで他の一人がいふには、しかし欲しいと思ふて他人のものを取るなんどいふことはよくない。それは盗人だ。龍樹菩薩は身体を隠す術を知つて居られたけれども、それで失敗せられた。さういふものは決して寶とは言はれないと非難した。次の人がいふには打出小槌といふものが一番の寶だ。この槌で以て何でも叩き出すことが出来る。この位よいものはないといふと、又反対説が起る。叩き出すと言つても出たものが変手古なものでは困る。又実際さういふものがあるか無いかそれもわからぬ。それで打出の小槌が第一の寶とは言はれない。いや、第一の寶は金だ、金といふものがありさへすれば火にも焼けないし、水にも朽ちないし、光を増すばかりだ、千両の金といへば大したやうに思ふけれども、小さい箱に入れて持つて行くことが出来る、金さへあれば何でも自由であるから、これが一番の寶だ。かういふと、又反対の説が出る。金が寶であると言つても、これまで金のために命を失つた人もあつたし、持つて居る金がさう長くある訳ではないし、泥棒が来て取られることもあるし、又有るものが自然になくなるといふこともあるし、それ故にそれを第一の寶といふ訳には行かない。さうすれば玉が第一の寶であらう。お経にも如意寶珠といふものが寶だと書いてあるから、これが確かに一番の寶だと。さういふと又反対の説が出る。玉があつたと言つても、しかし人間が暑いときにそれが寒くなる訳はない。又寒いときにそれが暑くなるわけはない。それだからして本当の寶ではない。さうすると、次に一番の寶は子である。子供といふものは親として実に尊重しなければならぬものだ。これにも反対の説が出た。それはよい子ならよいけれども、その子供が親を虐めたり、泥棒をしたり、いろんな悪るいことをしたりすると却つて子は無い方がよいといふやうなことになる。それだから子寶と言つても、それを第一の寶ではない。その次にはそれならば命が寶だ、人間といふものは命が一番大切である、それだからして命が第一の寶だ。昔玄外三蔵といふゑらい人がお経の飜訳などせられた、大変偉い人であつた。ところが旅行中に泥棒に會はれて持つて居るものを澤山に取られた、そこで人々が見舞を申し上げた。さうすると、玄井三蔵は少しも嘆かるる気色がなく、平気で居られた。そこで人々が驚いて、斯様に澤山物を盗まれたまふたのにどういふわけでさう平気で嘆きの色を現はしにならぬかと聞いた。ところが玄外三蔵が言はれるのに、成程澤山なるのは盗まれたけれども、しかし自分の一番の寶である命は盗まれなかつたから、自分はさうには思はぬと言はれたと、かういふ話もある位であるし、命を惜まぬといふ人間はない筈だから、命といふものが第一の寶といふべきであるといふと、それにも反対の説が出る。命は都合がよければいいけれども、都合が悪るければ死にたいと言ふ人もあるし、又死んだ人もある、さういふ風に命を惜まずに死んだ人もあるし、命が惜しいとも限らぬ。それで命が第一の寶とも言はれない。かういふ風に多くの寶を数へて、これが第一だ第一だと言つてもどれも非難がありまして、多くの人が賛成しなかつたのであります。その時、そこに居つた僧侶は口を出して、何と言つても実は仏法に如くものはない。人の身で何が第一の寶であるかと言へば、それは仏法であるといふたので、世界第一の寶は仏法であるといふことに話がきまりて、そこでその僧侶は仏法の話をして、仏法といふものは無常を知るといふことが大事である。無常といふものを知りて、さうして露のやうな命に執著せず、幻のやうな世界に愛著を起さないで、さうして浄らかな仏の国に往生するといふことが主眼である。この位の寶はないと言つたといふことを話の種として、康頼が仏法の俗解というやうな書物を著はした。それが「寶物集」といふものであります。私が今、さういふものをもち出してここにお話を致すのは、康頼といふ人が仏教の専門家でないからであります。仏教の専門家でない人が、平安朝時代に、仏法につきてどういふやうに理解して居つたかといふことを考へて見たいからであります。  宗教の価値  いろいろの寶を数へて、その価値を批評して、遂に仏法が第一の寶であると決定したといふことは如何にも正しい考へ方であると思はれるのであります。この時代には宗教という言葉もなし、又、宗教と言へば仏法だけであつたと言つてもよい位でありましたから、仏法が第一の寶であるといふことは、今日で言へば、宗教が第一の寶といふことと同じ意味のものであります。言ふまでもなく、人間にはいろいろの大切なことがあるにはきまつて居りますが、しかしその大切なものの中で、実際我々人間として生活して行くのには先づ智慧のはたらきが必要でありませう。智慧がなくては我々は到底生活を続けて行くことは出来ぬのであります。外の暑いを暑いと知り、寒いを塞いと知るといふやうに、すべてのことを自分で知つて行く精神のはたらきを智慧といふのでありますが、それが第一に必要でありませう。若しその智慧といふものがなかつたならば生活をすることは先づ出来ますまい。若しさういふ風な智慧のはたらきのない人間が生れたならば、それは生活することは出来ずして直ぐに死亡するのであります。その智慧のはたらきが根本となりて、人間はいろいろのことがあらはれて居るのでありまして、或は学問といふものがあり、地位といふものがあり、或は名誉といふものが出来るのであります。かやうに種々雑多なることがあらはれる中で、最も大切だと考へられるのは学問であります。さうしてこれは知識を集めるのであります。しかしながら、いくら知識がありましても、人間としての道といふものがないならば、社會的に生活して行く上に忽ち障碍をあらはすのであります。それ故に、昔から人間の道といふものが喧しく説かれて居るのであります。仁義絶智信と約めて言つて居りますが、その仁義禮智信といふものを主として昔から人間の道といふものが説かれて居るのであります。そこで人間は学問がなくてはいかない、地位がなくてはいかない、門閥といふものが必要である、財産といふものが大切であると言つて嘆いで居るのであります。なるほど、かういふやうに考へれば隠簔といふものがあつて、それを著れば人の方が見えて自分の方は向ふに見えないといふことは大変都合のよいことであります。しかしながら、さういふことが果してどれだけの値打がありませうか。金にしても、或は門閥にしても、或は地位にしても、或は学問にしても、昔自分といふものを外方に押し出して、生きて行かうとするために用いるものでありますが、実際には、皆自分といふものを殺すといふ結果を示して居るのであります。それによつて自分といふものを人の前に出さうと思つてやることが、結局人の前に出て居るのは醜い自分であります。自分はゑらいと思ふて人の前に出しましても、人はゑらくないとして自分の価値を消してしまふのであります。出さうと思つて却て引込められるのであります。自分は正しいと、そんなことを言ふ人は他の人からは正しくないとせられるのであります。しかるに、今日我々が努めて居るところは全くその方面でありまして、どうかして人の上に立たう、どうかして人よりもゑらくならう、どうかして人よりも金を余計持たう、どうかして人よりも褒められやう、といふやうなことを考へて居るのでありますから、それに相応するものは寶としやうとするのであります。しかしながら、結局その何れもが寶ではないのであります。何が大切であるかと言へば、これまで度々お話をします通ほりに自分といふものが一番大切でありませう。その一番大切なる自分を善くして行くといふものが第一の寶でありませう。隠簔が寶であるとしても、打出の小槌が寶であるとしても、金が寶であるとしても、或は命が寶であるとしても、子が寶であるとしても、何と言つても結局それ等は本当の寶ではなくして、さういふ心のはたらきをするところの自分といふものの中を見て行くところの宗教といふものが、第一の寶であるといはねばなりませぬ。康頼の「寶物集」に書いてあることはこの意味に於て宗教の価値を示したものであります。  智能と感情  全体、我々人間の心のはたらきは、智能のはたらきと、さうして感情のはたらきと、かう二つに別けて見ることが出来るのでありますが、その智能のはたらきといふものは自分といふものを保存するために、外の方に出てはたらくものであります。それ故に、智能といふものは人から人へ伝へることが出来るものでありまして、智能のはたらきによりて集めることの出来た知識といふのは、甲の人から乙の人に注込むことが出来るのであります。しかるに、感情といふものは、智能と同じやうに自分を保存するためのはたらきでありますけれども、それは自分の内の方へ出て来るものであります。それ故に人に示すことが出来ませぬ。たとへて申せば、今日は風が吹くといふことを智能のはたらきによりて知るときには、今日は風が吹くと言つて人から人に伝へることは出来ますが、風が吹いて都合が悪るいとか善いとかといふやうな心持は感情として人々皆違ふ筈であります。さう自分の心持を人に伝へることは出来ません。ところで、その二つの精神のはたらきの中で、人間として生きて行くには感情といふものの方が大切であります。それ故に生れたままの赤坊には智能のはたらきはまだ十分にあらはれませぬが、感情は巳に生後第一日からあらはれて居るのであります。知るといふことは自分の気に入らぬものを除き、自分の気に入つたものを取るといふことが出来ますけれども、しかしながら感情としてあらはれるものはさう勝手にはまわりませぬ。たとへば今暑いと感ずる、暑いといふのは感情として出て来たのでありますからそれはどうすることも出来ないものであります。暑いのを暑いと思つてはならぬと申しましても駄目であります。我慢は或る程度までは出来ますけれども、結局我慢は役に立ちませぬ。智能の方面のことは我々の勝手にいかやうにも考へることが出来ますから、寶を数へる場合にもそれがいろいろに勝手に考へられるのであります。しかしながら感情のはたらきはさうではありませぬ。従つてその方の始末は容易でないのであります。或は我慢する。或は諦める。或は練習をする。或は修行をするなどの手段によりてそれをどうかしやうとしても結局それは駄目であります。それかと申して、それをほつて置くといふことは出来ないのでありますから、そこでどうすればよいかといふことになると、ただ宗教と名づけられる心のはたらきがそこに何時でもあらはれるやうにならなければなりませぬ。さういふ意味に於て宗教が人間の第一の寶であるといふことは、今日我々の知識から申しても正しい言ひ方であると思ふのであります。  仏道修行  しからば如何にしてその宗教といふものを修めることが出来るかと申すと、「寶物集」に書いてあるところに拠りて見ますと、第一に我々は無常を観じ、無常の身を以て無常の世界に長くとどまることが出来ないといふことを知りて、身体に執著するの心を離れて、早く浄土に往生して、さうして涅槃の悟を開くべきものであると書いてあります。これが仏道修行の大要であります。これは無論、今から七百年ばかり前のことでありますし、宗教といふものの説明もまだ今日のやうには十分でなかつたのでありますから、この「寶物集」に書いてあることが文字通ほりにそのまま今日に通用するとは考へられないのであります。しかしその当時の人々がどういふ風に考へて居つたか、天台宗などの学僧達を除いて、俗間に居る人がどういう風に考へて居つたかといふことを知ることが必要でありますから、この書物によつて仏道修行のことを説明しやうとしたのであります。  往生の十二門  「寶物集」には浄土に往生する道を十二門として挙げてあります。  「第一には道心をして出家遁世すべし」  菩提心を発して家を離れ、世を遁れて仏道を求むるといふことが第一の道であるとかういふのであります。  「第二に深く三寶を信じ奉りて仏に成るべしと申す」  三寶といふのは仏・法・僧の三つであります。釈尊を父の如く思ひ奉り、「法華経」を信じ、又一切の僧に帰依すべしといふのであります。  「第三に如来の禁戒を堅く持ちて仏となるべし」  すなはち戒律を堅く持ち、道徳を堅固に行はねばならぬ。  「第四に諸の行業を積みて仏に成るべし。」  忍辱、禅定、恭敬、禮拝などの諸行を積むことが大切である。  「第五に浄土に往生せんといふ願を発して仏道を成すべし」  一切諸仏は願を離れては生ぜすといふ。  「第六に生々世々の業績を懺悔して仏道を成すべし」  我々人間は一日一夜を経るに八億四千の念があり、念々につくるところのものは皆三途に堕つるところの業であるから、その業障を懺悔せねばならぬ。  「第七に諸の施を行つて仏に成るべしと申す」  寶を施し法を施すのであります。  「第八に観念を凝して仏道を成すべしと申す」  観念を凝すべしといふのは大体に自身の心を見ることであります。観心若しくは内観であります。  「第九に臨終の懸念をやめて仏に成るべし」  まさに死なんとする時に悪るい念を止めねばならぬ。   「第十に善知識に値て仏に成るべし」  「第十一に法華経を行すべし」  「第十二に弥陀を称念して仏道を成すべし」  極樂といふは弥陀の淨土である、往生を願はむ人は皆心を一にして念仏を唱ふべしといふのであります。  天台宗の実際  かやうに「寶物集」に挙げてある往生の十二門といふものは、前にお話を致した通ほりに、「法華経」を読む、それから真言の行を修める、それからして禅観を修する、それから菩薩戒を持つ、それからして念仏をするといふ天台宗の実際と同一のものであります。それ故に康頼の「寶物集」に記してあるところは畢竟するに、天台宗の教説が通俗化せられたるものであると申してよいと思はれます。天台宗の実際は「法華経」輪唱、真言行、禅観修、菩薩戒、念仏の実施であるといふべきでありますが、「寶物集」には更にそれが通俗的に示されて居るのであります。それ故に観仏と念仏とは同じ程度に行つたやうでありまして、それは所謂釈迦教であります。ところが今私がお話を続けて居るのは釈迦教でなくして弥陀教であります。さうして私の考へでは、釈迦教といはれるものは本当の意味に於て、そのまま宗教にはなつて居ないもので、弥陀教といはれるものこそ我々の心持に真実の宗教となつて現れる心持であると、かう考へて居るのでありますが、それも釈迦教の心持から転入するものであります。  そこで釈迦教の心持につきて段々とお話をすすめて居るのであります。  道徳の心  仏道を修むるには先づ菩提心といふものを起さなければいかない。仏にならうといふ願がなくてはいかない。釈尊の説かれた戒律といふものを堅く持たなければいかない。又いろいろ長い間に造り上げた業障を懺悔しなければならぬ、或はゑらい人に會つて教を聞かなければならぬ、或は「法華経」を読まなくてはならぬ、或は念仏を申さなければならぬと、かういふ風に説かれるといふことはまことに道理至極のことであります。誰人でも自分の心がよくないといふことを、自分で知つたならば、どうにかしてその悪るい心をよくしやうと考へることでありませう。悪るいといふことを知らなければ兎も角も巳に悪るいといふことを知つたならば、それを直さうとする心が必ず起きて来るのであります。これは全く道徳の教でありまして、釈迦教に説かれるところも、その大部分はこの道徳の心を離れないものであります。悪るい心を止めなければならぬとして、その悪るい心持は、世間から起る、家があり、妻子があり、いろんなことで苦しみが起るのであるから、家を捨て世を離れて自分の心を悪るくする原因を取つたらいいと斯ういふ心持は起ることでありませう。出家道世といはれるのはこの心持であります。しかし何をやつても思ふやうにいかぬ。さうすれば仏の力により、仏の慈悲にすがつて行くより外には仕方がないとして念仏を申すといふことになるのでありますが、その全体が道徳の心であります。言ひ換へれば癈悪修善の教であります。  智光と頼光  奈良朝時代奈良の元興寺といふお寺に智光と頼光と二人の学生が居りました。智光は学者でありましたが、頼光はさうでなかつたと伝へられて居ります。この二人は一緒に勉強して居つた、部屋も同じことでありました。ところが、頼光は年を取るまで学問もせず、物も言はず、唯ごろごろと寝てばかり居りました。そこで頼光が不幸にして死亡したときに、智光が考へるのに、頼光といふ人間は学問をせず、物も言はず、唯寝てばかり居つて死んだのであるから、今何処に生れて居るであらうかとしきりに心配しました。何しろ自分の友達だから智光は頼光がどんなところに生れて居るだらうと心配して居りました。ところが或る夜の夢に頼光の居る所に行きました。行つて見ると、実に立派な所でありました。これが極樂と聞いた所によく似て居ると思ひました。そこで智光は頼光に向ひてここは何処だと聞きました。さうすると頼光が言ふに、これは極樂である、お前が自分の生れて居るところを知らうと思つたから、知らしてやるのである。しかしお前はここに居るべきものではないから早く帰れといいました。さうすると智光が驚いて、自分は一生の間極樂に往生しやうと願つて居るのである。それに今極樂に来たのに直ぐに帰れとは何事かといいました。さうすると頼光が言ふに、お前は行業してゐないからここに居られない。つまりここに居る資格がないのだから帰れといふのであります。智光は驚いてお前は学問をせず、物も言はず、唯々ぐうぐう寝て居つてさうしてここへ来たのはどういふ訳かと聞くと、頼光がいふやうにいや自分は元興寺で仏教を修行する時初めいろいろなお経を開いて見て、どうかして極樂に生れやうと願つたところが、それは学問で行けることでないといふことがわかつたから、それで物を言はなかつた。唯弥陀の相を思ひ、弥陀の慈悲を思ひ、死んだならば必ず弥陀の国に行くといふことを唯念願して居つたから、それだから寝て居つたのである。お前はいろいろな書物を読んで、さうして義理をよく知つたけれども、いくら智慧が十分にはたらいて居つても心が散漫して居るから駄目である、早く帰れと言つたのであります。智光は驚いて、それならばどうすれば往生が出来るか友達の情で教へてくれと頼むだ。さうすると頼光はさういふことは自分の知つたことでない、若しそれが知りたければ直接に仏様に問へと言つて、頼光は何処からか仏様をつれて来た。さうしてその例が智光の前に出られたから、どうしたら極樂に行くことが出来るかと聞いたら、仏様の曰く、仏の荘厳を念じろ、浄土の荘厳を念じろとあつたので、頼光がそれは凡夫の心ではとても出来ませぬから、どうしたらよいでありませうかと聞いたので、仏は何とも言はないで、自分の右の手を挙げて、右の手の中に小さい極樂を見せられたと、かういふところでその夢が醒めたと、かう「今昔物語」に記載してあるのであります。固よりこれは一とつの夢物語でありますが、しかしながら学間によりて宗教の心があらはれるものでないということを明かに示して居るのであります。  教信沙弥  今一とつの話は、摂津国、島の下の郡に勝尾寺といふお寺がありまして、その寺に勝如といふ上人が居られた。道心が深くして、別に草庵を造つて十年間その庵に居つて六道衆生のために無言の行をして居られた。ところが、或る夜、人が来て尻を叩く、中では無言の行をして居るのだから物を言ふわけに行かぬ、それで咳払ひをしてこの家に人が居るといふことを知らした。さうすると、尻を叩いた人が「私はこれ播磨の国賀古の郡の賀古の驛の北の辺に住みつる沙弥教信なり、年来弥陀の念仏を唱へて極樂に往生せんと願ひつるに、今日極樂に往生す、上人亦某年某月某日極樂に迎へを得給ふべしと、この事を告げんがため来たるなり」と言つて帰つたのであります。勝如上人は大変に驚かれまして、そこで無言の行をやめて弟子の勝鑑に命じて賀古の驛へ行つて見せしめられました。なるほど賀古の驛の北の方に小さい庵があつて、その前に死骸が転がしてある、家の中に一人の婆さんと一人の子供が泣いて居たのであります。勝鑑が驚きてその女を問ふたのに答へて、「彼の死人はこれは我が年来の夫なり、名を沙弥教信といふ、一生の間弥陀の念仏を唱へ、晝夜怠ることなかりき、それ故に里人は皆教信を呼むで阿弥陀丸といひしが、今夜死す、この童は教信の子である」と言ひました。勝鑑がこれを聞いて直ぐ勝尾寺へ帰つて勝如上人に告げた所が、勝如上人は涙を流して「十年の無言の行も教信の念仏に及ばぬ」と言つて、態々教信の所に行つて念仏を唱へられたのであります。かういふ話が書いてあります。くわしいことはわかりませぬが、兎も角も学問によらないで、又概念によらないで、ただ念仏といふものを申して安心の生活をした人であります。その心はまさに弥陀教の念仏であります。しかしながらそれはどういふ意味であるかといふことを詳しくお話することは、これから後に段々と致すのであります。  源氏物語  沙弥教信は僧侶でなく、しかも俗人でなく、僧と俗との中ほどに居る人で、仏道を修めていた人であります。平安朝の頃にはかういふ人が随分澤山居りました。その沙弥の中の教信といふ人のお話を致しました。それから康頼の「寶物集」のお話をしたのでありますが、それは専門家でない平康頼が仏教のことを書いて居るのでありますから、その頃天下に行はれて居つた仏教といふものが、専門家以外にどういふ風に伝つて居つたか、少なくとも民間の人がどういふ風にそれを知つて居つたかといふことを見るために、そのことをお話をいたしたのであります。その外に、平安朝から鎌倉時代の頃にかけて、仏教の専門の書物でないものの中に書いてあるところをも少しばかりお話致さうと思ふのであります。固より多くの書物をつげてこれをお話するのではありませぬ。ただその主なもので多くの人々に知られて居る書物を申上げるのであります。その第一は「源氏物語」でありますが、これは紫式部が作つたもので、紫式部は誰も知つて居る人でありますが、その親も文学の天才であつた人であります。兄の惟規といふものも文才があつたのであります。紫式部自身や文学の天才のあつた人であります。藤原宣孝といふものの妻となつて女の子が二人あつたのでありますが、宣孝が早く死んだので後家さんになつて一生後家さんで通ほしたのであります。上東門院に仕へて居るうちに「源氏物語」といふものを作つたのでありますが、これは隨筆のやうなものでありまして、その中には自分の考を書いた所もあるし、又自分の伝記のやうな所もあるし、その当時の風俗を写したやうなところもあるし、いろいろな方面からこれを見ることが出来ませうが、その夕顔の春に、夕顔の上が死なれて四十九日の仏事を比叡山の法華堂でした。そこで博士に願文を作らして死んだ夕顔の上を極樂に送つて阿弥陀仏に頼むといふ一段があります。その記事に「その人となくて、哀しと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、あみだ仏にゆづり」ゆづりと書いてあります。それから「きこゆるよしあはれげにかき出でたまへれば」斯う書いてあります。夕顔の上が死んで、その死んだ人間を極樂に送つて、さうして阿弥陀仏にゆづるといふのであります。ゆづるといふのは、現在では兎も角も後の世は仏の力によらなければならぬという意味でありませう。それから槿の巻の所に光源氏が女君の許にて「この世の濁をすすぎ給はざらむと、物の心を深く思ぼしたどるにいみじく悲しければ」斯ういう風に書いてありまして、それから「何わざをしてしるべき世界におはすらむ、おとぶらひにまうでて、罪にもかはり聞へばやなどつくづくと思ぼす、かの御ためにとり立てて何わざもしたまはむ日は人とがめ聞えつべし、内にも御心のおにに、思ぼすところやあらむと、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じ奉り給ふ同じ蓮にとこそは」といふ文章で、「なき人をしたふ心にまかせても、かげ見ぬ水の瀬にやまどはむ」といふ歌がそれにつけてあるのであります。その意味は、阿弥陀仏の慈悲の力によりて未来は必ず功徳を得よとかういふのでありませう。さうして一番終の夢の浮橋といふ巻の中には、世の中といふものは夢幻のやうな無用なものであるから、そこで煩悩即菩提、生死即涅槃といふことをよく悟つて仏の国に往生しなければならぬといふやうなことが書いてあるのであります。無論此書は仏教のことを書いた書物でないことは言ふまでもないことでありますが、しかしその中に書いてある所を見ると、念仏を申して未来を助かるやうにといふ思想が明かに認められるのであります。  和泉式部  上東門院に仕へた婦人の中に和泉式部といふ人があるのであります。この人は藤原保昌といふ人の妻で、歌の才に長じた人でありました。その頃有名な播州の書写山に性空といふ高僧が居られました。その性空上人を一條天皇の中宮である上東門院が訪問せられたときに、和泉式部も隨行したところが、性空上人が會はれなかつた。そこで和泉式部が、   暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月  といふ歌を作つた。これは仏教の大切なお経である「法華経」の中に、暗きより暗きに入りて長く仏名を聞かず(従冥人冥永不聞仏名)とあるのを引いて申したのであります。我々が暗いところから暗いところに入つて到底仏の名を聞くことがないといふ意味であります。ところが性空上人がこの歌を見られて出て會はれました。さうして仏の教を説かれましたので、上東門院も、和泉式部もそれを聞いて、大変に喜むで山を下りたといふ話が伝はつて居るのであります。   名にしおはば五つのさはりあるものをうらやましくも上る花かな  比叡山は女人禁制で婦人は登ることが出来ない、それは婦人には五つの障があるために叡山に上ることが出来ないのに、花が勝手に山の上に上つて居る、まことに羨ましいといふ意味でありませう。別に書いたものが伝はつて居るわけではありませぬから、和泉式部がどれ位の程度まで仏教のことを知つて居つたかわかりませぬけれども、しかしながら、和泉式部がよむだ歌は澤山に殘つて居りますから、その歌を読むで見ると大体想像がつくのであります。   いかにせむいかにかすべき世の中はそむけばかなし住めば住みうし   露を見て草葉の上と思ひしは晴まつほどの命なりけり  実に諸行無常の有様を強く言葉にあらはして居るのであります。この罪の身は仏の身にまかして、常住不変の浄土に往生するといふことがねがはしいといふやうなことを考へたのでありませう。   物をのみ思ひの家を出でてこそのどかに法の声もきこゆれ  我々は始終物を思ふのであります。いろいろのことを考へ、いろいろの心配をするのであります。いろいろなはからひをするのであります。この思ひの家を出てはじめてのどかに法といふものが聞えるといふ意味でありませう。  枕草紙  清少納言の「枕草紙」の中には、法華八講のことが書いてあります。これはその当時非常に流行つたものをありまして、つまりお経を読む、それから禅観を修する、それから供養する、それから参籠と言いましてお寺に入る。殊にこの頃多く行つたのは、石山寺、京都の清水寺、さういふところに参籠するのであります。これは前にも申した通ほりに、天台宗の教でその頃実際やつて居つたことは、「法華経」を読むことと、禅観を修することと、真言を修することと、念仏を申すことと、戒律を保つこととをやつて居つたのでありまして、それがその当時の仏教の実際でありました「枕草紙」の中には又、   陀羅尼はあかつき識経は夕ぐれ  と書いてありますが、その意味は真言修法といふものは朝早くやつた方がいい、お経は夕暮読むだ方がいいといふ自分の心持でありませう。それから、   修法は仏眼真言などよみたてまつりたるなまめかしうたふとし   遠くて近いものは極樂   尊くと思はれるものは九條錫杖と念仏廻向  かういふことが列挙しております。これによりて見ましても、死しては極樂に往くことを願ひ、現には修法をなし、念仏を申すことなどが尊く見られて居つたものでありませう。  今様  この頃、今様といふものが流行つて居りました。これは後の今樣とは異なりて、歌ではありますけれども、主に仏さんのことを歌つたのであります。さうしてその中には阿弥陀仏がかなり多かつたのであります。「梁塵秘鈔」といふ書物の中に載せてある今様の中に「阿弥陀仏の誓願ぞ、返す返すも頼もしき、一度御名を称ふれば、仏に成るとぞ説き玉ふ」といふ今樣があります。「弥陀の誓ぞ頼もしき、十悪五逆の人なれど、一度御名を称ふれば、来迎引接疑はず」かういふのもあるのであります。この今様を一種の節で歌つたのであります。後の御詠歌、今の唱歌の類であります。「極樂浄土は一所、勤めなければ程遠し、我等が心の愚にて、近きを遠しと思うなり」かういふのもあります。「源平盛衰記」は少し後に出来た書物でありますけれども、その中にも今様が載せてあるのであります。その今樣は「心のやみの深きをば、燈籠の火こそ照すなれ、弥陀の誓をたのむ身は、照さぬところもなかりけり」といふのであります。それから源平二氏の時代に「往生講式」といふ書物が行はれて居りましたが、その中にも幾つも今様は載つて居るのであります。  想仏恋  想仏変といふのがあります。これは古の催馬榮の踊りであります。その踊りに合せて謡ふのでありますが、その歌は、「我等ひまなし弥陀仏ぞ恋しき、此仏を常には忍ぶ必ず来り蓮に迎へよ、心かけ常には忍ぶ必手来りてはちすに迎へよ」といふ類であります。古の催馬榮の舞踊の調子であります。斯ういふ種類のものが澤山あるのであります。  謡曲  それから謡曲といふものが、これは早いのは鎌倉時代に出来、多くのものは足利時代に出来たのでありますが、その中には仏教に関するものが澤山にあります。その中に柏崎といふ題のものがあります。これは柏崎に居つたある女の夫が死んで、その子が坊さんになつて信州の善光寺に行つた所が、そのお母さんか気狂ひになつて、善光寺に尋ねて行くといふ筋のものであります。  僧「いかに狂女御堂の内陣へは叶ふまじきぞ、急いで出で候へ」  さうすると、  シテ「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極樂とこそ見えたれ」  狂ひたる母はかういふのであります。極めて罪の深い我々は他に手段といふものはない、唯阿弥陀仏の名を称へることによつて極樂に生れることが出来るといふことであります。  僧「是に不思議の物狂ひ、その左樣のことをば誰が教へけるぞ」  気狂ひがかやうなことをいふので、坊さんがまことに不思議な気狂ひだ、さういふことを誰が教へたかと聞くのであります。  シテ「教へは本より弥陀如来の御誓にてましまさずや」  そこで教といふものは弥陀如来の御誓ひであると答へたのであります。  「唯心の浄土と聞きしときは、この善光寺の如来堂の内陣こそは、極樂の九品上生のなるに、女人の参るまじきと、御制戒とはそもされば如来の仰ありけるか、よし人には何ともいへ、声こそ知る、南無阿弥陀仏」  そこで以てシテと地と交代で言葉をいふのであります。  シテ「釈迦は遣り」  地「弥陀は導く一筋に、ここを去ること遠からず、ここは西方極樂の内陣に、いざや參らむ、光明遍照十方の誓ぞしるき、此等の常の燈影たのむ」  お経に書いてあるやうなことが書いてあるのであります。この謡曲は時代が随分後でありまして、法然上人の浄土往生の教が大分民間に広つてから後のことでありませう。  念仏往生  前にも申した通ほりに、この汚い身体と悪るい心とを弥陀にゆづつて、さうして弥陀の誓願によつて弥陀の国に生れることを願ふといふ考へは、平安朝の末より鎌倉時代にかけては広く行はれたものであります。これを纏めて念仏往生といふのであります。一方に於てはこの念仏往生に対して諸行往生といふものが行はれて居つたのであります。天台宗では諸行往生を主としたのでありまして、お経を読むとか、或は真言を修するとか、或は禅観を修するとか、さういふ風なことをして、さうして仏になることが説かれるのであります。前にも申した通ほりに、その中に念仏といふものがあるのでありますけれども、それは矢張り一とつの行であつたのであります。  如法修行  かやうに叡山では諸行往生といふことが説かれて居りますのに、山の下の方では念仏往生といふことが頻りに行はれて居たのでありますが、諸行往生といふことになると、「法修行といふことが必要であります。しかるに如法修行をしやうといふことが、真面目であつたならば、自分のやうなものにはそれが出来ないといふことに気がつくのであります。自分の心を内省して如法修行が覚束ないと知るときに、仏の名を構へて往生すべしといふ言葉はその儘直ちにこれを受取ることが出来るのであります。ただ如法修行といふことをのみ心にとめて法の頻くに修行しやうと努力するものは、その機の如何につきて顕慮せぬのであります。若し機の如何につきて顕慮するときは諸の行を修めなければならないが、しかしそれを修むることが出来ないとわかるのであります。さうすると「極重悪人他の方便無し、唯仏の名を称へることによつて往生することを得るのみ」といふ言葉がその儘に受け取られるのであります。諸行往生といふものはそれを教として自分が努力するのみのことでありますが、念仏往生といふことはそれが全く我々の心に受け取られて「もう他の方便はない、念仏して往生するのみだ」といふことになるのであります。  易行道  そこで再び「寶物集」のことに返るのでありますが、「寶物集」に仏に成る道を十二ほど挙げて、その最後に「弥陀を称念して仏道を成すべし」とありまして、念仏といふことが出て居るのであります。さうしてその説明がしてあるのを見ますと、「経論を習ひ読む功徳も無量無辺にして仏道に至る道なり、然れども師なくしては習ひがたく、本なくては読む事なし」お経を読むことが功徳であるから仏になることが出来るのでありますけれども師匠がなければ習ふことが出来ない、本がなければ読むことが出来ない「念仏は師なしといへども忘るる事なし本なしといへども勤め安く、この度成仏の願を遂げん事叶ひがたきに依りて、先づこの念仏の功徳を以て極樂の衆生と生れて三途の故郷へ帰らずして漸々に功徳増進して、等覚妙覚の位まで至らむ事を思すべきなり」とかう書いてあります。まことにかやうな念仏は易行道であると言はねばなりませぬ。真面目に生死の苦を離れやうとして、一生懸命に努力しやうとして、常にその努力が無効であるといふことに気がついて、最早如何ともすることの出来ぬところへ、仏の名を称へればそれで苦しみの世界から離れることが出来るといふことを聞くならば、一も二もなくそれに行くにきまつて居るのであります。  往生要集  それから「寶物集」には「弥陀を称念して極樂に往生することを話せり、細かには恵心僧都の往生要集に見えたり」と書いてあります。恵心僧都のことは巳に大略お話致しましたが、その「往生要集」は恵心僧都がこの穢ない国を厭ひ離れて極樂を願ひ求めるがよいと言はれた空也上人の言葉にひどく感ぜられて、「厭離穢土、欣求浄土」といふ文句を第一に置いて書かれたのであります。それ故に「往生要集」は穢ない国を厭ひ離れるといふことと、淨らかな国を願ひ求めるといふことと、その兩方を詳しく書いてあるのであります。淨らかな国といふのは仏の国であります。穢ない国といふのは我々の国であります。しかしながら、これは皆我々の心の問題でありますから、国と言つても心のことを言ふのであります。仏の国といふものは要するに、仏の心であります。穢ない国といふのは我々の心であります。浄らかなる国を極樂といひ、穢ない方を地獄といふのであります。  地獄極樂  そこで「往生要集」には地獄の相と極樂の相とが詳細に叙述してあります。無論地獄極樂といふことは、前から人の知つて居つたことであり、固より「往生要集」に初まつたことではありませぬけれども、しかしながら世の中の多くの人が地獄極樂といふことをよく知るに至つたのは、この「往生要集」といふ書物が出来てからのことであります。「往生要集」は漢文で書いたものでありますけれども、しかし仮名で書いたものも古くから行はれて居るのでありまして、それには地獄の絵などが載せてありまして中々恐しいのが澤山あります。さういふやうに「往生要集」が主となりて念仏往生といふことが段々と広まつたのであると言はなければなりませぬ。  横川法語  恵心僧都の「往生要集」はかやうに穢ない国を厭ひ離れて浄らかな国に生れることを願ひ求めるべきことを説かれたので、それは全く念仏往生の説明に外ならぬものでありますが、まことに詳細なものであります。それを極めて簡単に約められたものが法語として行はれて居ります。「横川法語」といふのがそれであります。恵心僧都の伝記によりますと、「此法語は元往生要集の肝要をつづめて愚かなるもののために書あらはし給へるなり」と書いてあるのであります。「往生要集」の要点をば極めて肝要なところをつづめて愚かな人のために書かれたものであります。それでその次に、「しかれば往生要集を披露するに堪へざるひとびとはこの法語を熱覧して玩味すれば、おのづから要集の意趣を得たるに異ならず、往生をねがふ人の安心起行この一紙の法語において必せりつくせり」と書いてあります。つまり「往生要集」の意味が法語であるといふのでありますが、その全文は次の通ほりであります。  「夫一切衆生三悪道をのがれて、人間に生るる事大なるよろこびなり」  三悪道は地獄、鬼、畜生であります。  「身はいやしくとも畜生におとらんや、家まづしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦しみにはくらぶべからず、世のすみうきはいとふたよりなり、人かずならぬ身のいやしきは菩提をねがふしるべなり。このゆゑに人間にうまるることを悦ぶべし。信心あさくとも本願ふかきがゆゑに頼めば必ず往生す。念仏ものうけれども唱ふればさだめて来迎にあづかる、功徳莫大なり、此ゆゑに本願にあふことをよろこぶべし。又妄念はもとより凡夫の地躰なり。妄念の外に別に心なきなり、臨終の時までは一向に妄念の凡夫にてあるべきだとこころえて念仏すれば、来迎にあづかつて蓮臺にのるときこそ、安心をひるがへしてさとりの心とはなれ、妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにて、決定往生うたがひ有べからず。妄念をいとはずして、信心のあさきをなげき、こころざしを深くして常に名號を唱ふべし」  かういふ風に簡単で、しかも明瞭に念仏往生の意味が書いてあるのであります。いくら卑しい身に生れたにしても畜生より上である。又幾ら貧しき生活で餓鬼には勝つて居るのであります。心に思ふことが叶はぬことが澤山ありましても、地獄の苦しみにくらぶれば物の数ではありませぬ。世の中の住みにくいといふことは、それを厭ひはなれる原因になるものであり、人かずならぬ身のいやしきは菩提を願ふしるべとなるのであります。それ故に、我々は人間に生れたといふことをば、よろこぶべきであります。我々の信心はあさくとも本願が深いのでありますから、たのめば必ず往生するのであります。念仏も申しにくいこともあり、なまけることもあるけれども、しかしながら称へれば必ずたすかるのであります。それだから本願にあふことを喜ぶべきであります。又我々の心を見ると実に煩悩具足でありますが、しかしながら妄念は凡夫の地躰であります。妄念の心の外に凡夫の地躰はないのであります。それ故に死ぬるまでは必ず妄念の凡夫でありますから、ただ念仏するより外はありません。念仏して居れば必ず仏の来迎にあづかる、妄念のうちで申す念仏でも、それは蓮が池の濁にしまぬ如くである、それ故に妄念といふものには心配せず、ただ信心のあさいといふことをなげけといはれるのであります。  かやうな法語の文章をそのままに見るときは、我々の心持といふものは実に穢ないもので、さうして始終散乱するのである。さういふ心持を持つて幾ら念仏を申しても、その念仏といふものは役に立たないものであらうといふやうなことを考へないで、妄念は凡夫の地躰で、何時まで経つてもやまないから、念仏すれば必ずたすかるのである。往生決定疑ひないのである。かやうに妄念をいとはず、唯信心が深いか、浅いかということを考へるベきであります。かういふ言葉は、それを口にする人の全体の態度を明かにせねばその真相が窺はれぬものであります。それ故にこの「横川法語」の意味を解釈するには恵心僧都の全体の態度を明かにすることが必要であります。  口称の念仏  恵心僧都の伝記に次のやうな話が載つて居ります。菅原文時というお公卿さんは大変に文学が上手で詩など作ることの名人でありました。しかるに、仏教には至つて心の薄い人であつた。ところが年を取つて病になりました。もう死ぬといふ時になりて、その子の宰相某が、恵心僧都の所に来て、どうか自分の親に仏教を説いて貰ひたいと願つたのであります。恵心僧都はその子心に感じられまして、そこで文時に対面せられました。さうして恵心僧都が言はれるのに、私は横川に持仏堂を建てましたが、その障子の色紙に「観無量壽経」に書いてあるところの九品のことを詩に作つてその壁に貼らうと思います、さうしてそれを貴方に頼まうと思つて居るが、しかし貴方は病気だからとてもその願は叶ふまいと思います、と言はれました。ところが菅原文時が言ふのに、いや病気でも詩は作れませう。詩は作れませうけれども、私は九品といふことを知らない、一体、九品といふことはどういふことを言うのですかと言はれた。そこで恵心僧都は九品の話をせられました。上品、中品、下品、この三品に上、中、下があり、併せて九品となるのでありますが、その下品、下生というのは一生涯の間悪るいことのみをして、一とつとしていいことをしない人が死ぬる前に水車が迎ひに来てさうして地獄から獄卒がその火の車に乗せて追ひ立てて行く、その時に善知識が念仏せよと勧められても、その人はもう苦しいから仏を念ずることが出来ない、その時に善知識即ちゑらい人が、ただ口に南無阿弥陀仏と称へよといふに、十唱称ふる時に地獄の火の車たちまちうせて清涼の風と変じ、即ち極樂の不退地に往生し、ながなが此三界の火宅をはなる」といふのが下品下生であります。恵心僧都がこの話をせられたのを、文時は聞いて、さうすれば、自分等のやうなものも往生は疑ひないことだと言つて、それから念仏を怠りなく申した、さうして往生を遂げられたといふのであります。この説明は善巧方便であるとも考へられるのでありますが、しかしながら、この話によりて恵心僧都の念仏が口称の念仏であつたといふことは明かに認められるのであります。  真率の態度  菅原文時が恵心僧都の言葉だけで動かされたやうに考へるのは一応尤のことでありますが、しかし言葉だけではさう動かされるものではないと思はれるのであります。動かさるべきものが菅原文時の心にあつたことは勿論でありますが、それよりも尚ほ重大であつたのは恵心僧都の真率なる態度であつたと思はれます。恵心僧都は横川からして毎年の正月天皇の行幸のあるのを拝観に出られたのでありますが、妹の安養の尼がそのことをあやしまれて恵心僧都に向ひて言はれるのに「君はきはまりなき道心の人である、何の為に年毎に出て朝観の行幸を見給ふぞ」それに対して恵心僧都が言はれるのに「昔の十戒のちからによりて今十善の位に生れ給へるなつかしさに見奉るのである。又大臣公卿はじめあやしの唐傘もちたるものにいたるまで、前世の戒力によりて上下の差別あるをみるにつけて、過去遠々の流転のことをのみ観せらるるゆゑなり、上の方を見れば天皇、下の方を見れば物の数にも足らぬ唐傘持に至るまで、上下の区別がついて居る。それは過ぎ去つた長い間その人達が流転した相に外ならぬものである。それをながめるために出て行くのであると、かう言はれたと伝記に書いてあるのであります。かういふやうに真率の恵心僧都でありますから、恵心僧都が説かれた念仏往生は謙虚の心を本としてあらはれたもので、全く我を捨てて如来に帰命する心であつたことが思はれます。  念仏の拡布  かやうに、念仏が平安朝時代から段々と広く民間に行はれるやうになつたのは、全く仏教といふものが漸次に宗教の性質を明かにするやうになつたためでありませう。固より仏教にはいろいろの論説がありますが、しかしながらその心の状態が念仏といふところまで来なくては宗教とはならぬのであります。それでその当時の学者が仏教につきていろいろの説明をなし、又これに関する書物も澤山ありまして、種々なる解釈はしてあつたのでありますけれども、それを銘々の心持の中に取込んでしまつたといふ場合には、何時でも念仏でなくてはならぬのでありますから、さういふことからして、念仏といふものが仏教專門家の手を離れて、段々と民間に拡がつたのでありませう。  專修念仏  平安朝時代の末から源平二氏の時代にかけて戦乱がつづきたる頃、法然上人が出られて専門的に念仏といふことを説かれたのであります。この法然上人の念仏は専修念仏と申すのであります。さうしてその専修念仏がどういふことであるかということを、これからお話をいたすのでありますが、それも念仏の教学上の説明をするのではありません。専修念仏といふものが、どういふ心持であらはれるものであるかといふことを、くわしくお話を致さうと思うのであります。  法然上人  法然上人は美作の国の津山に近い田舎に生れた人でありまして、今でもそこに誕生寺といふお寺がありますが、その親に当る人がそこの土地の役人と喧嘩をして殺害されました。死ぬる時に復讐してはいかぬ、こちらが復讐すれば、又先方から復讐せられるのであるから、復讐することを止めて、出家をして菩提を弔つてくれといふやうなことを遺言して死なれた。そこでお寺に入つて修行されたのでありました。ところが非常に偉かつたので田舎のお寺では持て余して、まだ十四、五の頃に京都に赴むき、比叡山に登つて天台宗を学ばれたのであります。しかるに出離の志が深かつたといふことが伝記に書いてありまして、天台宗の学問をして、いろいろなことを知つたけれども、どうしても宗教の心持が起きて来ないので、そこで又、勉学の方針をかへて、真言のことも研究し、華厳、法華、三論すべての仏教の学問を修められたといふことであります。  戒定慧  法然上人はかやうに仏教の学問を深く修めて、その学問は上達しましたけれども、出離ということは出来なかつたのであります。このことにつきて上人の伝記に次のやうに記されて居ります。或る時法然上人が言はれるのに、自分は出離の志が深かつたから、そこでもろもろの教法を信じ、もろもろの行業を修めた。そこで考へて見るのに、仏教といふものも、所詮、戒定慧の三学を出ることはないと申された。戒というのは一口に言へば道徳であります。道徳堅固に身を修めることであります。定といふのは精神の散乱を鎮めるのであります。慧といふのは智慧を磨いてものの道理を明かに知ることをつとめるのであります。結局、仏教といふものはこの戒定慧の三学を修めて行くのでありますが、これには小乗の戒定慧と、大乗の戒定慧、それから顕教の戒定慧と密教の戒定慧とがあると法然上人は言つて居られるのであります。小乗であらうが、大乗であらうが、顕に説く教であらうが、顕に説かない教であらうが、皆戒定慧の三学に外ならぬものである。さうしてこれは皆釈尊の説かれることがさうでありますから、釈尊の説かれた教を指して仏教とするなら、仏教は戒定慧の三学を出るわけは無いのであります。  如法と応機  釈尊の説かれたる法を見れば、此の如くに戒定慧の三つであります。しかしながら、我々の機に応じて始めて我我の宗教となるものでありますから、機を知るといふことが第一肝要であります。法然上人は「わがこの身は戒行にをいて一戒をもたもたず、禅定にをいて一もこれをえず」と告白して居られるのであります。自分は戒定慧の戒も定も一つも出来ないと自身の機をなげいて居られるのであります。そこで法然上人は「人師釈して戸籍淨ならざれば三味現前せずといへり、又凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、たとへば猿猴の枝につたふがごとし、まことに散乱して動じやすく、一心しづまりがたし、無漏の正智なにによりてかおこらんや」と自白して居られるのであります。まことに我々の心が散乱しやすきことは猿が木の枝を飛び渡るやうに、動じ易い道徳も堅固には修められないのであります。さういふやうな心の状態にして、どうして智慧を磨くことが出来ませう。そこで法然上人は「若無漏の智剣なくば、いかでか、悪業煩悩のきづなをたたんや。悪業煩悩のきずなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を解脱することを得んや。かなしきかなかなしきかないかがせん」と痛歎せられたのであります。「ここに我等ごときは、すでに戒定慧の三学の器にあらず、この三学のほかに我が心に相応する法門ありや、我身に堪えたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、諸の学者にとふらひしにおしふるに人もなく、しめすに輩もなし」と、法然上人が熱心なる要求に促がされて、その機に応ずるの道をたづねられたのは当然のことであります。しかるに、当時の学者は何れも、法然上人が要求せらるるところのものを与ふることをしなかつたのであります。  專念仏名  法然上人は、「なげきなげき経蔵に入り」と言つて居られますが、問ふてもそれに答へてはくれないし、考へても判ることではないから、そこで仕方なく経蔵の中に入つてかなしみ、聖教を読むだと言はれるのであります。如法に見れば、仏教は戒定慧の三学を出ない。戒律を保ち、精神を鎮静し、さうして智慧を磨くといふこと以外には仏教は何物もないのでありますが、それは自分の機に応じないから、どうしたらよいかと学者に聞いたが、一向それが判らぬ。しかも出離の志が深かつたので、巳むを得ず自分でいろいろの経を読むで見られたのである。さうすると、善導大師の「観無量壽経を講釈した書物の中に、「一心専念弥陀名號行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順被仏願故」の文句が見つかつたのであります。一心に専ら弥陀の名號を念じ、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故にと、斯ういふ言葉を見出されたのであります。さうして、法然上人は、この言葉、殊に彼の仏順に順ずるが故にといふことがひどく自分の心に当つたのであると言はれたのであります。「文をあふぎもつぱらこのことばをたのみて、念々不捨の称名を修して決定往生の業因に備ふべし、ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり、願彼仏願故の文ふかく魂にそみ、心にとどめたるなり」と自白して居られるのを見ても、これを推察することが出来るのであります。  念仏為本  そこで、法然上人は恵心僧都の「往生要集」を読まれたところが、この書物の中に「往生之業、念仏為本」とあるのを見つけられた。又恵心僧都の「妙行業記」の中にも「往生の業は念仏を先となす」と書いてあるのを見つけられた。そこで法然上人は念仏が仏の本願に順ずるものであることを知り、念仏することによりて出離の目的を達することが出来るといふことがわかつたのであります。  善導と恵心  法然上人は覚超僧都が恵心僧都に問はれたことを挙げて、「念仏といふものは、それは事を行するのか、理を行するのか」との問に関して恵心僧都が「こころ萬境にさへぎる。ここをもて我ただ称名を行ずるなり。往生の業には称名尤も足れり」とあつたのを引いて「我々の心は萬境にさへぎられるから心を信ずるのではない、本願をたのむのである。ただ仏の名を称へるのである」と言ひて、更に「然らば則ち源空は大唐の善導和尚のをしへにしたがひ、本朝の恵心の先徳のすすめにまかせて、称名念仏のすすめ長日六萬遍なり」と言はれたのであります。  称名念仏  かやうにして、法然上人は、念仏を以て出離の志を満足することが出来たのでありますが、それは全く支那の善導大師が教へられた念仏でありました。我国では恵心僧都の「往生要集」に書いてあるところの念仏でありました。この念仏は、それより以前に行はれて居つたところの観念の念仏に反して、称名の念仏であります。仏の相を観じ、仏の功徳を念ずるのではなくして、ただ仏の名を称ふるのであります。固より法然上人より以前には称名念仏を明かに称へた人はなかつたのでありまして、法然上人はこれを一とつの宗派にせられたのであります。勿論他の宗旨でも、称名念仏はして居つたのでありますが、しかし、それを独立の宗派としては居なかつたのであります。  浄土宗  巳に前にも申した通ほりに、概念の念仏といふものは、本当の宗教の意味を有するところのものではありませぬ。本当の宗教の意味を有するところの念仏は称名念仏であります。そこで法然上人はこれを一とつの宗派として、新に浄土宗という宗派を立てられたのであります。ところがそれに大変議論がありまして、何れの宗旨にても念仏をして居るのに更に念仏を以て一とつの宗派を起すのはよくないといふ異論がありました。しかしながら、その異論は法然上人が説かれたる念仏の意味が、当時の人に十分にわからなかつたためであらうと思はれるのであります。観念の念仏といふものが頭に這人つて居る人々が多かつた時代でありますから、念仏といいましても、相と功徳を念じてさうしてその仏に縋らう、その仏のお慈悲を頂かうといふ心持で仏の名を唱へたのであります。法然上人はさういふ念仏でないといふことを、強く唱説せられたのでありました。  ただの念仏  法然上人の念仏は、ただ仏の名を唱へるのであります。ただ仏の名を唱へるといふことは、しかしながら口で言ふ時にはただ仏の名を唱へるのでありますけれども、心の中ではただではないのが多いのであります。何か希望するところがありまして、仏の名を唱へれば幸福が得られるのだらう、その幸福を得たいために仏の名を唱へるものが多かつたのであります。少なくとも死んだ後に地獄に落ちないやうに、極樂の方に行つて安樂の生活がしたいなどといふやうな希望を持つて仏の名を唱へたものが多いのであります。ただ口で唱へて居るといいましても、その内容はただではないのであります。けれども、法然上人は何処までもただの念仏といふことを主張せられたのであります。  明遍僧都  そこで、法然上人がどういふ意味で念仏といふことを言はれたのでありますかといふことを考へるために、明遍僧都に向つて法然上人が言はれたことをここに申し上げませう。明遍僧都は、非常に偉い人でありまして、少納言通憲といふ人のお子さんであります。三十四の年に官を辞めて、さうして仏法に入られたのであります。当時無雙の碩学と評判せられ、四十五の時に僧都の位を授けられやうとしたのでありますけれども、かたく辞して命に応じなかつた。隠遁の志が益々深くして、その年五十四歳の時に京都を退いて高野山に引込まれたのであります。ところが、その頃法然上人の「選擇集」といふ書物が公にせられまして、その中に専修念仏のことが詳しく書かれたのを、明遍僧都が読まれて、実にその議論が偏執であると悪口を言はれたのであります。言うまでもなく、仏教と言へば、戒定慧の三学を修めねばならぬのであるのに、煩悩といふものは取れなくともよい、ただ仏の名を唱ふれば必ず往生する、それは仏の本願であるから往生に間違ひはないといふのは、まことに偏執の説であると駮撃せられたのであります。  重病者  かやうに、明遍僧都は法然上人の意に反対して居られたのでありますが、ある夜の夢に「天王寺の西門に病者のかずもしらずなやみふせるを、一人の聖の鉢にかゆをいれて匙をもちて病人の口もとにいるるありけり、誰人にかあらんといふに、かたはらなる人とこたへて、法然上人なりといふと見て夢さめぬ、僧都おもへらく、われ「選擇集」を偏執の文なりと思ひたるを、いましめらるるゆめなるべし、この上人は機と時を知りたる聖にておはしける」と「法然上人伝」に掲載してあります。明遍僧都が思はるるやう、法然上人といふ人は機を知つた人である。機といふのは法を受ける器でありますから、つまり我々の心であります。時といふことは、釈尊から離れた末代の時のことであります。「病人の様ははじめには柑子、橋、梨子、柿などのたぐひを食すれども、のちにはそれもとどまりぬれば、わづかにおもゆをもちてのどをうるほすばかりに、命をささへたり。かくこの書に一向に念仏をすすめられたる、これにたがはず」とあります。なる程、さう考へて見ると、身体の丈夫なものは固いものを食べられるが、弱つて弱つて既に病の為に臥して居るものはおかゆでなければ駄目であります。戒定慧の三学の出来る人ならばそれでよいとして、さうでないものには、ただ念仏を勧めるといふことはまことに機を知つた聖であります。「五濁濫漫の世には、仏法の利益次第に減ず、このごろはあまりに代くだりて、我等のありさま、たとへば重病のもののごとし」釈尊が死なれて後余程時代を距てて居るから、自分等は重い病気に罹つて居るやうなものである。「三論法相の柑子橋もくはれず、真言止観の梨子柿もくはれねば、念仏三味のおもゆにて生死をいづべきなりけりとて、忽に顕密の諸行をさしをきて、専修念仏の門に入り、その名を空阿弥陀仏とぞ號せられける」とあります。明遍僧都はその夢によりて忽にして自分の考を捨てて、法然上人の言はれるやうな専修念仏に入り、名を空阿弥陀仏と名付けて浄土の教に這入られたのであります。  弥陀の他力  法然上人が天王寺に居られた時に、明遍僧都が善光寺に參詣の途次、大阪を通ほられたので、法然上人に対面して、「このたびいかがして生死をはなれ候べき」と申された。法然上人はそれに対して「南無阿弥陀仏と唱へて往生をとぐるにはしかずとこそ存候へ」と答へられた。そこで明遍僧都は、そのことは私も承知して居るのでありますが、「ただただ念仏のとき心の散乱し、妄念のおこり候をばいかが候べき」と質問せられたのであります。そこで法然上人は「欲界の数地に生をうけるもの、心あに散乱せざらんや、煩悩具足の凡夫、いかでか妄念をとどむべき、その修は源空も力をよび候はず」と申されて、妄念の起ることは是非に及ばず、「心はちりみだれ、妄念はきをひおこるといへども、口に名號をとなへば弥陀の他力に乗じて決定往生すべし」と申された。明遍僧都はそれを聞いて「これうけたまはらんためにまいりて候ひつるなり」とて、明遍僧都は法然上人の許を許されたのであります。初対面であるのに、来た時にも挨拶せず、帰る時にも挨拶せず、世間普通禮儀の言葉を言はれずに帰られたので、そこに居つた弟子の人々は驚嘆したのであります。  生れつきの儘  さて法然上人は、うちに入つてさうして「心をしづめ、妄念おこさずして念仏せんとおもはんは、生れつきの目鼻をとりはなちて念仏せんとおもはんがごとし。あなことごとし」と、斯う言はれたのであります。これを以て見れば、法然上人の念仏といふものは、ただ口に南無阿弥陀仏と唱へることでありまして、それ以上に何も自分のはからひは要らぬのであります。うまれつきの儘にて申す念仏であります。しかしながら、当時までの念仏は、言はば自分の修行の足らぬところを、仏の他力にすがるのでありましたから、決してただの念仏ではなかつたのであります。それでただの念仏と聞いてもなほ不安でありまして、戒律を保ちて申す念仏と然らざる念仏とに功徳の相異があるやうに思はれたのであります。殊に魚を食つて口に魚の臭かして申す念仏でもよいかというやうな質問がありました。さうすると法然上人は魚を食はないで往生するなら、猿が往生する、魚を食つて往生するのなら鴉が往生する。往生することは、魚を食ふ食はぬといふことによらぬものであると教へられたのであります。  教阿弥陀仏  法然上人は、天野の四郎といふ嘗て強盗を働いたものが後に法然上人の弟子になつて、教阿弥陀仏と名乗つたものに関して、念仏のことを話されました。それは或時夜中に法然上人が起きてひそかに仏の名を唱へて居られた。それを隣の室で教阿弥陀仏が聞いて咳拂をしたところが、法然上人はすぐに念仏を止めてしまはれました。教阿弥陀仏は不思議に思つたのでありましたが、その訳を質す機會がなくしてその儘に過して居りました。或る時法然上人が持仏堂に居られましたので教阿弥陀仏はそこに行つて「私は縁がなくして京都に住むことが出来ないことになりましたから、これから相模国河村といふところに私の知合の者が居りますから、その人を頼つて行かうと思ひます。私も年を取つて居りますから最早貴方にお目にかかることも出来ないことと思ひます。私は無智文盲のもので教の深いことは判りませぬ。それを聞いたところが、私には何ものも判らぬ。どうかお情に極めて要点のところを簡単に一言お示しを願ひたい、私はそれをかたみとして相模の国で終ります」と言つたところが法然上人が言はれるには、念仏には深い意味はない、「いかなる智者学生なりとも、宗にあかさざらん義をばいかでかつくりいだしていふべき。ゆめゆめ甚深のあるらんと、ゆかしく思はるべからず」と申されました。それから又「念仏はやすき行なれば申す人はおほけれども、往生するもののすくなきは、決定往生の故実をしらぬゆへなり」と申されて、それから言葉を改めて「去月に又人もなくて御房と源空とただ二人ありしに、夜半ばかりにしのびやかに起居て念仏せしをば御房はきかれけるか」と聞かれました、さうして後「それこそやがて決定往生の念仏よ。処仮とて、かざる心にて申す念仏が往生はせぬなり。決定往生せんとおもはば、かざる心なくしてまことの心にて申すべし。いふがひなきおさなきもの、もしは畜生などにむかひては、かざる心はなけれども朋同行はいふにをよばず、その外つねになれ見る妻子眷属なれども、東西を辨ふる程の者になりぬれば、それがためにかならずかざる心はおこるなり。人の中にすまんには、その心なき凡夫はあるべからず。すべて親きも疎きも、貴きも、賤しきも、人にすぎたる往生のあだはなし。それがためにかざる心をおこして順次の往生をとげざればなり」と申されました。されば飾る心も何もなく、唯仏の名を唱へるのがただの念仏といふものであるといふことを示されたのであります。  かざる心  我々は他人と一処に生活して居りまして、他人に対して自分のことを飾るものであります。さうかと言つて世の中のことでありますから独り居るわけに行きませぬ。しかしながら、かざる心にて申す念仏は駄目である。そこで法然上人は「いかがして人目をかざる心なくしてまことの心にて念仏すべきといふに、つねに人にまじりてしづまる心もなく、かざる心もあらんものは、夜さしふけて見る人もなく、聞く人もなからん時、しのびやかに起居て、百遍にても千遍にても、多少心にまかせて申す念仏のみぞ、かざる心もなければ、仏意に相応して、決定往生はとぐべき。この心を得なば、かならずしも夜にはかぎるべからず、朝にても晝にても暮にても、人のききはばかりなからん所にて、つねにかくのごとく申すべし」と教へられたのであります。  仏のみ知る  法然上人はかやうに、かざる心なくして申す念仏を説明して後に、更にそのことをくわしく説明せられたのであります。「たとへば盗人ありて、人の財を思かけてぬすまんとおもふ心は底にふかけれども、面はさりげなき様にもてなして、かまへてあやしげなる色を、人に見えじとおもはんごとし。そのぬすみ心は人またくしらねばすこしもかざらぬ心なり、決定往生せんとする心も又かくのごとし。人おほくあつまりつらん中にても、念仏申すいろを人に見せずして、心にわするまじきなり。其時の念仏は仏よりほかはたれかこれをしるべき。仏しらせ給はば、往生なんぞ疑はん」と申されました。教阿弥陀仏はそれに対して「決定往生の法門こそ心得候ぬれ。すでにさとりきはめ侍り。この仰せをうけ給はらざらましかば、このたびの往生はあぶなく候はまし、但しこの仰せのごとくにては人のまへにて念珠をくり、口をはたらかす事はあるまじく候やらん」と申し、若し此教を承はらなかつたならば、この度の往生は出来なかつたのでありませう。仰せのごとくこれからはその心を以て念仏申しませうと申したところが、法然上人が言はれるのに、さういふことがよくない、念仏の本意といふものは常念が本であるのである。だから念々相続しなければならぬ。「たとへば世間の人を見るに、おなじ人なれども豪憶あひわかれて、憶病の者になりぬれば身のためくるしかるまじき、聊のいかりをもをぢをそれて逃げかくる。豪のものになりぬれば、命をうしなふべきこはき敵の、しかも逃げかくれなばたすかるべきなれども、すこしもおそれず、ひとしざりもせざるがごとし。これがやうに、真偽の二類あり。地躰いつはり性にして、かざる心あるものは身のために要なき、聊の事をもかならずいつはりかざるなり。もとよりまことの心ありて虚言せぬものは聊の矯飾しては身のためおほきにその咎あるべき事なれども、身の利養をばかへりみず、底にまことありてすこしもかざる心なし。これみな本性にうけてむまれたるところなり。そのまことの心のものの往生せんとおもひて念仏に帰したらんは、いかなる所いかなる人のまへにて申とも、すこしもかざる心あるまじければ、これ真実心の念仏にして決定往生すべきなり」と申されたのであります。  念仏者の用心  それから法然上人は念仏者の用心につきて「念仏の行は行住坐臥をきらはぬ事なれば、ふして申さんとも、居て申さんとも心にまかせ時によるべし、念珠をとり袈裟をかくることも又折により躰にしたがふべし、ただ詮する所で威儀はいかにもあれ、このたびかまへて往生せんとおもひて、まことしく念仏申さんのみぞ大切なる」と説教せられたのであります。教阿弥陀仏は非常に喜むで合掌禮拝してそこを退きまして、さうしてその翌日法連房と申す法然上人のお弟子の所に行つて、暇乞をした時に、昨日法然上人から聞いた決定往生の話をしたのであります。さうすると、その後法蓮房が法然上人に面會して教阿弥陀仏が私の所に来てかやうかやうのことを申しましたが、貴方はどういふことを教阿弥陀仏にお話になりましたかと聞いたのであります。さうすると法然上人が言はれるのに「教阿弥陀仏はもと盗人と聞いて居つたから対機説法をした。ところが暇乞をして帰る時の態度などを見るとあの男は多分本当の念仏といふものが判つたやうである」と申されました。教阿弥陀仏はそれから相模の河村に帰つて長く生きて居りましたが、その命の終る時に同行に向つて「自分の往生は決定して居る。必ず極樂に往生する、それは法然上人の教を信ずるが故である。一同の人々も法然上人に聞いて往生するがよからう」とかう言つて合掌念仏して死んだのであります。同行が後に京都に行つて法然上人にその話をしたところが、「さうであつたらう、自分もあの男が帰る時に多分あの男は念仏の意味が判つたやうに思つたから、多分さうであつたらう」と言はれたといふことであります。  対機説法  明遍僧都のやうな学者に向つて言はれることと、天野の四郎といふ強盗の成り上りものに言はれたこととは大変に異ふやうであります。明遍僧都に言はれたのはただ何事もなく仏名を唱へるのである。天野の四郎に言はれたのは、かざる心をやめて仏名を唱へなくては駄目だといふやうに、対機説法をして居られるのであります。  親の名を呼ぶ  要するに、法然上人の念仏といふものは、その心を綺麗にして申す念仏ではありませぬ。その行を修めて申す念仏でありませぬ。念仏には何等目的を以てゐないのであります。ただ仏の名を唱へるといふ意味の称名念仏であります。しかしながら、さういふ称名念仏が、我々の宗教の心持として最も進むだものでありませう。さういふ心持になりてこそ我々の宗教といふものが、本当の意味をなすものでありませう。法然上人の専修念仏といふのは、ただ口に南無阿弥陀仏と唱へるということである、といふことをば先づお考へを願ひたいと思ふのであります。さうしてただ南無阿弥陀仏を唱へるところに重大な意味があるのであります。それは仏の本願であるからであると言はれるのであります。かやうにただ仏の名を唱へるといふ時に一切の我を捨てて居るのであります。人間の親がその子供に対して念願することはいろいろありませうが、それを引括めて言へば親の名を唱へるやうにといふことであります。  専修念仏の辨明  かやうに、法然上人が専修念仏を唱道せられたその時まで、専ら行はれて居つた念仏は、前に申した通ほりに概念の念仏、すなはち理観の念仏でありました。さういふ理観の念仏が行はれて居つたところに法然上人が、これを排斥してただ念仏して往生すると説かれたのでありますから、その教は多くの人々から反対を受けたのであります。専門家の方からいろいろの議論が起りまして随分やかましくなつたのであります。そこで法然上人も自分の説くところが仏教の所説と相異したのではないといふことを証明せられました。その中で、お弟子の聖覚法印に示されたものは次の通ほりであります。  三途の業  「一人一日中八億四千念、念念中所作皆是三途業。かくの如くにして昨日もいたづらにくれぬ、今日も又むなしくあけぬ。いまいくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。それあしたにひらくる榮花はゆふべの風に散りやすく、夕べにむすぶ命露はあしたの日に消えやすし。これを知らずして、つねにさかえんことを思い、これをさとらずして久しくあらむことを思ふ。しかるあいだ、無常の風ひとたび吹きて、有為の露ながくきえぬれば、これを蛾野にすて、これをとをき山に送る。かばねはつひに苔の下にうづもれ、たましゐは独りたびの空に迷ふ。妻子眷族は家にあれどもともなはず。七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。ただ身にしたがふものは後悔の涙なり。」法然上人は先づ、かやうに説いて、我々の心が真実より離れて居ることを示して居られるのであります。まことに時々刻々、あらはれるところの我々の念は一日に八億四千と数へ上げるほどの澤山のものでありませうが、それが一々、三途の業であります。地獄に堕つる種であります。かういふ業を日に日につくりながら、それをわきまへず、無常の世界に住みながら、常住の心を持ちて、夢のやうに暮して居ることはいかにも浅間しいことであります。  如水の金言  法然上人は、かやうに、我々の心が真実から離れて居る有様を説きたる後に、それを救ふために釈尊が、一代の中にいろいろの法を説かれたことを挙げて、「或は萬法皆空の旨を説き、或は諸法実相の心をあかし、或は悉有仏性の理を談ず、みなこれ経の実語なり、如来の金言なり」と言つて居られるのであります。釈尊以来、仏教として説かれて居るところは、いろいろに別れて、随分深い教になつて居るが、それは皆、釈尊の寶語であると言はれるのであります。しかるに釈尊は「或は機をととのへてこれを説き、或は時をかんがみてこれをおしへたまへり。」これを聞く人の心に応じてこれを説き、又時代に鑑みて、人と時とに適するやうに示されたのであるから「いづれか浅く、いづれか深き、ともに是非をわきまへがたし、かれも教、これも教、互に偏執をいだくことなかれ」と言つて、法然上人は各宗谷派に説くところのものも皆、釈尊の金言であるから、それに深浅の判別をすべきものではないと示して居られるのであります。  如説修行  釈尊は人と時とに応じて、理解の出来るやうに説かれたのであるから、いづれが深い、いづれが浅いといふ訳でなく、いづれも皆、釈尊の金言であるから、その教に説かれて居るやうに、修行すれば皆悉く生死を離れることが出来る筈であります。「説の如く修行せばみなことなく生死を過度すべし、法の如く修行せばともに同じく菩提を証得すべし、修せずしていたづらに是非を論ずること」はよろしくない。何れにして釈尊の実説であるから、その説の通ほりに修行すればさとりを開くことが出来る筈であります。修行せずして彼此と議論することはよろしくないと法然上人は言はれるのであります。  応機  何れにしても釈尊の金言であるから、法の如くに修行すれば必ず悟を開くことが出来る筈であるから、修行せずして善し悪しを論ずることはよろしくない。しかしながら「広く諸教にわたりて義を証せんとおもへば一期のいのちくれやすし。」限りある命を持ち、限りある智慧にて、諸の教にわたりてその教の深い味を探らうとすれば一生涯の間にはどうもすることが出来ません。それ故に、我々は自身の心に応じて、これを修むることの出来る教に從はねばならぬのであります。如法といふことも固より大切でありますが、それは固より応機といふことを考へての後のことであります。いかなる導き教も、それが機に応ぜざるときは全く無益のものであります。かやうにして、法然上人は善導大師の「観無量壽経」の疏によりて一心に弥陀の名號を念ずる、これが仏の本願に順ずるものであるから、その教に從ひて専修念仏を往生の要とするのであると説かれたのであります。  凡夫往生  しかしながら、法然上人より前の高僧は、かやうに念仏の意味を考へて居られなかつたやうでありまして、善導大師流の念仏を高調したものは法然上人が始めでありました。それ故に、それを聞く人にもよくわからないし、又さういふ風な考へをした人も尠なかつたのでありますから、それに対して反対の説があつたのも無理のないことであります。又法然上人がその反対の説をやはらげて自分の言ふことを通ほさうとせられたのも無理のないことでありませう。後に出られた親鸞聖人は、自分の信じて居る通ほりをその儘遠慮會釈もなく唱道して居られるのでありますが、法然上人はその時代の高僧達に遠慮して妥協的の態度を取つて居られるのであります。これは無理のないことであらうと思ふのであります。初めてさういふことを言い出したのでありますから、随分困難なことであつたらうと思ふのであります。元来、法然上人の言はれることは凡夫往生でありますが、仏教では凡夫往生といふことはゆるされなかつたことであります。どうしても学者にならなければいかないのでありました。ところが、後に天台宗になつてから凡夫が往生することが許されるやうになつたのであります。それより以前の他の教では、法相宗にしても、華厳宗にしても、聖者、即ち偉いものとなつてから、往生するのであります。凡夫その儘の往生といふことは決して説かれなかつたのであります。  報土往生  天台宗では凡夫が往生するといふことが説かれました。しかしながら、その往生するところが、仏の国である。浄土であるというのでありまして、しからば何処に往生するかと言へば頻ぶる曖昧なものでありました。法然上人はこれを確定して報士とせられたのであります。報土に往生するのだと、かう決められたのであります。かやうに、天台宗には凡夫が往生するといふことを説かれましたが、その往生の場所が曖味であつたのを、法然上人は、はつきりと往生の場処を報土であると決められたのであります。法然上人の専修念仏がそれより以前のものと相違して居る主要の点はこれであります。  修行を捨つ  それ故に乱想の凡夫、称名の行によつて順次に浄土に往生すべき旨を判じて、念仏すれば出離の行はたやすく進むのであります。この世の中に住むで居る凡夫、それが弥陀の名號を唱ふれば、仏の本願に相応するものであるから、その本願に乗じて確に往生することが出来ると説かれたのであります。それまでの念仏は自分で努めてその力によりて往生するのでありましたが、法然上人は仏の本願により報土に往生することが出来ると言はれるのであります。かういふ考へがきまつたのは、正安五年の頃でありまして、その時法然上人の年は四十三であつたということであります。十五の年に叡山に登られたのでありますから、それから約三十年の間、仏教をば広く研究し、いろいろと修業せられて、その結果、専修念仏の心持になられたのが四十三の時でありまして、此時に余行を捨てて一向に念仏に帰したと書かれてあります。  本願乗托  如法は修行すれば仏になれるといふことは仏教で初めから説かれたことであります。しかしながら、修行して仏になるべきその修行が出来ない。その修行の出来ないものは念仏によつて仏になることが出来る。所が念仏して仏になるといひましても、凡夫ではいかぬ。偉い人でなければいかぬ。それ故に偉いものとなつて、さうして念仏しなくてはいかぬ。それ故に念仏といひますけれども、結局自分の修行の足りないところを念仏で捕ふのであります。  しかるに、法然上人は凡夫がその儘往生する、それは決して修行によるのではない、自分でその心を置いて往生するのではない、凡夫を往生せしめるといふのが仏の本願であるから、その本願に乗托すれば自からにして報土に行くことが出来るのである。そこでただその名號を唱へる、ただ称名の念仏をするのであると、かういふ説でありまして、それより以前の説とは全く違つて居るのであります。  口称三昧  法然上人は年四十三にして専修念仏の考へを起されまして、それからは他の行をやめてただ仏の本願に乗ずるということを一生懸命につとめられたのであります。口称三昧といひまして、念仏を始終口から離さないやうにするところまで進むで居られたのであります。さうして御自身に書かれたものによりますると、さういふところまで法然上人の心境が進むだのは六十六才でありました。四十三の時に専修念仏の心持が開け、それから進むで所謂口称三味に入られたのはそれから二十余年の後でありました。  常持の言  法然上人は此の如く、長い日月の間に、深い宗教的の体驗をせられたのでありますから、平生、言はれた言葉の中に、実に貴重なものが多くあります。その中に「人の命といふものは食事の時にむせて死ぬることもあるから、そこで南無阿弥陀仏とかみて南無阿弥陀仏と飲み入るべきなり」とあります。これは我々の心をば始終、南無阿弥陀仏の中にはたらかすべきであると言はれるのでありませう。何時死ぬるかわからぬ、食事が喉に詰つて死ぬることもあるから、我々は常に南無阿弥陀仏の中に生活せねばならぬのであります。又「南無阿弥陀仏といふことは別したる事には思ふべからず、阿弥陀仏我をたすけたまへといふことばと心得て、心には阿弥陀ほとけたすけたまへとおもひて、口には南無阿弥陀仏ととなふるを三心具足の名號とまふすなり」「我はこれ烏帽子もきざる男なり。十悪の法然房、愚癡の法然房が念仏して往生せんといふなり」かういふやうなことを法然上人は始終、言はれたのであります。固より自分の力を磨いて、自分の考へを纏めて往生しやうとするのではないから、それで智慧を捨て、善悪のはからいを離れ、いかなるものといへども、仏の名を唱へることによつて往生することが出来るといふのであります。  本願を信ず  自分が一生懸命に努力して骨を折れば、その結果は必ず善いといふことは誰にでもわかることでありますが、その反対に何等修行といふものをしなくともよい、ただ仏の本願が強いから凡夫も助かるのであるといふことはわかりませぬ。或る人が法然上人に向つて「上人が申されるところの念仏は皆仏の心にかなつて居るのでありますから大変に功徳がありませうが、自分等のやうなものは仏の心にかなつて居るのではありませぬから、どうも自分等の念仏には値打がないやうに思はれます」と申しました。さうすると法然上人が言はれるのに「さういふことを言ふのは本願といふものを信じないのである。阿弥陀如来の本願の名號といふものは、木こり草かり、菜つみ水くむたぐひごときのものの、内外ともにかけて一文不通なるが、となふれば、必ずむまると信じて真実にねがひて、常に念仏申を最上の機とす。」といはれました。さうして、それから「もし智慧をちて生死をはなるべくば、源空いかでかかの聖道門捨ててこの浄土門趣くべきや、聖道門の修行は智慧をきはめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚癡にかへりて極樂にむまるとしるべし」と申されたといふことであります。  他力の譬  法然上人の教は、かやうにして、全く他力によりて往生するといふことであります。  そこで他力のことにつきていろいろと説明をして居られるのでありますが、或人の質問に答へて「世間の事にも他力は候ぞかし」と言つて、世間の事につきて、他力を示されたことにつきて、次のやうなことがあります。  「足なえ腰ゐたるものの、とをき道を歩まんと思はんに、かなはねば船車に乗りてやすくゆく事これはわがちからにあらず、乗物のちからなれば他力なり、自分の腰がなえて、さうして足がなえて歩くことの出来ないやうなものは遠き道を自分の力では行けぬのだから、それだから船や車で容易く行く、所がそれは自分の力ではない、乗物の力であるから他力である。「あさましき悪世の凡夫の称曲の心にてかまへつくりたるのり物にだも、かかる他力あり、それは世間の他力だが、今この五濁悪世の世に生れて、ただ悪るいことのみをする心で以て、かまへつくりたるその乗物にも矢張他力といふものはある。「まして五劫のあひだ思食さだめたる本願他力の船いかだにのりなば、生死の海をかたらん事うたがひ思食べからず、しかのみならず、やまいをいやす草木くろがねをとる磁石、不思議の用力あり、麝香はかうばしき用あり、犀の角は水をよせぬ力あり、これみな心なき草木、ちかひをおこさぬけだものなれども、もとより不思議の用力はかくのごとくぞ候へ、まして仏法不思議の用力ましまさざらんや。世間の事で他力といふことがあるが、自分のやうな心の浅間しいものが、自分の浅間しい心でつくつて行く乗物にも他力といふものがある、自分の力ではいかぬ、その自分の力でいかぬものを仏の本願の船に乗りて、そして生死の海をわたることは疑ひないことであるから、それには磁石といふものが北を指し、それから草木の中に病を治すものもある、まことに不思議な力である。まして仏法不思議の力といふものは必ずましますものであるといふやうなことを言つて居られるのであります。  法爾の道理  それから法然上人は「法爾の道理といふ事あり。ほのほは空にのぼり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすきものあり、あまき物あり、これらはみな法爾の道理なり」と言つて居られます。煙が高きに上り、水が低きに流れる。果物にすつぱい物もあれば、甘い物もある、斯ういふことは自然の道理であります。「阿弥陀仏の本願は名號をもつて罪悪の衆生みちびかんとちかひ給ひたれば、ただ一向に念仏だにも申せば仏の来迎は法爾の道理にてうたがひなし」そこで自然に請願してつまり自然に從ふて行くといふことが他力に順ずるものであります。元来人間といふものは自然の一とつの分子でありますから、そこでその自然に從つて行けば何にも問題はない筈であります。しかるに、その自然に背くやうなことを始終して居るから、そこで苦しみが起き、問題が起き、いろいろな難儀が現れて来るのであります。そこでその難儀をつくり、苦しみをつくり得手勝手な考へをして居るところにその自分の悪るい心といふものが止めば、つまり自然に従ふのでありますから、自然に從へばその自然に随順して、さうして自然の国に行かれるのであります。  自然に帰る  善導大師が言はれた語に「隨仏逍遙帰自然、自然即是弥陀国」とありますが、仏に従つて逍遙して自然に帰らん、自然はこれ弥陀の国であります。本願に乗托して報土に往生するといふことも畢竟するにかういふ心持であります。  自是他非  元来世の中には善いこともなく、悪るいこともなく、苦しみもなく、樂しみもないのでありませう。それが人間として生活する上に於て、或はそれを苦しみとか、或はこれを樂しみとかに分け、或は善いとか悪るいとかに分けるのでありますが、いつでもそれは自分に都合のよいものをとり、自分に都合の悪るいものを捨てて行かうといふ自是他非の心持が極めて強く出て来るので、それで苦悩といふものが起きるのであります。これが煩悩具足の凡夫の心の常であります。それ故に此の如き凡夫が往生するところの道は、ただ仏の本願に乗托すべきのみであります。さうして仏の本願に乗托する道といふものは、現実の自分の心の相を真正面に見てそこに何等手を出さないことにあるのであります。  煩悩具足  仏の本願はさういふ煩悩具足、罪悪深重のものを助けるといふのでありますから、その煩悩具足、罪悪深重の相をそのままに見たものが仏の本願を知るのであります。煩悩具足、罪悪深重の相をそのまま見て、それにつきて何等のはからひをしないといふのはすなはち自然に随順するのであります。自然に從へばその結果我々は必ず自然に帰る筈であります。かやうにして煩悩具足を自覚するものは必ず報土に趣くべきであります。報土は我々がどうしても行かなくてはならぬところであります。  極樂  普通の人の言ふてゐる極樂といふのは我々が行かうとするところであります。行きたいと願うところであります。それ故に一生懸命修行して行かむと欲するところであります。けれども、それは到底行くことの出来ないものでありませう。ただ自分でさういふいい所を希望してあこがれて居るに過ぎないのでありませう。真実の報土といふものはさういふものでなく、仏の本願に随へば、どうしても行かなければならぬところでありませう。  読誦と念仏  前に天台宗の実際は「法華経」読誦と、真言行と禅観修と菩薩戒と念仏との実行であると申しましたが、しかしながらその念仏は読誦の一法であるものと考へて居られたやうでありました。法然上人の念仏は決して読誦の一法に属するものではなく、何事をも打捨ててただ仏の名を称へるのであります。元来経を読誦するといふことは、これによりて仏の功徳を念じ、仏の慈悲を念ずるのでありまして、その仏といふものは澤山でありますが、念仏にありては、それが阿弥陀仏とか、釈尊とかに限られて居るのであります。しかしながら、それも読誦の一法であるとすれば、その念仏は言ふまでもなく概念の念仏であります。法然上人は断然として、その念仏がただの口称にして観念によるものでないといふことを主張して居られるのでありました。心を観じ法を念ずるといふことは固より容易の業ではありませぬ。まして読誦の一法として念仏するといふことになれば、これを修むることに多大の努力を必要とすることは勿論であります。法然上人の教はもと凡夫が往生するの道を説かれたのでありますから、それが凡夫の行として実際に行はるべき口称の念仏によりて、報土に往生することが出来るのでありまして、まことに凡夫直入の易行道であります。  念仏宗  「愚管鈔」と申す書物に、当時の有樣が記載してありますが、それに拠ると「建永ノ年、法然房トイフ上人アリキ、マヂカク京中ヲスミカニテ、念仏宗ヲ立テ、専修念仏ト號シテ、唯、阿弥陀仏トバカリ申スベキナリ、ソレナラヌコト顕密ノツトメハナセントイフ事ヲ言出シテ不可思議ノ愚擬、無智ノ尼入道ニヨロコバレテ、コノ事ノタダ繁昌ニ世ニ繁昌シテ、ツヨクオコリツツ、ソノ中ニ安樂房トテ、泰経入道ガモトニアリケル侍ノ入道シテ、専修ノ行人トテ、又住蓮トツガイテ、六時禮讃ハ善導和尚ノ行ナリトテ、コレヲタテテ尼ドモニ帰依渇仰セラルルモノ出来ニケリ、ソレラガアマリサヘ言ハヤリテ、コノ行者ニナリヌレバ、女犯ヲ好ムモ、魚鳥ヲ食モ、阿弥陀仏ハ、スコシモ咎メ玉ハズ、一向専修ニ入リテ、念仏バカリヲ信ジツレバ、一定最後ニ迎へ玉フゾト云云」と言つてありますが、いかにも仏教といへば、顕密の二教に渉りて、義理の深遠なるものであると教へられ、それによりて成仏の目的を達せむには厳粛の修行を要するものであると信じて居つた当時の人々の耳目に、法然上人の念仏宗が異樣に感ぜられたことも当然でありますが、一方には当時、源平の戦がすみて、さしも栄華を窮めた平家の一族が、脆くも西海の藻屑と消えた、世の有為転変の有様を、眼のあたりこれを目撃し、浮世の果敢なき相に、その心想が乱れたものが多かつたのでありますから、これ等の人々が、いかに罪悪の深いものでも、ただ仏の名を称へることによりて報土へ往生することが出来ると聞いて、多くの人々が、この凡夫直入の道へ入つたことは想像するに難くないことでありませう。  その余弊  しかしながら、法然上人の念仏は、真実の意味にて、これを理解することが、当時の人々には、困難であつたと見えまして、これを尊奉する人々の間にも甚しくこれを誤伝した人々も多かつたやうであります。從つてその余弊も尠なくなかつたやうであります。「元亨釈書」と申す書物の中に、そのことに就きて、次のやうな記事が載つて居ります。  「元暦文治の間、源空法師、専念の宗を建つ、遺派末流、或は曲調を資し、抑揚頓挫、流暢哀婉、人の性を感ぜしめ、人の心を喜ばしむ、士女榮で聞き、雜沓駢円、愚化の一端たるべし、然れど流俗ますます甚しく、動もすれば必戯を衒ふ、云云」(原漢文)  この記事に拠りて見ますと、当時念仏宗の僧侶の中には、一種美妙の調子を以て、念仏禮讃の行をなし、その音声流暢哀婉にして、抑揚あり、頓挫あり、聞く人をして感歎せしめ、隨喜せしめ、聴衆堂に満ちて雑香を窮めたことが窺はれるのであります。これも愚味の人を教化する一法でありませうが、しかしその流俗ますます甚しくなりて、それが伎戯を衒ふやうなことがあつたと伝へられて居ります。そこで「元亨釈書」にも  「酒宴の末席に交はり、盃觴の余歴を受け、替史信伎と、膝を促して互に唱ふ、云云」(原漢文)  と見えて居ります。これに拠りますと、念仏は宴會の席でも行はれるやうになり、臀人や芸者の類と膝を交へて共に酒席に侍りて、その娯樂を助けたものと見えます。まことに念仏宗の盛に行はれたる時の余弊と申すべきものであります。  住蓮安樂  住蓮と安樂との二僧は法然上人の弟子でありましたが、鹿ヶ谷にて別時念仏の業を始め、盛に念仏宗を宣伝したのであります。そこで多くの人々がそれに帰依して、洛中洛外の老若男女、前を争ふて鹿ヶ谷に參詣したのでありますが、後鳥羽上皇の寵姫に鈴虫、松虫の局と申すものが、はからずそこに參りあはせて、渇仰の思ひ深く、信心肝に銘じて、忽ち出家して尼となつたのであります。それでなくとも、法然上人の念仏は叡山や奈良の僧侶達から攻撃せられて居つたのでありますが、かかるところへ、後鳥羽上皇の寵姫が上皇のお許しを待たずして出家したやうなことが、原因となりまして、念仏宗が興つたために老少のものが悉く家業を捨てるといふことが表面の制止の條件となりて、遂に念仏は停止せらるるに至りました。さうして、住蓮・安樂の二僧は、念仏宗を弘通せむがために諸仏諾教を謗るといふ罪科によりて死刑に処せられたといふことであります。  三心  すべて、宗教の中に、新しい一派が興るときには、舊宗派との間に衝突があらはれてその犠牲となつて身命を?つのも少なくないのでありますが、法然上人の念仏宗にも、その始め、多大の法難がありました。それがために法然上人を始め、数人の弟子が流刑に処せられるやうなこともありました。しかしながら、これは要するに外形のことでありまして、宗派の真の発展の上から見ればむしろ内心の問題が重要のものであります。内心の問題と申すのは、法然上人の念仏宗の真実の意味が、十分によく当時の人々に、理解せられたものであつたかどうかといふことであります。法然上人の説かれたところを聴聞しますと、己に前にも申したやうにただの念仏でありました。「念仏には甚深の義といふことなし、ただ念仏申すものは必ず往生するぞと知るべきなり」でありました。それはまことに簡単なことでありましたから、或はその行はいかやうでもただ念仏すれば往生が出来ると考へたものもありましたらう。或は又、さういふ簡単のことで果して往生が出来るものであらうかと疑を起したものもありましたらう。法然上人は、仏法に「道と浄土との二門を別ち、聖道門に入ることは我々に取りて容易でない、我々はその浄土門に入るべきであるとして、さて、浄土門につきて行ずべき様を説いて「往生を願はむ人は至誠心・深心・廻向発願心の三心を具足せねばならぬ」といふことを強く唱道せられたのであります。  至誠心  法然上人がこの三心につきての説明は、大略次の通ほりであります。浄土に往生しやつと思ふものは安心起行と申して、心と行と相応することを要するのでありまして、その心といふは「観無量壽経」に説いてあるところの無私の心であります。すなはち一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心、との三種の心であります。法然上人は善導大師の説に從つて、この三種の心を説明して、至誠心とは真実の心であると言つて居られるのであります。一切衆生の身・口・意の三業に修するところの解行が必ず真実の心の中でせられねばならぬと言はれるのであります。身にてなし、口にて言い、意にて欲すること、皆真実の心を具へねばならぬと言はれるのであります。「外には賢善精進の相を現じ、内には虚仮をいただくことを得ざれ、内外明聞をえらばす、真実をもちゐよ」と言はれるのであります。これを要するに、内が空しくして、外をかざる心がありてはならぬ。必ず内に真実の心を起して、外に賢善精進の相をあらはすことが肝要であると説かれるのであります。  虚仮の人  法然上人は更に至誠心につきて四種の不同を挙げて説かれました。一には外相は貴きやうにして、内心は貴からぬ人、二には外相も内心も共に貴からぬ人、三には外相は貴きやうには見えずして、内心の貴き人、四には内心と外相と共に貴き人、この四種の不同がある中に、始めの二種の人は至誠心の欠げたる人で、これを虚仮の人と名づける。後の二種の人は至誠心を具へたる人で、これを真実の行者と名づけると言つて居られるのであります。それ故に、世を厭ふといふことも、極樂に往生することを願ふことも、人目ばかりを思ふことなく、真実の心を起すことが第一であると言はれるのであります。我も人も、果敢なき夢の世に執著する心が深く、名聞利養に離るることが難く、人目をのみ憚りて、仏の誓願をたのみて、往生を願ふことをせぬのは全く至誠心が欠けてゐるのであります。しかしながら、かやうに申せばとて、ひとへに人目はいかにてもよろしい、人の譏をも顕みぬのが善いというのではないと、法然上人は説明して、「詮ずるところは、ただ内心にまことの心を起して外相をば、よくもあしくも、とてもかくてもあるべきかとおぼえ候なり」と言つてをられるのであります。  深心  三心の第二は深心であります。法然上人は善導大師の説に從ひて、深心は深く信ずる心なりと説明して、それを二種に別ちて居られるのであります。一には決定して、深く我身は煩悩具足せる罪悪生死の凡夫なり、善根薄少にして億劫よりこのかた、常に流転して、出離の縁なしと信ずべし。二には深く彼の阿弥陀仏の四十八願をもて衆生を摂取したまふ、すなはち名號を称ふるものは、彼の仏の願に乗じて定めて往生することを得ると信じて、一念も疑ふことなきが故に深心と名づく、とあるところの善導大師の説明を挙げて、その心は、始に我身のほどを信じ、後には仏の願を信ずるものでありまして、我等はいまだ煩悩をも断ぜず、罪業をもつくる凡夫であるけれども、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、決定して往生することを得るのであると言つて居られるのであります。「ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず、心に往生せむとおもひて、口に南無阿弥陀仏と称へては声につきて決定往生の思いをなすべし。その決定心によりてすなはち往生の業は定まるなり」であります。それ故に「深く信ずる心と申すは、南無阿弥陀仏と申せば、その仏の誓にて、いかなる身をきらはず、一定迎へ給ふぞと、深くたのみて、いかなるとがをもかへりみず、疑ふ心のすこしもなきを申候なり」であります。  廻向発願心  三心の第三は廻向発願心であります。どういふことであるかと申すに、善導大師の説明に拠りますれば、過去及び今生の身・口・意の三業に修するところの世、出世の善根及び、他の一切の凡聖の身・口・意の三業に修するところの世、出世の善根を随喜して、この自他修するところの善根を以て、悉く皆、真実の深心の中に廻向して、彼国に生れむと願ずるのであります。  先づ我身につきて、前の世及び今生に、身にも口にも造りたらむ功徳を、皆悉く極樂に廻向して往生を願ふのであります。次には我身の事にても、人の事にても、この世の果報をも祈り、又同じ後の世の事なりとも、極樂ならぬ絵の浄土に廻向することなくして、一向に極樂に往生せむと廻向すべきであります。しかしながら、一切の善を皆、極樂に廻向すべしと申せばとて、念仏一門に帰して一向に念仏を申すものが、ことさらに余の功徳を造り集めてこれを廻向せよといふのではありませぬ。  起行  法然上人はかやうに、三心の事を説明して後に、この三心が具足して必ず往生することが出来るので、若しその一心でも欠けた場合には往生することが出来ぬとあるから、往生を願ふ人はこの三心を具足せねばならぬと説いて居られるのであります。それから起行といふのは、この三心を具足して一向に念仏を申すことであります。阿弥陀仏の本願にも、釈尊の説教にも、善導大師の解釈にも、諸師の所説にも、極樂に生れるための行には念仏を以て本体とするものであると言はれるのであります。かやうにして、法然上人がすすめられるところの念仏は、三心具足の念仏でありました。  三縁  かやうにして、往生を願ふ人が安心起行によりて、その所願を達することが出来るのは、畢竟、親縁と近縁と増上縁との三つの縁によるものでありまして、若しこの三縁がなかつたならば、往生の目的を達することは出来ないことでありませう。第一の親縁といふのは、早く申せば、仏の心が我々凡夫の心と同じやうになるのであります。そこで、我々が仏の名を称ふれば仏はそれを聞きたまふ。我々が仏を禮拝すれば仏はそれを見たまふ。又我々が念ずれば仏はそれを知りたまふ。かやうに、仏の心と、我々凡夫の心との間に、隔りがなくなるのであります。この親縁によりて三心具足の念仏を称ふるものは必ず摂取せられると説かれるのであります。第二の近縁といふは、我々衆生の心が仏の心と同じやうになるのみでなく、我々凡夫が、仏を見やうと思へば仏を見ることが出来る、すなはち報仏を見ることが出来るのであります。第三の増上縁といふのは、親縁によりて我々の心が仏の心と同じやうになり、それによりて念仏が行ぜられるのであります。又近縁によりて仏のすがたを見ることが出来るのであります。さうすると、それによりて我々の安心起行の力が増長するものであります。それ故にこれを増長縁といふのであります。この三縁によりて、三心具足の念仏を申すものは、必ず仏に帰命する心を起すものであります。  正定業  右に申すやうな次第で「三心具足する故に帰命の心起る。これを南無といひ、三縁そなはれば無碍光の体、我等が罪悪の身に、へだつるところなき功徳を阿弥陀仏といふなり。故に南無阿弥陀仏と称する、六字の名號に一代の仏教の本意も悉くおさまり、十方三世の化仏も、しかしながら、皆備はるが故に、念念不拾者、是名正定之業、順彼仏願故といはれて、南無阿弥陀仏の外に又、徐事なきなり」と説かれて居るのであります。まことに三心具足して申すところの念仏は、仏の本願に順ずるものでありますから、正しく往生が決定するところの業であります。  三心の沙汰  しかるに、法然上人はある場合には三心の沙汰は詮なしと申されて居るのであります。それは「名號を称ふれば必ず生ずるとばかり、まめやかにたのみ、称ふれば、その人の心におのづから三心もそなはりて居るのであるが、それに対して、三心とてことごとしく申しなせば却て信心をみだることがあると申されるのであります。法然上人は又、ある場合には三心のことをくはしく説いて居られるのであります。それは「もし日本は疑ひの心もありて三心具足せぬ人も、聖教を学すれば道理に折れて三心の起ることもあれば、さやうならむ人のためには三心の様を知らむも大切なるべき」ことでありませう。かういふうな次第で、法然上人の念仏は、どこまでも三心具足の念仏でありますが、我を忘れてただ一向に名號を称ふる場合には、その中に、至誠心も、深心も、廻向発願心も、皆そなはつて居るのでありますから、改めて三心を沙汰するには及ばぬと言はれるのであります。  法蓮房  法然上人の念仏はかくの如きものでありましたが、当時それを十分に理解するものが少なく、或は却てそれを誤解するものが多かつたなどで、それが問題となり、遂に念仏停止の令が出で、法然上人は流罪の刑に処せられることになつたのであります。その時、弟子の法蓮房と申すものが、法然上人に申し上ぐるやう「上人の流罪は一向専修念仏興行の故であると申すことでありますが、上人は老過の御身でありますから、遠方においでにならば御命が安全でありますまい。私共は恩顔を拝し御教を受けることが出来ませぬ。又師匠が流刑の罪に臥したまはば、殘り留まるところの門弟は面目がありませぬ。その上、勅命でありますから、一向専修念仏の興行を止むべきよしを奏上して、内々御化導なされては如何でござりまするか、一座の門弟は多くかういふ考へを持つて居ります」と申し上げたところが、法然上人の申されるには、流刑更にうらみとすべからず。その故は、齢すでに八旬にせまりぬ。たとひ師弟同じ都に住すとも、娑婆の離別近きにあるべし。たとひ山海をへだつとも、淨土の再會何ぞ疑はむ。又厭ふと雖も存するは人の身なり。惜むと雖も死するは人の命なり。何ぞ必ずしも処によらむや、しかのみならず、念仏の興行、洛陽にして年久し。辺部におもむきて田夫野人をすすめむこと、年来の本意なり」と言つて、その言に從はれなかつたのであります。  西阿弥陀仏  法然上人は、かやうに弟子の一部の人が、専修念仏の停止を勧告したにも拘らず「源空が興ずる浄土の法門は、濁世末代の衆生の決定出離の要道なるが故に、常随守護の神祇冥道、定めて無道の障難をとがめたまはむか、命あらむ衆、因果の空しからざることを思ひ合すべし」と言はれ、又「此法の弘通は人はとどめむとすとも、法は更にとどまるべからず、諸仏済度の誓ひ深く、冥衆護持の約、ねんごろなり、しかれば何ぞ世間の機嫌をはばかりて、経釈の素意をかくすべきやと、断然として、その主張を強くし、一人の弟子に向つて、専修念仏の義を述べたまふたのであります。そこで御弟子の西阿弥陀仏と申すものが推参して、「かやうなことはおやめになつた方がよろしいと存じまする。をのをの御返事を申し給ふべからず」と申し上げたところが、法然上人はそれに対して「汝は経釈の文を見ぬかと仰せられました。西阿弥陀仏が答へて「経釈の父はまことにさうでありますが、それでは世間の物議を醸しますから」と申し上げたところが、法然上人は断乎として「我れたとひ死刑に行はるとも、この事いはずばあるべからず」と申されまして、至誠の色がその顔にあらはれたので、これを見たものは皆感涙にむせむだといふことであります。  念仏往生の現証  法然上人が専修念仏を信ぜられることは此の如く堅固で、全体が妥協的の人格であつたやうに見えながら、念仏往生の一義につきては、何人の言ふことにもその志をまげず、たとひ死刑に処せられてもかまはぬといふ意気でありました。そこで到頭、流罪に行はれて、讃岐へと赴かせたまふ途次、播磨の国、高砂の浦に著かれたときに、多くの人が結縁した中に、七十あまりの老翁と、六十あまりの老女の夫婦が上人に謁して申すやう「私どもはこの浦のあま人で、幼きときより漁を業とし、朝夕にいろくづの命をたちて、世を渡るはかりごととして居りました。ものの命を殺すものは地獄に落ちて苦しまねばなりませぬ。いかがしてこれを免れることが出来ませうか。たすけたまへ」と手を合せて泣いたのであります。法然上人はこれをあはれみたまひて「汝が如くなるものも、南無阿弥陀仏と称ふれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生することが出来る」と翁に教へたまつたので二人ともに涙にむせびて喜むだのであります。さうして、それから後は、晝は浦に出でて、手に漁りすることは止まなかつたが、口には名號をとなへ、夜は家にかへりて二人とも声をあげて終夜念仏したのでありますが、それが終に臨終正念にして往生を遂げたといふことを聞きたまひて、法然上人は「機類萬品なれども、念仏すれば往生する現証なりと申された」といふことであります。  これに類似した例は、法然上人の伝記の中に、なほ澤山に挙げてありまして、まことに、法然上人の浄土の法門が、それまで聖道として説かれたる仏教の法門とは異なりて、いかなる愚癡のものも、又罪悪深重のものも、ただ念仏の行によりて報土に往生することが出来ることを示されたのでありました。  対機説法  粟津義士といふ人の書かれた書物の中に、釈尊のお弟子の中で、一番偉かつたと言はれている舎利弗尊者のことが書いてありますが、それは次のやうな話であります。舍利弗尊者の弟子に、一人は鍛冶屋職業とし、一人は洗濯屋をして居る男がありました。そこで舍利弗尊者が洗濯屋の男には数息観を致へました。数息観といふのは出入りの息の数を数へて、それでもつて心をしづめる教であります。それから鍛冶屋の男には不淨観をすすめました。それは人間の身体といふものはまことに穢いものである。この世の中といふものはまことに濁つてあるものである、さういふことを観念する。さうすると正しい道理が明かになる。さういふことを教へたのであります。ところが三年経つても五年すぎても、兩方とも一向にその効果が現れなかつたのであります。そこで舎利弗噂者が或る時釈尊に、どういふわけでありませうと問ひました。ところが、釈尊がいはれるのに、それはお前の教へ方が反対である。鍛冶屋に数息観を教へ、洗濯屋に不浄観を教へなくてはいけない。鍛冶屋といふものは平生吹子の息の加減に慣れておるから、息を敷へるといふことは大変に為し易い。また洗濯屋は元来が汚れ物をきれいにする商賣であるから、不淨観を修するといふことは大変に樂に出来ることである。それをお前は反対に教へたからその効果が挙らないのである。」といふやうな意味のことを言はれたのであります。そこで、舍利仏噂者はなるほどさうだといふことに気が附いて、その通ほりにしたところが、早く成就したという話が載せてあるのであります。  十人十色  この洗濯屋と鍛冶屋との話のやうに、人間はすべてさうでありますが、その人々によつて物の考へ方が違ふことは十人十色であります。若し違つた考へ方のものであれば、幾ら聴いてもそれが自分の心の中に入らないのは当然であります。その考へが西の方へむいて居るところへ、東の方のことをいはれても、それは一向に頭に入らないのであります。法然上人が浄土の法門を説かれたときにも極樂に往生しやうと望むならば「ただ念仏を申せ」と言はれたのでありますから、それを聞いて極樂に參らむことを望むものは口に南無阿弥陀仏を唱へたのであります。そこで皆口には同じやうに念仏を唱へ、心には浄土に參らむことを望む、それには変りはありませんけれども、心中の領解といふものは、決して同じことではなかつたのであります。教の趣は一とつでありますけれども、これを自分の心に取り入れるといふことが違つたために、法然上人の教も同じ浄土宗の人々のためにいろいろに理解せられたのであります。たとへば成覚房幸西は一念義を立て、長樂寺の隆寛は多念義を主張するといふ風でありました。  隨類得解  仏教の書物の中に「仏は一言をもつて演説されたけれども、衆生は類に随ひて解を得」ということが書いてあります。釈尊が説かれるところはただ一つの言葉であるけれども、しかしながら、それを聴くものは自分の類に随ひ、自分の心にこれを聴くのでありますから、自分の心持に相当するやうにこれを受け取るのであります。そこで法然上人が説かれました浄土の法門も、上人が死なれてから後に、その弟子達によつて色々の流儀に別れたのであります。  信と行  前にも申しましたやうに、法然上人の教はただ念仏して極樂に往生するといふことでありますが、そのことは「選擇本願念仏集」の中にくはしく説かれて居るのであります。その説明は固よりくはしいものでありますが、これをつづめて申せば信と行とに帰著するのでありまして、信と申すのは、深く仏の本願を信ずる、罪の深い愚なものが、仏の本願によつて必ず助かるといふことを信ずるのであります。さうして、その本願を信ずるものが往生することを得るのでありますから、本願に從ひて念仏を申さなくてはなりませぬ。それが行であります。法然上人はこの二つのものを強く説かれたのであります。さうして、信を強くいへば邪見に陥る、行を強くいへば自力になるから、そこに深く注意せねばならぬと戒められたのであります。  念仏の説明  法然上人は当時その専修念仏につきて反対する人が多かつたので、それに対して熱心に説明して居られるのでありますが、それに拠りますと、仏の教には聖道門と浄土門とがある。聖道門といふのはこの世界で煩悩を断つて菩提を得るという法門である。浄土の方はこの世界では煩悩を断つことが出来ないから浄土に生れて煩悩を断つのである。その聖道門の修行はわれわれには出来ないから、そこで浄土に生れて煩悩を断つべきである。さうしてその浄土門の教といふのは、「観無量壽経」に説かれてあるやうに、専ら念仏を修めるので、それには三心を具足して念仏を申さなくてはならない。三心といふのは、巳に前にくはしく申したやうに、至誠心と、それから深心、それから廻向発願心と、この三つの心を具へて居らなければならぬ。心が穢くして、それで念仏を申したところで仏の国に生れる種子にはならない。心を誠にし、また仏の本願を深く信じて申す念仏でなければならぬ。また仏の国に生れやうと思つて願はなくてはならない。その一とつが欠けても駄目である。この三心を具足して申す念仏によりて必ず往生することが出来ると、かう説いて居られるのであります。  勸信誠疑  しかしながら、三心具足といふことも、必ずしも、至誠心と深心と廻向発願心とを具足して居らねばならぬと八釜敷く言はなくてもよろしい。なぜかといふと、専ら心に仏の本願を信じて念仏を申して往生すると、少しも疑ひの心が無ければ、それがすなはち至誠心であり、廻向発願心であり、三心具足するものであるから、別に三心具足をやかましく言ふ必要はない。しかしながら、疑が深くして本願の念仏を信ぜざるものには三心具足ということを説明をしなければならぬと法然上人は申して居られるのであります。この三心のことは、法然上人の「選擇本願念仏集」の中に詳細に説いてありますが、その要旨とするところは「本願を信ずる」といふことを勧め、「本願を疑ふ」といふことを誡められたものであります。  定善と散善  本願を凝ふて信ぜざるものに対しては、しかしながら十分にこれを説明する必要があるから、法然上人は「観無量壽経」に説いてあるところの定善と散善とに就て、説明して居られるのであります。定善といふのは息慮凝心と申して心をしづめることであります。散善は廢悪修善と申して心を浄くすることであります。至誠心、深心廻向発願心の三心を具足するといふことも実際問題となれば、息慮凝心と廢悪修善といふことに帰者するのであります。人間といふものは、その心が常に散乱して取りとめのないものであるから、その散乱の心を堅く留めてしまひ、さうして悪るいことをやめて善いことをするやうに心がけねばなりませぬ。ただ仏の名を称へたところがそれで浄土に往生することが出来るものではありませぬから、そこでただの念仏と申しても、三心具足の念仏でなければならぬと説かれたのであります。  下品下生  ところが法然上人が言はれるやうに「定善の門に入らんとすれば、則ち意馬あれて六塵の境に馳す」るのが我我の心の常であります。六塵というのは我々人間の目、耳、鼻、舌、身、意のはたらきによりて認識するところの境地のことであります。我々の心といふものは境によつて移るのであります。周囲の境遇によつていろいろに心は動くものでありますから、さういふ動く心をしづめることが困難であります。「かの散善の門に臨まんとすれば、又心猿遊んで十悪の枝に移る。かれをしづめんとすれども得ず。これを止めんとすれども能はず」悪るいことを止めることも我々の心では容易でありませぬ。定善と散善とをつとめなければならぬのであるが、自分といふものを見れば、その兩方がだめであると歎かざるを得ぬのであります。ところが「観無量壽経」に説かれてゐるところを見ると、下品下生のものが、浄土に生れる因といふものは、十悪五逆の衆生が臨終に善知識に値ひて具足十念、南無阿弥陀仏の名號を称へて往生すると説かれてあります。法然上人はこれが自分の心に相当する教であるとして専修念仏の義を立てられたのであります。  白木の念仏  かやうな意味で、法然上人の教といふものは、自分の力を見かぎりて、ただ阿弥陀仏の名を称へて往生することを信じて疑はぬといふので、その念仏はただの念仏であります。何等の助けをささぬのであります。他力にお任せするばかりであります。法然上人の弟子で、鎮西派の開山であるところの聖光上人が書かれたものを見ると「善導の御心は浄土へ參らんと思はん人は必ず三心具足して念仏を申すべし、念仏は決定往生の行なりと信ずれば自然に三心は具足す」と書いてあります。又西山派の証空上人の書かれたものを見ると「念仏を色どらず、中々に心を添へず、申せば生ると信じて南無阿弥陀仏と称ふるのが本願の念仏」であると言つて、それに「白木の念仏」といふ名をつけて居られるのであります。  世間超越  かういふ風にして考へてゐると、前に申した聖道の教は、すなはち、この世界で煩悩を断つて仏に成らうとするものでありますから、それはいふまでもなく、世間を超越しなければ出来ぬことであります。それ故にこの教では我々は出家して、日常の生活を離れなければ駄目であります。つまるところ、聖道の教は人間の世界を離れて世を救つて行かうといふ理想でありませう。  教團の成立  此の如き理想を主として、この世界で煩悩を断つためには、日常の生活を離れることが第一であります。そこで、山の中に入るかどうかして、浮世の生活を離れ、修行して仏にならうとするのでありますから、同じ志の人人が集つてお互に勉強をしなければ、その目的を達することが出来る筈がありませぬ。さうすると、その人々の集つてゐるところには、それを指導するものがなければなりませぬから、そこで教團といふものが出来るのでありますが、その教團の人々は人間の生活を離れて兎も角も仏に成るべき修行をするための専門家であります。その教團に居ない人はそれが出来ないから、全く取り殘されてしまつて、往生するのは世間を超越して厳粛の修行をする人だけに止まるのでありませう。  大乗仏教  しかしながら、此の如きは大乗仏教の精神ではありませぬ。大乗仏教は、一切の衆生が仏に成る道を説くのであります。世間に居つて世間のすべての人と一緒に仏になることを期するのであります。法然上人の教として説かれたものはそれであります。世間を超越して、自分のみが仏になればよいといふのではありませぬ。世間に生活して、世間の人々と一緒に仏に成らうとするのでありますから、師匠もあるわけでなく、弟子もあるわけでありませぬ。ただ仏の本願を信ずればよいのであります。世間を超越してさうして仏にならうとすればこそ厳粛の修行が必要でありますが、修行することの出来ない自分を投げ出してただ本願を信ずることによりて往生しやうと願ふのでありますから、特別の教団はなくてもよいのであります。ただ同行のものが集合して共に手を携へて浄土に往生することを期するのでありますから、その教団は前の教團とはまるでその意味の異つたものでありまして、世間の多くの人と離れては居ないのであります。それ故にこの意というものはまことに重大なものでありまして、その教團が世の中に出て来て、多くの人々がそれに動かされて仏の本願を信ずることが出来るのであります。かやうにして、法然上人の吉水の教団は段々と盛になりまして、多くの人々が教團に動かされて本願の念仏の教に入つたのであります。  親鸞聖人  吉水の教團に動かされて、本願念仏の教に入つた人々の中で、私が特にあげてここにお話をしやうとするのは親鸞聖人であります。親鸞聖人は吉水の教團に動かされて、本願の念仏の教に入られた随一の人であります。法然上人を中心とする吉水の教團が出来たのはその晩年、六十六歳の時であつたといふことでありますが、親鸞聖人が法然上人に就て教を受けられたのは甘九歳の時であつたと伝へられて居ります。親鸞聖人の「教行信証」と申す書物の中には「建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と書いてありますから、建仁元年、年廿九歳の時であつたと思はれます。親鸞聖人は早くから出家せられたのでありますから、それまでは何かほかのことをして居られたのでありませう。廿九歳の時、法然上人の浄土の教を聞かれて、さうして本願といふものが実に頼もしいものだと知られたとき、自分の力といふものはみな棄てられたのであります。それから後、深く本願を信じて、阿弥陀仏の教の本旨を明かにせられたのであります。  貴重の教  釈尊以来、種々の教が説かれて居ります。これは固より、皆貴重の教であります。しかしながら、その教はいかに貴重でも宗教とならなければ駄目であります。教は教としてそれを知ることも出来、考へることも出来、覚えて居ることも出来、人に向つてこれを話をすることも出来ますけれども、しかしながら肝腎の自分の魂が、それはいつ、導かれて行くといふことは出来ませぬ。まさかの時にその教が自分を導いてくれなければ、その教は何等役に立つものではありませぬ。しからばその教が自分のものになるといふことはまことに重要でありますが、それはどうすればよいかと申せば、それにつきて自分といふものの相をはつきりと見なければならぬことを第一に言はねばなりませぬ。たとへて申せば、向ふの方に景色のよいところがあつて、その景色のよい所に上つて居る人が、景色がよいから此所に来いと呼ぶとする。それは教であります。その言葉、聞いて景色のよい所に行かうとするのは、その教に從ふのであります。その教に從ふことはよいとして、しかし問題は、その言葉の通ほりに私がやれるかどうかといふことであります。此所は景色がよいから来いといはれても、自分が行かれなければ駄目でありますが、自分が果してその言葉の通ほりに行くことが出来るかを考へて見ねばなりませぬ。  自分の相  そこで自分の相をはつきりと見ることが必要でありますが、その自分を棚に上げて置いて、ただ徒らに希望のみを先に立ててつとめても、その希望は到底達せられるものではありませぬ。さういふ次第でありますから、教はいかに貴くても、それがそのまま直ちに銘々の宗教になることは決してないのであります。その教が自分の宗教となるのは必ず自分の相をはつきり見た時でなければなりません。自分の相をはつきり見ると、さうすると我我のやうな力の足りないものは、自分の力では如何ともすることが出来ない。自分のやうに智慧の浅いものはどう考へてもその考へによりては萬事を解決することが出来ぬといふことがわかるのであります。  内省と努力  釈尊の説かれたやうに道を修めて、涅槃の悟を開くといふことは固より貴い教でありますが、ただその教に從ふて道を修めるといふことに努力することは、その教を自分のものとする道ではありませぬ。なるほど、釈尊が道を修めて、涅槃の悟を開けと言はれることに從つて、道を修めて悟を開くといふことには間違のないことは明かでありますが、しかし、いかに努力してもそれが自分のものにならなければ何の役にも立ちませぬ。そこで重要なことは内省でありますが、内省を深くして見ると、釈尊の説かれた教が私自身のものになつたのは釈尊の説かれたことが、とても自分には実行することが出来ぬといふことであります。かやうに内省が深くなりて、自分の相が自分によく知られたときに、始めてここに真実の宗教の心のはたらきがあらはれるのであります。  浄土の法門  法然上人は、此の如くに、内省を深くして、自分の力にては到底及ばぬことを知りて、学問を捨ててただ念仏することによりて往生すべきであると説かれたことは巳に前に説明した通ほりであります。全く自分の相をはつきり見ての後にそれを見限つてのことでありますから、仏の本願に從ふて念仏することによりて浄土に往生するより外には別の法はないとせられるのであります。さうして、法然上人はこれを浄土の法門と言つて居られるのであります。  実行の方面  しからば浄土教にありて、実行の方面はどうすればよいかと申すと、それは仏の名を称へる外はないと法然上人は説かれたのであります。仏の本願を深く信じて後に専心に仏の名を称へることが起行であると申されるのでありますが、その称名は三心具足でなければならぬのであります。念仏はただのものでありますが、その心は至誠でなくてはならぬのであります。それも深く本願を信じて一心不乱に念仏を申すならば、それがすなはち至誠の心でありますから、別に自分の心を至誠にすることをつとむるには及ばぬと言はれるのであります。此の如き意味によりて法然上人の教は「往生の業は念仏を本と為す」と言はれるのであります。  信心為本  そこで法然上人の弟子の中には、「念仏すること」に重きを置き、念仏は一遍では駄目である、澤山に念仏を申さねばならぬといふやうな考へを起す人もありました。自分の相を内省することなしに、念仏が往生の業であると聞き取つたためでありませう。親鸞聖人も法然上人に就て、念仏為本の教を聞かれたのでありますが、親鸞上人は自分を内省することが徹底して居つたやうでありますから、「念仏すること」に対して「念仏する心」の如何が重要であることに気がついたのでありませう。そこで、「念仏を本と為す」の教が「信心を本と為す」と受け取られたのでありませう。「念仏すること」は我々の心の活動で、外方に向つてはたらくのでありますが、「信ずること」は自分の心の上にあらはれるところの現実の状態であります。親鸞聖人はこの状態を見て、そこに本願の貴きことを感知せられたのでありませう。親鸞聖人の考へられるところでは、我々が念仏する心の状態は、我々が自分の力を見限つたときにあらはるるものでありまして、それは仏の心が我々をして念仏せしめるのであると感ぜられるのであります。信ずるということも仏の心が我々をしてさうあらしめるのであります。これは自分としては自分の心は何等価値のないものであると知られたときにあらはれる心持であります。  弥陀教  それ故に「信心を本と為す」といふことは、一方にありては自分の心を全く捨てることであり、一方にありては仏の本願を疑はぬことでありますが、さうした心持になりて、そこにあらはれるところのものは、それが仏の光明に照らされたといふ感情であります。不思議の力に動かされたのであるといふ感情であります。いかにも不思議で、しかもそれは全く自分の心でないものであると知られたときに、それが他力であると言はねばならぬのであります。さうして、その他力が全く阿弥陀仏の本願に外ならぬものであると感知したときに、ただその本願に信順して念仏するの他には何事もなすべきものはないのであります。これを弥陀教と申すのであります。  本書に収載したところは多少の重複をそのままに、能ふ限り原の筆録の形を保つことに力めた。講演は初めより所見を筆録するものとは異なりて、その場で不意に考へついたことを述べる場合がある、との点に於て筆録とは別の興味があるとて、講演のまま、これに修正を加へることなく印刷に附することは、先生の生前に好まれたところであつたからである。本書の編纂並びに校正は、本研究所員月田寛寛、深澤欣、秋山不二、神保イツヨ、松江瑠、牧野睦の諸氏がこれにあたつた。なほ原稿の整理及び校正に就て、遠山諦観師の御教示に負ふところが少くなかつた。茲に記して謝意を表する。(監修者桐原葆見記之) 昭和十六年五月六日 印刷 昭和十六年五月十日 発行 中山文化研究所 右代表者 秋山不二 発行所 厚徳書